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2020年11月05日00:16

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11月5日の日記

今日の出来事:1517年−有田中井手の戦い、1550年−吉川家乗っ取り、1598年−慶長の役・順天城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:水口城の戦い、1953年−徳島ラジオ商殺人事件、1969年−大菩薩峠事件

今日は、有田中井手の戦いです。「西の桶狭間」と称され、毛利元就の初陣としても名高い戦いです。大内義興の支配下にあった武田元繁は、将軍・足利義稙を奉じて京都に出陣した際、これに従いました。大内氏の主力軍が在京中、安芸国で尼子経久の策略により紛争が続発したため、大内義興は旧守護・武田元繁を帰国させ、対応させる事にしました。大内義興は武田元繁の奮闘を願い、権大納言・飛鳥井雅俊の娘を養女として嫁がせました。帰国した武田元繁は、大内氏の主力不在の今が旧安芸守護職の権威を取り戻し、大内氏の属国の状態を脱する好機と捉えました。武田元繁は大内氏の息のかかった妻・飛鳥井氏を離別すると、尼子経久の弟・尼子久幸の娘を妻に迎えて、尼子の支援を受けて大内義興からの独立を宣言しました。そして、大内氏勢力圏への侵略を開始しました。まず、紛争の続いていた厳島神社の神領を接収し、城兵の逃亡した大野河内城を取得しました。さらに、己斐城を攻めて数ヶ月間包囲しましたが、落とせませんでした。一方、大内義興は、武田方である山県氏の一族(壬生氏・有田氏・今田氏)を牽制するために、山県郡有田への出陣を毛利興元と吉川元経に命じました。有田城を落とされた事で己斐城の包囲を解いた武田元繁は、その矛先を北へ向け、山県郡の大内側の諸城を攻撃し始めました。そんな中、毛利興元が死去し、わずか2歳の幸松丸が当主となりました。このため、叔父の当時20歳の毛利元就が後見役となりました。武田元繁はこれを好機と見ました。山県郡今田城に進出した武田元繁は、近隣の諸豪族を糾合するため、服属を呼び掛けました。すると日和見の国人衆が続々と馳せ参じ、三入高松城主・熊谷元直、八木城主・香川行景、己斐城主・己斐宗瑞らを主力とする5000余の兵力となりました。武田元繁は大内方の毛利氏と吉川氏らの勢力下にある、小田信忠が城主を務める有田城を包囲しました。籠城側は兵300で、小田信忠は降伏を申し出ましたが、拒否しました。武田軍の熊谷・山中・板垣らが600騎を率いて毛利領の多治比に出撃し、民家に放火して毛利方を挑発しました。毛利元就はすぐさま多治比猿掛城から150騎を繰り出し、武田軍を撃退しました。毛利元就は、吉田郡山城への救援を要請し、弟・相合元綱や桂元澄・井上氏・坂氏・渡辺勝・福原貞俊・口羽氏・赤川氏・粟屋氏・児玉氏らを主力とする毛利本家の700騎と、吉川氏から宮庄経友が率いる援軍300騎と合流して、武田軍に当たる事になりました。有田へ進軍した毛利・吉川連合軍は、武田方の熊谷元直が率いる500騎と対峙しました。連合軍は矢による遠距離攻撃で武田軍に対抗していましたが、挟撃を恐れて一気に熊谷勢に肉弾攻撃を開始しました。熊谷元直は連合軍を少勢と侮り、正面からの攻撃に終始しました。戦いの最中に熊谷元直は前線に出て、兵を叱咤していました。しかし、運悪く矢が彼の額を射抜きそのまま落馬、宮庄経友に首を取られました。このため、熊谷勢は勢いを失って潰走しました。この知らせを受けた武田元繁は激怒し、伴繁清・品川信定と手勢700程を有田城の包囲に残し、自ら主力を率いて毛利・吉川連合軍を迎撃しました。この時の武田軍は兵を5段構えに分けて備え、鶴翼の陣形を敷きました。連合軍は又打川まで進出しており、籠城していた小田勢も有田城から打って出ましたが、多数の武田勢に攻撃されて後退し敗走を始めました。しかし、毛利元就の必死の叱咤激励によって辛うじて踏みとどまり、戦線を押し戻し始めました。この状況に武田元繁は騎乗して自ら最前線に出て、又打川を渡ろうとしました。その時、渡河する武田軍に向けて毛利軍が弓の一斉射撃を行いました。武田元繁は矢を受けて又打川の河畔に転落し、討死しました。武田元繁を討ち取ったのは、毛利軍の井上光政でした。大将を失った武田軍は総崩れとなって今田城に撤退しました。今田城では、伴繁清・品川信定・粟屋繁宗らが退却して反撃の機会を待つべきと唱えたのに対して、香川行景・己斐宗瑞らは弔い合戦として再戦を主張して対立しました。翌日、香川行景・己斐宗瑞の両名は手勢を率いて毛利軍に突撃、壮絶な討死を遂げました。この戦いは後に、織田信長が今川義元の大軍を破った「桶狭間の戦い」になぞらえて、「西の桶狭間」と呼ばれます。武田氏の衰退と毛利氏の台頭となった戦いで、武田元繁や熊谷元直、香川行景らを失って大きく戦力を削がれた安芸武田氏は、勢力が急速に減退し、やがて毛利家によって滅ぼされます。初陣で旧守護・武田元繁を討ち取った毛利元就の名は、一躍有名になります。毛利元就はその後、幸松丸の夭折後に毛利家の当主を継ぐ事になります。

次に、吉川家乗っ取りです。吉川氏は藤原南家の血を引く名門です。吉川氏11代当主・吉川経基は、武勇に優れて文学にも親しみ、和歌にも造詣の深い、智勇文武兼備の武将でした。1460年、畠山政長とその一族・畠山義就との間での勢力争いが発生しました。吉川経基は将軍・足利義政の命を受けて、畠山政長を助けました。翌年、山名是豊に従って出陣し、畠山義就勢を河内国で打ち破る戦功を挙げました。1467年、「応仁の乱」が発生すると、細川勝元の率いる東軍に属し、西軍の山名宗全の軍と洛中にて壮絶な死闘を展開し、その勇名を全国に轟かせました。一条高倉、武者小路今出川、北小路高倉、鹿苑院口の各合戦に参加しました。翌年には細川勝元に播磨・福井庄を恩賞として与えられました。その後、細川勝元に従って畠山義就と京都相国寺付近で死闘を繰り広げました。戦いは畠山勢が優勢で、細川勢から逃亡者が続出しました。吉川経基は不利な状況でも配下を激励して陣地を死守し、畠山勢に反撃を加えました。この結果、細川勢は勢いを取り戻し、畠山義就を撃退する事に成功しました。その強さに対して「鬼吉川」の異名を取り、その勇名は全国に響き渡りました。この「応仁の乱」を共に戦った尼子経久の才を見込んで、娘を正室として嫁がせました。政久、国久、興久らが生まれています。「応仁の乱」の影響が日本全国に波及し、戦国時代へ突入しました。備後国内では和智氏、宮氏、山内氏らの国人勢力が、東軍の山名是豊を攻撃しました。将軍・足利義政の命により、吉川経基は山名是豊を救援して備後国人衆を撃退しました。この功に対して足利義政は、石見国佐磨、安芸国の寺原、有馬、北方、河合などの地を与えました。吉川氏の所領は山県郡の東北、可愛川流域の大半にまで及ぶ事となり、吉川経基は「吉川氏中興の英君」と呼ばれる事となります。その後も1482年に幕府の命によって河内に出陣、1487年にも播磨国の赤松政則の要請で、播磨に遠征して奮戦しました。1509年、82歳となった吉川経基は家督を嫡男・国経に譲って隠退し。1520年に93歳の天寿を全うしました。12代当主・吉川国経は、1507年に周防国の大内義興と出雲国の尼子経久が室町幕府12代将軍・足利義稙を擁して上洛した際に従軍し、1511年の「船岡山の戦い」にも参加しました。後に尼子経久が勢力拡大を図って大内義興と戦いを始めると、1517年から尼子氏に味方して大内氏の動向を伝えました。尼子経久の命により、毛利氏の取り込みの為に娘・妙玖を毛利元就に嫁がせました。13代当主・元経は父と共に「船岡山の戦い」に従軍しました。1517年、安芸武田氏当主・武田元繁が吉川領の有田城を攻撃しました。吉川元経は、弟・宮庄経友を派遣し、毛利元就との共同作戦による「有田中井手の戦い」で武田元繁や熊谷元直らを討ち取りました。その後方針を転換し、山陰の雄・尼子経久の傘下に入りました。1522年に吉川元経が死去すると、嫡子・興経の補佐・後見を吉川国経が行いました。吉川興経は、吉川元経が60歳の時の子で、「興」の字は大内義興より偏諱を受けました。祖父・国経の死に伴って家督を継承し、14代当主となりました。興経の家督相続時は安芸北部から石見南部にかけて勢力を張っていました。近隣の大勢力である大内氏と尼子氏が在地勢力を巻き込んで抗争を続けていましたが、吉川興経は、その時々の形勢によって大内・尼子両陣営の間で鞍替えを繰り返しました。1542年の「第一次月山富田城の戦い」では、大内氏を裏切りました。その結果、大内方は大敗して大内晴持、小早川正平、毛利家臣・渡辺通などを失いました。このような行動が他の国人衆だけではなく、叔父・吉川経世や家臣団の間でも吉川興経に対する不信感が高まりました。1547年、吉川氏の家臣団は吉川興経の叔母・妙玖が毛利元就の妻であるという縁故から、従弟で毛利元就の次男・元春を養子に迎えて吉川氏の家督を継がせました。1550年、吉川興経は強制的に隠居させられ、妻子と共に安芸・深川に幽閉されました。吉川興経は毛利元就に弁解の書状を出しました。しかし、毛利元就は吉川興経粛清の決意を固め、11月5日、隠居館を熊谷信直、天野隆重らに急襲させました。毛利元就は予め内応者を用意し、吉川興経の刀の刃を潰し、弓の弦も切らせていました。そのため、吉川興経は大した抵抗も出来ず、嫡子・千法師と共に殺害されました。この結果、吉川氏嫡流は断絶しました。墓所は吉川興経が最期を迎えた隠居館の一角に現存しています。

その次に、慶長の役・順天城の戦いです。「慶長の役」で渡海した日本軍は全羅道を制覇すると、順天郡の光陽湾奥部の沿岸に宇喜多秀家、藤堂高虎によって築城が始められ、完成すると小西行長に引き渡されました。順天城の完成後は、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の5氏13700人が在番しました。明・朝鮮連合軍は、朝鮮半島南岸の倭城群を攻略するため総力を挙げて一大攻勢を企画し、東路軍、中路軍、西路軍、水軍の4軍に編成されて南下を開始しました。この内の西路軍、水軍が順天に攻撃目標を定めました。西路軍は明軍21900人を劉綎が率い、朝鮮軍は5928人を権慄が率いました。水軍は陳璘が率いる明水軍19400人、朝鮮水軍7328人は李舜臣が率いました。明の西路大将・劉綎は漢城を出発し、水原を経て全州に下りました。劉綎は使者を水軍の本営・古今島に遣わし、陳璘に水路から順天城への攻撃を要求しました。まず明、朝鮮軍は謀略を用いる事とし、和議と称して会談を持ちかけ、そこで小西行長を生け捕りにしようとしました。劉綎は書状を小西行長に送り「明日、順天城付近で会見し講和を結ぶべし。そのため、私は自ら単騎で途中まで貴公を迎えにゆこう」と伝えました。小西行長は劉綎を信じて会見に向かおうとしました。これに対して松浦鎮信は「唐人は嘘偽りが多く、行けば必ず危うい。かつて平壌でも騙されたではないか」と諫止しましたが、小西行長は聞きませんでした。劉綎は会見場所に向かう途中の道に伏兵を置いて待ち伏せ、偽の人物を立てて小西行長を迎えました。要請に応じた小西行長は、平服で城を出て会見場所に向かおうとしました。そこを伏兵が待ち伏せていましたが、伏兵が起きるタイミングが早過ぎたため、この企ては失敗しました。そのため、正攻法に切り替えての攻城戦となりました。明・朝鮮軍は水陸両面から総攻撃を仕掛けました。城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃が激しく、多くの死傷者を出しました。また、日本軍は機を見て城から出撃して敵を斬り倒し、攻城具に火を放って焼き払いました。明・朝鮮軍は800余人の戦死者を出して撃退されました。また水軍による海上からの攻撃も撃退され、朝鮮水軍の蛇渡僉使・黄世得が戦死、薺浦万戸・朱義壽、蛇梁万戸・金聲玉、海南縣監・柳珩、珍島郡守・宣義卿、康津縣監・宋尚甫が負傷しました。劉綎は陳璘に「水陸共同で夜襲を決行すべし」と伝えました。陳璘は水軍を率いて夜半に城下に迫り、日本軍と攻防戦となりました。戦闘中に引潮となると、明水軍の唐船二十三隻が浅瀬に座礁しました。これを日本軍が炎上させました。明兵に死傷者や捕虜となる者が多く出て、生還した者は140余名に過ぎませんでした。朝鮮水軍でも安骨万戸・禹壽が弾丸に撃たれました。その後も、明・朝鮮の水軍による攻撃は継続されましたが、城の守りが堅く撃退されました。ついに包囲中の地上軍は撤退し、明軍は古順天に1万余を残し、劉綎自身は富有まで撤退しました。これにともない水軍も、海上封鎖を解いて古今島に撤退しました。明軍の退路上には投棄された兵糧が散らばっており、この幾らかは日本軍が戦利品として入手しました。こうして明、朝鮮の西路軍、水軍による「順天城攻略作戦」は失敗に終わりました。

その次の次に、関ヶ原の戦い:水口城の戦いです。豊臣政権の五奉行の一人・長束正家は、秀吉没後は石田三成に与して家康打倒の謀議に参加しました。家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に「会津征伐」の中止を嘆願しましたが聞き入れられませんでした。石田三成らと共に毛利輝元を擁立して挙兵しました。開戦当初に山崎家盛に欺かれ、池田輝政の妻子を大坂城に人質として抑留する事に失敗しました。陣代・家所帯刀、武者奉行・伴五兵衛らを将として「伏見城攻め」に兵を送りました。家臣の甲賀衆・鵜飼藤助の働きによって城内の甲賀衆を寝返らせる事に成功し、伏見城を落城に導く功を挙げました。その後、伊勢の安濃津城を攻略しました。しかし、伊勢方面の戦いでは少数の敵船団を家康の本隊と誤認して、退却する失態を犯しました。この後、弟・直吉に水口城の守備を任せて大垣城へと向かいました。「関ヶ原本戦」では毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣し、合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦し、池田輝政隊と銃撃戦を展開しました。しかし、吉川広家の妨害のため、毛利秀元や長宗我部盛親らと同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退しました。この時、島津義弘隊の撤退を助けるため、道案内に家臣を遣わしました。戦場離脱後は、水口城を目前に山岡道阿弥の率いる軍勢の攻撃を受けて敗走、弟・玄春が捕らえられて処刑されました。長束正家は松田秀宣の活躍で入城に成功し、籠城しました。寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束され、城から出たところを欺かれて捕縛されました。この時、重臣・嶺三郎兵衛、家所帯刀、伏兎彦之丞以下6人も入城した池田長吉軍に捕縛されました。捕えられた長束正家は弟・直吉と共に家臣・奥村左馬助の介錯で切腹しました。重臣6名も同日、近江日野で切腹させられました。 首は京都三条橋に晒され、財産は池田長吉に奪われました。地元古城山の阿迦之宮に霊が祀られています。池田長吉はこの功で、因幡鳥取藩6万石に加増されました。

そのまた次に、徳島ラジオ商殺人事件です。徳島県徳島市で発生した強盗殺人事件で、犯人とされた冨士茂子に対して刑の確定後に再審によって無罪が言い渡された冤罪事件です。日本初の死後再審が行われた判例となりました。1953年11月5日の早朝、徳島県徳島市でラジオ商の店主男性が殺害され、彼の内縁の妻であった冨士茂子も負傷しました。当初、徳島市警察は市内の暴力団関係者2人を強盗殺人容疑で逮捕し、内1人は犯行を自供しましたが、証拠が無く不起訴処分としました。その後検察は、ラジオ商の住み込み店員の証言から冨士茂子による狂言であると断定し、逮捕しました。1審の徳島地方裁判所は、冨士に懲役13年の有罪判決を言い渡しました。2審の高松高等裁判所は控訴を棄却しました。冨士茂子は上告しましたが、裁判費用が続かないため上告を取り下げ、懲役13年の実刑判決が確定しました。しかし、その直後に店員が検事に強要されて偽証したと告白し、真犯人を名乗る人物が静岡県沼津署に自首しました(不起訴処分となる)。冨士茂子は、模範囚として服役しながら再審請求を始めました(第1〜3次再審請求)。1966年11月に仮出所し、姉弟や市民団体の支援のもと再審請求を続けましたが、第5次再審請求中の1979年11月15日に肝臓がんのため死去しました。その後、冨士茂子の遺志は姉弟が受け継いで再審請求がなされました。徳島地方裁判所が再審開始を決定し、1985年7月9日に無罪判決を出しました。無罪の理由として「有罪の決め手となった店員の証言は誘導尋問によって導き出された疑いが強く、冨士茂子に男性を殺害すべき動機も無く、外部からの侵入者による犯行をうがかわせる証拠が多い」というもので、捜査機関の杜撰な捜査が糾弾されました。

最後に、大菩薩峠事件です。「大阪戦争」、「東京戦争」が失敗に終わった赤軍派は、「11月闘争」と称して刃物、鉄パイプ爆弾、火炎瓶等の凶器で武装しました。8つの部隊が大型ダンプカー等5台の車に分乗して首相官邸及び警視庁を襲撃し、人質をとって獄中の活動家等を奪還するという作戦を企てました。そのための武装訓練を大菩薩峠周辺の山中で行うため、山梨県塩山市の山小屋の「福ちゃん荘」に潜伏していました。11月5日早朝、警視庁と山梨県警合同の警察部隊が突入、その場に居た53名のメンバーが凶器準備集合罪で現行犯逮捕され、武器なども押収されました。逮捕されたメンバーの中には上野勝輝ら幹部や第六中隊長として森輝雄(現西東京市議会議員)もいましたが、幹部らの甘言により何も知らされずに動員された高校生も多くいました。また、裁判時には「反革命兵士も見つけ次第銃殺の刑にするのだ! 法廷は君達の戦うべき戦場にあるのだ! いたるところに、人民の手で法廷を創り出せ! 銃を持て! 銃が裁判権を持っているのだ!」などの冒頭陳述もみられました。事後の捜査によって議長の塩見孝也ら重要メンバーの多くに逮捕状が執行され、赤軍派は大打撃を受けました。これ以降、弱体化した赤軍派は日本共産党神奈川県委員会(通称・京浜安保共闘)と統合し、「連合赤軍」となり、「山岳ベース事件」、「あさま山荘事件」へと突き進む事になります。

今日の誕生日:幸徳秋水、海音寺潮五郎、ヴィヴィアン・リー、喜味こいし(元夢路いとし・喜味こいし)、富野由悠季、天地真理、Bro.KORN(バブルガム・ブラザーズ)、小林明子、春畑道哉(TUBE)、宮本慎也、玉城幸也(元DA PUMP)、真太郎(UVERworld)、把瑠都凱斗、田中聖(元KAT−TUN)、BoA、甲斐拓也、渡辺翔太(Snow Man)、小片リサ(つばきファクトリー)

今日の記念日:雑誌広告の日、いいりんごの日、縁結びの日、いい5世代家族の日、津波防災の日、いい男の日、いい酵母の日、おいしいあなごの日、ごまの日

今日の「今日訓」:本日は、この時期が「読書週間」、「教育文化週間」にあたるため「雑誌広告の日」、旧暦1854年11月5日に「安政南海地震」が発生した事から「津波防災の日」、「いい(11)りんご(5)」の語呂合わせで「いいりんごの日」、「いい(11)ご(5)えん」の語呂合わせで「縁結びの日」、「いい(11)ご(5)せだい」の語呂合わせで「いい5世代家族の日」、「い(1)い(1)おとこ(5)」の語呂合わせで「いい男の日」、「い(1)い(1)5(酵母)」の語呂合わせで「いい酵母の日」、「おい(1)しい(1)あな(0)ご(5)」の語呂合わせで「おいしいあなごの日」、「いい(11)ご(5)ま」の語呂合わせで「ごまの日」となりました。
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