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2020年11月02日19:03

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10月に見た映画 寸評(2)

●『82年生まれ、キム・ジヨン』(キム・ドヨン)
韓国でベストセラーになり、日本でも翻訳本が書店で平積みされていたチョ・ナムジュの小説の映画化。タイトルはその世代に多く付けられた名前から来ていて、ごくありふれた現代韓国に生きる一般女性を表しているとのこと。つまりキム・ギヨンはあなたかもしれない、というニュアンスがあるのだろう。
物語はそんな平凡な主婦のキム・ジヨンが家事や育児をしながらも、何か虚しさを感じる日々を送っている。そこへかつての上司が独立したので一緒に働かないかとの誘いがあり、ジヨンは仕事への復帰を望み、夫も受け入れたが、育児の問題が浮上してきて…というもの。この映画の巧いところは、そんな現在進行形のジヨンの物語の中で、ジヨンがふとした瞬間に、子ども時代や学生時代、以前の勤めていた会社員時代に体験した、自分が女であるがうえに嫌な思いをした過去の出来事が回想という形でたびたび挿入されることだ。さらにそのジヨンの回想から、ジヨンより上の世代の女性たちが当時の社会でどれほど耐え忍んできたかが展望できるようにもなっており、さながら「現代女性差別大全」みたいな映画になっているのだ。
そしてこの映画の中で描かれるジヨンのエピソードは、どれも日常的によくあるものばかりだ。それも韓国特有のものでもなく、日本をはじめとしたアジアの先進国なら普通に思い当たるようなことである。しかし、だからといって無視していいのかというとそうではない。むしろ日常化しているゆえに当たり前のように社会に浸透し、当の女性たちですらそれを受け入れてきた。そのことに対して疑問のスポットを当てるのがこの作品の狙いなのである。
それゆえに男である私からみれば居心地の悪い映画で、まるで男であることが罪であるかのようにすら感じてしまう。しかしこの映画の作り手は、単純に男を罰することが目的ではないようだ。それはジヨンの夫が心に病を患った妻を思いやり、一生懸命妻を理解しようと奮闘している姿(夫役のコン・ユ、好演)を描いていることからもわかる。従来の女性映画なら「妻に無理解で身勝手な夫」という設定にしていたはずだ。しかし、そうとはせず、夫の周辺世界の側からも男たちが女性差別についてどういう認識をしているのかという視点も描き出した。さらにジヨンの父親のエピソードで、ジヨンが高校を卒業し就職するとき、父親が「女は就職しなくていい」というようなことを言うと、速攻で母親からたしなめられ、黙らされる場面があったが、これなども親の世代の時点で変化が起こり始めていたことが描かれている(後半の漢方薬のエピソードも同様)。つまりこれは、女性たちが社会で嫌な思いをすることなく、共に暮らしていくために、男性はどうするべきか、どう変わるべきかという方向を示しているのだ。
他にもこの映画では女の生き辛さを描く一方で、優れた女性上司が独立して起業することができたり、夫の企業でセクシャル・ハラスメント防止の研修が行われていたり、男性でも育休が取れる制度があったり…少しずつ世の中は変わりつつあることが描かれている。これからもさらにもっと女性が過ごしやすい社会=世界に変わるよう、私たちは努力していかなければならないと思う。
最後に引っかかる部分が少しだけあったので書いておく。
一つは、日常的なエピソードであるが上に、単に「理不尽あるある」で消費されて終わってしまわないかという懸念だ。例えば最後の方の、ジヨンがコーヒーショップで「ママ虫」と呼んだ連中に言い返すところ。私はちょっとだけTVの「スカッとジャパン」を思い出した。私はあの番組を常々醜悪だと思っているが、原作が「女性たちの共感を得てベストセラー」というのもそういう陥穽が潜んでいるのではないかと、ちょっと、モヤってしまった。
あとヒロインであるジヨンの精神障害の部分。祖母の人格が憑依したジヨンが、自分の母親を抱きしめるクライマックスは感動的なのだが、そのための憑依設定だったのではないかという創作的あざとさが少しだけ私には感じられた。これは女性に対する日常的な差別や抑圧を描いたリアルな部分の方が際立っていたので、憑依の部分がいかにも創作くさく見えたのかもしれない。これも微妙なところだが。
<MOVIXあまがさき シアター1 I−4>

●『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』(石立太一)
TVシリーズの方は初放送時に見て、その美しい絵と物語にいつも泣かされていた。
だからこの劇場版も間違いなくいいだろうと思っていたし、実際見た人の評判も高かったので、安心して見に行ったのだが、見ていて「あれっ?」と思った。そんなによくないのだ。これは期待が大きすぎたのだろうか。ほとんど毎回30分枠で無駄なく簡潔に収められていた完璧な物語が、本作では140分の長さでずいぶん間延びして見える。一体どうしたのか。
気になる点は他にもある。本作は単独でも楽しめるという話を複数のネット情報から事前に得ていたのだが、物語は明らかに「TVシリーズの続編」なので見ていないとわからない箇所がたくさんある。もちろん単独で見てもなんとなくわかるようには作ってあるけれど、私が一番違和感を持ったのは、ヴァイオレットの人間兵器としての無双ぶりが一切ないことだった。TVを見ていた人は彼女の身体能力の高さを知っている。しかし、本作から初めて見た人はそこが欠落しているので、なぜギルベルト少佐がか弱い少女を過酷な戦場に連れて行ったのか、わけがわからないだろう。出航している船からいきなり飛び降りて大丈夫かよ! と思うことだろう(笑)。
ちょっとフザケてしまったが、さらに彼女が戦いでどのようにして両腕を失くし、どのようにして少佐と最後別れたのかもじゅうぶん描かれてはいなかった。セリフのよる説明やフラッシュバック的な一部場面の引用があって、なんとなくはわかるようにはなっているが、果たしてこの場面はなんとなくで済まされていいのだろうか。なぜならこのあたりは、後半、島を訪れたヴァイオレットと面会するのを拒む少佐の心情が理解できることに繋がってくるので、けっこう大きい欠落だと思うからだ。
では、どうしてそんな欠落が生まれたのであろうか。単に尺数の関係からTVシリーズからの引用は最小限度にした、とかいろいろ理由は考えられるが、やはり、どうしても頭によぎるのは、昨年7月18日に起こった痛ましい事件のことである。TVシリーズの方に関わっていたスタッフで命を失くし、この劇場版に参加できなかった人もいるだろう。だからもうヴァイオレットの兵器としての側面は描かれなかった。いや描きたくなかったのではないか。たとえ物語としては必要だったとしても、血や暴力はもうたくさん、という心境だったのではないか。かように現実で起こった悲劇の前で、フィクションは弱く脆い。
ともあれ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は本作で完結である。彼女の姿は切手になって残っていたように、亡くなられたスタッフの方たちの仕事も京アニ作品の中で永遠に残り続けることだろう。そして京都アニメーションはまた新たな旅立ちに向けて出発する。その健闘を祈りたい。
<あべのアポロシネマ スクリーン7 K−5>

●『マーティン・エデン』(ピエトロ・マルチェッロ)
ジャック・ロンドンの自伝的小説の映画化で、小説家志望者の話でもあるので興味深く見た。前半は船乗りで生計を立てている労働者階級の粗野な男が、上流階級の女性と出会ったことで学問に目覚め、小説家を目指す話でなかなか面白く見られたが、後半、小説家として成功(というか、政治思想家のトリックスターみたいな人物として成功)してからは、憧れの彼女と思想的に決裂し、孤高の道へ進んでいくというお定まりのパターンになって平凡な印象になった。
マルチェッロ監督は、元々はアメリカが舞台の原作を、すべてイタリアに置き換えて映画化したようだが、貴族社会や社会主義労働改革のくだりはイタリア映画特有の題材で、後半はほとんどその話がメインとなって進むので戸惑った。原作ではどうなっているのだろうか。
主人公を演じたルカ・マリネッリは大柄な体格で、マーティン・エデンの武骨さ、不敵さ、荒っぽさを体現していて魅力的。またヒロインを演じたジェシカ・クレッシーも青い瞳が印象的でよかった。
あとこれが一番感心したのだが、映像がものすごく凝っている。物語の時代が20世紀はじめということで、当時のモノクロのフッテージに加えて、スーパー16ミリで撮影されたにじんだカラー映像も使われている。おそらく主人公とその姉が幼少期にふざけて踊っている回想場面の映像だと思うが、メランコリックな感じがよく出ている。そしてそれに合わせたのだろうか、全編の映像もまるで70年代のカラー映画のような渋い質感で統一されていて、目を見張らされた。本当に美しい。
<テアトル梅田 劇場1 H−9>
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