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2020年10月23日00:11

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生活保護受給者の運動と国民の理解

生活保護受給者は、厚労大臣の裁量権で決める保護基準の枠内で生きてゆかねばならない。つまり最低生活基準があって、私の場合なら年金だけでは最低生活に達しない場合、憲法25条と生活保護法を根拠として、不足分を国家が保障する。その際、厚労大臣が決めるといっても、実際には社会保障審議会の生活保護基準部会の学者が答申して、形の上では厚労大臣が決める。しかし、2013年に公式統計で総務省が示した物価下落率2%強に対して、厚労省は生活保護受給者については4.78%の物価下落率を適用して、だから保護基準を4.78%分下げるとした。これが争点になって裁判をやっているが、そのときに厚労省はそれを基準部会の審議にかけずに、勝手に発表して強行した。この点も裁判の争点になっている。そもそも、生活保護基準の改定は物価ではなく、最終消費支出を基礎資料にすることになっていた。それをかってに物価を参照すること自体が、確認してきたことの独断的な変更になる。こう見てくると、何やら「日本学術会議候補の6人の任命拒否」と構造がよく似ている。政府が都合の悪いことはそれが通例であっても、はっきり「説明」することもできないような理由で「解釈による変更」をやってしまう。
しかし、こういう政府に対して異議申し立てをする生活保護受給者の方も、やり方に問題がある。共産党系の低所得者組織である「全生連=生活と健康を守る会」が生活保護受給者たちの運動を排他的に牛耳っているために、1950年代のような「窮乏化革命論」を引きづった「食わせろ!」運動しかできないからだ。だから名古屋地裁の判決でも、原告が「1日2色しか食べない。憲法違反だ」と主張しても、裁判長が「1日3回食べている受給者もいます」といえば、何とも反論できないだろう。そういう原告は「貧困」とは一体何なのか、それを自分で考えることもしない。例えば私は1日に3回食べているが、高齢独居で自炊ができず、栄養的に不十分な食生活をしているが、もし他の受給者が1日2回の食事でも(それを選択しないのに)自炊して、栄養を十分に考慮した食生活をしており、ときどきは友人と団らんしながら食事をするーというなら、必ずしも私の方が「健康で文化的な」生活をしているとは言えないだろう。食生活の目的は、栄養を取ることと友人・家族との良好な人間関係をつくる機会にすることとすれば、その点では私の方が「貧困」ともいえる。私の経験から言うと、生活扶助費で社会政治活動をやっていると、食費にまで活動費が食い込んでくることがあった。私の場合、党費・会費、機関紙代、その他いろいろな公式・非公式の負担が毎月1万円以上かかったからだ。だから、それは「健康で文化的な」生活をするための「社会的関係を保つ費用」、「市民の一人として必要な政治・社会活動をするための費用」として国に要求していくべきだろう。私だって組織はやめたが、参加したい団体もあり、定期購読したい出版物もあり、たまには(古本ばかりでなく)新刊書だって買いたい時があるが、そういう費用が食費に食い込んでくることだけは回避したいと思っている。「1日2回しか食事ができない。死ねというのか!」などという主観的・感情的な叫びは、国民の理解を得ることはできないだろう。
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