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2020年10月13日08:51

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ひめゆり平和祈念資料館ー33 証言


麻酔なしの手術を申し出る患者

●仲里<なかざと>マサエ(旧・豊里<とよざと>マサエー当時20歳
師範本科1年 第一外科壕

 陸軍病院動員の翌日、私と儀保(ぎぼ)トミさんの2人は滝沢鉄男衛生班長に、手術室勤務だと言って連れていかれました。七号壕(ごう)の丘の小道を登った所に三角兵舎の手術室がありました。
 20坪くらいの土間で、真ん中にぽつんと手術台があり、右奥(おく)に医療(いりょう)器具を入れる棚(たな)、左に包帯、ガーゼ、脱脂綿(だっしめん)など衛生材料と、薬品の棚が並んでいました。
 民間で使う水瓶(みずがめ)1つあり、手術用の水を入れます。その側に蒸気消毒器とガーゼや包帯、綿球(めんきゅう)などを消毒するステンレス製消毒器、手を消毒する昇香水(しょうこうすい)入りのホーロー引き洗面器などが置かれていました。

 まず上原婦長が私たちの仕事の説明をしました。手術用の水瓶に毎日一斗缶(いっとかん)4杯(はい)くらいの水を入れること。天井に吊るされたカーバイトランプの掃除。医療器具や衛生材料の木炭での煮沸(しゃふつ)消毒などだそうです。手術前に患者の包帯を解くのも私たちの仕事ですが、実際には包帯は血で黒褐色(こっかっしょく)に汚(よご)れ、血糊(ちのり)でこちこちに固くなっていましたので、鋏(はさみ)で切っていました。

 手術は敵の砲撃が途絶える夜間にしますが、照明はカーバイトランプでは足りないので、直径3センチくらいの大蝋燭(ろうそく)で軍医の手元を照らします。蝋燭持ちも私たちの仕事でした。人間燭台(しょくだい)と呼んでいました。溶(と)けたろうそくが手に流れて、もう非常に熱く、泣きたくなるくらいでした。
 その他、軍医や看護婦の額の汗拭(あせふ)き、切断する時その手や足を持つ仕事、汚物(おぶつ)や肉片の後始末など。これらがすむと綿棒や綿球つくりといろいろでした。

 4月、米軍が上陸すると間もなく三角兵舎の手術室は爆撃(ばくげき)を受け、手術室は掘(ほ)られた壕に移されました。壕の手術室は坑木(こうぼく)で組んだ天井に板もはめてはあったんですが、至近弾(しきんだん)が落ちると必ずパラパラっと天井板に土塊(どかい)が降るのです。「こんな所で手術が出来るか」と軍医は怒(おこ)っていました。

 陸軍病院であるのに赤十字の旗も立ててないのですから、病院であるのか陣地(じんち)であるのか誰(だれ)にも判別はつきません。患者たちは病院の場所を探しきれず、南風原(はえばる)を遠く過ぎた所まで行って、また引っ返したりして、重傷の身体を引きずりながらやっと辿(たどり)り着くという痛々しい状態でした。
 
 毎日夜を徹(てっ)しての手術ですから、立ちっぱなしです。日に日に患者は増えるばかりで。また直接前線から送りこまれますので、生傷の負傷兵だけです。そして手足切断の処置が多かったのです。私たちの仕事も日に日に忙しくなり、休む暇(ひま)もありません。

 手術で出た汚物の処理で外に出ようとした時ですが、通路は手術の順番待ちの前線からの負傷兵でいっぱいです。皆(みな)疲(つか)れ切っていますから動こうともせず通れません。それで私が切断した足を前に突(つ)き出して、「足が通りますよ」と言いましたら、皆驚(おどろ)いて道を開けてくれたこともありました。

 4月末頃、師範鉄血勤王隊(てっけつきんのうたい)の宮良英加(みやらえいか)という八重山出身の学生が入って来ました。右手を複雑骨折でした。傷が非常に深く、切断しなければならない状態でした。「切らないでくれ」と訴(うった)えていましたが、やっと納得させましたのに、いざ手術という段になって突然、「軍医殿(どの)、僕(ぼく)の手は再生しますか」と悲痛な声で聞くのです。すごく心が痛みました。その後、宮良さんは手術後の処置が悪かったため、とうとうガス壊疽(えそ)になって病院の南部撤退前に亡くなったそうです。

 戦況(せんきょう)が次第に緊迫(きんぱく)化するにつれて、見るも無惨な患者が増えていきました。火炎放射器で焼かれ、髪も縮れ皮膚(ひふ)も爛(ただ)れた人。脳症(のうしょう)になり、暴れて手のつけられない人。背中の傷が肺にまで達し、息するたびに血の泡がすーすー出る人。上衣の袖(そで)ごと腕(うで)をもぎ取られた人。顎(あご)の吹っ飛んだ人。手足のない人。器官が破れて息が喉(のど)からふうふう出る人など、そんな患者が増えていきました。

 麻酔剤(ますいざい)も足りなくなり、「麻酔なしでもよいです。早くお願いします」と申し出る患者が優先されるようになりました。その人は手の上はく部を切断する兵隊でしたが、油汗(あぶらあせ)をいっぱいかいて、手は強く握(にぎ)りしめ、歯もぷちぷちならして、さぞ痛かろうと思ったのですが
 「自分は帝国軍人(ていこくぐんじん)であります。痛くありません」
と息も絶え絶えに堪(た)える光景には胸が痛みました。

 その頃から麻酔なしの手術が頻繁(ひんぱん)になっていったのです。手足切断患者のほとんどが病院壕(びょういんごう)に移すまでには死んでいました。

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