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2020年10月11日08:45

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ひめゆり平和祈念資料館ー31


ウンメーチャーグヮーウサガミソーレー

●当間(とうま)久子(旧・金城<きんじょー>久)ー当時19歳 師範本科2年 第二外科勤務

 「天皇陛下万歳(ばんざい)」と言って兵隊は死ぬんだと聞かされていましたけど、実際はそうではありませんでした。死の前に思う事は、皆「お母(かあ)さん」ですよ。どの患者も家族のことしか話しませんよ。
 大阪出身の兵隊は瀕死(ひんし)の床(とこ)の中で、最期(さいご)まで奥さんとお子さんの写真を取り出しては、始終涙(なみだ)を流して家族のことしか話していましたね。
 通信隊に動員された一中3年の生徒は重傷でしたが、「僕は絶対死なないよ。お母(かあ)さんも姉(ねえ)さんも家で待っている。家に連れて行って。姉さん、僕は死なないよ」と、私にすがりついて死んでいったんです。3年といえば、まだ15,6ですよ。もらい泣きしましたね。
 また具志川(ぐしかわ)出身の防衛隊の方でしたけどね、傷口で蛆(うじ)がむくむくするもんだから、「包帯なんか捨てて。蛆虫を取って」と言うから、一つ一つ取ってあげていたんですが、とうとうガス壊疽(えそ)が脳にきて素(す)っ裸(はだか)で這い出て来て「水くれ。水くれ」と始終そこら中を走り回るんです。この人もうわ言のように故郷の話ばかり言い続けていましたよ。頭がおかしくなっていたんですね。
 「ウィジョーグヮーウンメー、チャーグヮー、ウサガミソーレー(上門のお婆<ばあ>さん、お茶をお上がり下さい)」と繰(く)り返し私に言い続けながら、亡くなったんです。

階級の厳しさ

●新崎(あらさき)元子(旧・玉城<たまき>元子)−当時16歳 師範予科2年 第二外科勤務

 前線から負傷兵がどんどん担架(たんか)や戸板で運ばれて来ます。すぐ壕(ごう)に入れて治療(ちりょう)すればよいのに、外でいちいち看護婦や婦長が、何部隊の何中隊、どこ方面どんな状況などと面倒な受付事務からやるわけです。
 壕の外で患者たちが受付を待っている間も、艦砲(かんぽう)はパラパラ飛んで来るんです。非常に危ないんです。早急な手当てを要する重傷患者たちだのに、危険な壕外にほったらかして、まるでそれが当たり前みたいな顔ですよね。
 同じ頃(ころ)、同じ十九号壕に少尉(しょうい)がいましたが、この人だけは特別に兵隊が2人も付き添っていたんです。負傷は足に軽いけがで、ほんとに座ったり寝たりで、食事を運ばすだけでなく、洗面まで世話してもらうんですよ。
 その頃には手のない人も沢山(たくさん)いて、自分でおしっこも出来ませんから、非常に嫌でしたけど、その世話まで私たちがするわけです。そして今考えるとゾッとするんですが、便の始末をしてあげたその手で、膿(うみ)や血のついた手で、今度はおにぎりを握(にぎ)って、兵隊も自分たちも食べていたんです。
 一般の兵隊にはろくな食事もなく、1日に小さなおにぎり1個だのに、少尉は料理も違うし、ちゃんとお膳(ぜん)にのせて持って来させるわけですよね。ちょっと階級が上だというだけでこんなにも違うのかと、理解出来なかったんです。
 軍隊というのはこういうものかね。不思議で、軍の階級の厳しさが納得出来ませんでした。

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