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2020年10月05日08:24

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ひめゆり平和祈念資料館ー28 証言


第三外科最初の犠牲者

●宮良(みやら)ルリ(旧・守下ルリ)−当時18歳
師範本科1年 第三外科勤務

 南風原(はえばる)の第三外科壕は南風原国民学校の道を隔(へだ)てた向かいにあり、勤務者の壕が1本、患者壕が6本でした。勤務者は鶴田基行軍医と長田紀春(きしゅん)軍医、看護婦は30名前後だったと思います。それに私たち生徒15名が玉代勢(たまよせ)先生に引率され、配置につきました。患者壕は奥行約20メートル。一本の壕に60名から70名の患者がぎっしり収容されていましたが、勤務者の壕から患者の壕まではかなりの距離があり、非常に危険だったので、勤務の交代は敵の砲撃がやむ夕食時間をみはからってしていたんです。
 5月の11日でした。弾(たま)が非常に激しく、水も弾痕(だんこん)に溜(た)まったのを沈殿(ちんでん)させて飲む位だったのです。勤務壕から患者壕への移動は玉代勢先生の引率でしたが、その日はなかなか弾の切れ間がなく、長田軍医が、「今出るのは危険だよ。もう少し待ったら」と言っていましたが、先生は「患者壕の生徒たちは、徹夜(てつや)の看護で疲れているはずだ」と意を決して生徒5名を連れて向かったのです。
 丘を越え、あとわずか10メートルぐらいという所で、迫撃砲の集中射撃にあったのです。皆パッと伏(ふ)せましたが、「やられた。お腹(なか)やられた」と言う島袋(しまぶくろ)ノブさんの叫び声でびっくりしました。私は前日から勤務を続け、交替(こうたい)の生徒の来るのを待っていました。
 島袋さんの叫び声を聞き、びっくりしました。壕を飛び出し駆(か)けつけました。弾は背中からお尻に抜けて、お尻はパッと裂(さ)け、脊髄(せきずい)がグチャグチャになって、腸も飛び出しているんです。お腹をやられて助かる患者はいないのを見てきたノブさんは「大丈夫よ。傷は浅いから」と言いながらも、「私はもう死ぬんだよ。注射を打っても無駄(むだ)よ。私に打つ注射は兵隊さんに打って頂戴(ちょうだい)」と言うんです。でもカンフルやブドウ糖など注射は続けられ、縫合(ほうごう)も進めていきました。「水が欲しい」と言うので軍医に聞いたら、見込(みこ)みないと判断したのでしょう。いいと言うので飲ませてやると、おいしそうに飲みました。
 「眠(ねむ)りたいから、少し寝かせて頂戴ね」と言い、皆の見守る中で静かに息を引きとったのです。

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