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2020年10月05日08:12

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キリシタン紀行 森本季子ー250 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー250

これは石詞だが、どれも神社に似せた様式で、注連(しめ)縄が掛けてあるものが多い。隠れキリシタンたちは形の上では仏寺の檀徒に組み入れられていたが、彼らのひそかな祈りの場所である各所の「塚様」は神式をとり、祭祀もすべて神事によったという。禁教時代のキリシタンに対して弾圧を加えたのは施政者と仏僧で、神官は直接関係しなかった。また、潜伏期にキリシタンの信仰対象の「天地のディウス様」がいつか「作神」(農耕の神)と一体になっていたところからも、神式がとられたものだろう。〈表面仏教に帰依した形をとりながら、極端に仏教に背を向けた潜伏キリシタンにとっては、当然のことであった)と浜名志松氏は指摘しておられる。
 ともかく、「塚様」の一つ、とまがう石詞がアルメイダ上陸地と言われる場所にあるのは、どういうことだろう。人目に付かない場所ではないし、新しいものでもない。どこかの山中で発見された遺跡を、アルメイダによって伝えられた河内浦キリシタンの記念として、近年この場所に運んで標柱を立てたものだろうか。
 「南蛮船泊地跡」という言葉が、「アルメイダ上陸地跡」の上に記されているのも気になる。アルメイダが南蛮船で来たわけでない。また浦内浦(羊角湾の旧名)の複雑な地形が湾の最奥部・河内浦まで南蛮船の入港を可能にするとは思われない。事実、南蛮交易船は天草氏領に寄港しなかった。標識の文字は観光用のものだろうか。それはともかく、ルイス・デ・アルメイダが河内浦に来た、ということが重大である。

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