胡亥が即位した年齢に関しては、始皇本紀に付載されている秦紀に、
「生まれて十二年にして立つ」
と書かれていることから、実は12歳だったという説があり、鶴間和幸教授も、12歳説を支持しています。
胡亥が即位時21歳であれば、始皇帝が29歳のときに生まれた子供ということになり、十数人の男子がいたのに、末子が生まれた年齢が29歳というのは、おかしいのではないか? むしろ、末子が生まれた年齢が38歳の方が、辻褄があうのでは?
だからぼくも、即位時の年齢は、12歳だったような気がします。
また、子嬰についても、子嬰が秦最後の王になった時点で、二人の子供がいて、趙高殺害の際、二人の子供も協力したことを考えると、二人の子供は幼少ではなく、かなりの年齢に達していたのではないかと思うのです。
それを思うと、子嬰は胡亥の兄の子ではなく、実は始皇帝の弟だったのではないかと考えています。
長兄扶蘇の享年はわかりませんが、始皇帝が享年49であると考えると、自決時の年齢は、29〜30歳前後だと思われます。
小説やまんがなどでは、「子嬰は扶蘇の子」と書いていることが多いですが、もし扶蘇の子供であれば、扶蘇の年齢から考えて、即位時の年齢は十代前半から半ばくらいであり、この年齢であれば、子嬰に子供がいるとしても、乳幼児です。
子嬰の二人の子供が、相当成長していると考えると、やはり始皇帝の弟と考えるのが妥当ではないでしょうか。
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