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2020年06月08日13:22

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キリシタン紀行 森本季子ー140 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー4

●天草一揆の道

 大矢野はまた天草一揆発生(寛永十四年・1637)の島でもある。原因は島原・天草地方の打ち続く凶作、飢餓と苛酷な重税だった。苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は凄まじいばかりで、出産であれ埋葬であれ課税の対象にならないものは一つもない。年貢未納者の刑罰の一つにミノ踊りというものがある。両手をしばり、ミノを着せ、これに火をつけて、苦しみもがく様を称したものである。餓死に追いつめられた土壇場で、まず島原の農民が一揆に立ち上がり、天草がこれに呼応した。この点、他の農民一揆と変わりはない。ただ、彼らの精神的支柱となったものに弾圧されたキリシタンの信仰があった。島原は有馬晴信、天草では小西行長ー共にキリシタン大名ーの時代に、領民の半数以上がキリシタンになっていた。
 彼らが筵旗の代わりに掲げたのは十字架の旗印である。一揆の象徴的リーダーは天草四郎。本名は益田時貞、十六歳の美少年と伝えられている。父、益田甚兵衛好次はじめ、四朗を取りまく参謀たちは、もと宇土城主小西行長の遺臣で、戦闘のベテランである。将軍家光の治世、寛永十四年(1637)秋、天草ではまず大矢野島の宮津で一揆が形成されてゆく。

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