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2020年05月17日02:01

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喜多尾浩代『そこふく風』番外編 立夏残春の朝に・・・

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闇が立ち上がった。

喫茶茶会記の奥の部屋は窓が開け放たれ、メインのイベントスペースからのぞくと、曇り空にも拘らず窓からの光が強く差し込んでいた。部屋は空だ。
しばし凝視していると、奥の部屋のテーブルの向こうでナニモノかが蠢き始めた。
蠢くものは徐々に起き上がり冒頭に記したように、起ちあがった。
闇は負としての意味は一切持たず、ただ存在する闇だった。
陰、あるいは裏と言い換えてもいいかもしれない。

闇(陰)はゆっくりと微かな動きをもって奥の部屋を移動し、イベントスペースへと進んできた。
その間私の眼に入ってくるのは強い外光にあぶりだされる陰そのものだ。

ほとんど照明のされていないイベントスペースと一体化するように、闇(陰)は暗がりに吸い込まれた、と私には見えた。

絵画の勉強を始めた時「陰影にこそ豊かな色彩がある」と言われ面喰ったものだが、同時に「モチーフの見えない裏側を描け」と教えられ、私は文字通り目の前が真っ暗になったことを今でも鮮明に覚えている。
物の存在感は実際には見えていない裏側が支えているのだとも言われた。

少なくとも私たちはあえて見えない裏側を見ようとしなくても、見えている光の当たっている表さえ見れば、物は見えているのだと了解しているが、実はそうではない。見えない裏側、光が直接当たっていない陰(暗部)こそがモノの実態なのだ。見えない裏側、陰、闇こそ見なければならない。それを表現(描く)しなければならないということらしい。

暗がりに吸い込まれた闇はそれでもかすかに動き、その存在を私に意識させ続けた。
やがて闇(陰)は、置かれている椅子の間を移動し、時に椅子と一体化して私の眼を驚かせる。
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さらに移動する闇は、イベントスペースから隣の喫茶室へ移動し、開放された入り口から差し込む光の中で闇であることをさらに私の眼に刻み付け、外光の中へと出て行った。
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喜多尾浩代が「身体事」として実践してきた表現行為が、新しい局面(近年の流行言葉ではフェーズというらしい)を迎えたと私は確信した。

細やかで見えない日頃気付かぬモノコト、そこをすくい取り情報として身体に取り込み、身体内感覚が呼応して、行為へと至り、同時にその時生まれる感覚を観客と共有する場を作り、それを享受することが「身体事」であると私は解釈してきた。
(私の解釈だから、多少の齟齬はあるかもしれない)
その時生まれる感覚が実態(闇、陰あるいは裏)を持ったのだと私は理解した。

いい瞬間に出会えたと思う。

※上記「闇」「陰」「裏」には比喩的意味はない。






 


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