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2020年05月02日19:04

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歎異抄

 『なぜ?からはじまる歎異抄』(武田定光)を読んで気になったところをあげておきます。なるほどと思ったこともありますが,理解に至らず未だ不可解なところもあります。時をおいてもう一度読んでみたい本です。

<以下引用>
P56
 門弟たちが懐いていた浄土往生とは苦しみ多い娑婆の生活を終え,この世を去る臨終のとき,阿弥陀如来や諸菩薩がやってきて極楽浄土へ迎えてくださるといったのもです。しかし親鸞は,その考えを断ち切るように「総じてもって存知せざるなり」と語ります。
 つまり,来るべき浄土を待望するのではないく,行き先を決める権利を手放せといっているのです。行き先は阿弥陀如来が決めることで自分ではない。おまかせした以上,そこが地獄だろうが浄土だろうが文句を言わない。たとえ地獄へ堕ちたとしても阿弥陀如来と一緒だから安心です。ここに地獄を恐れる必要のない宗教が誕生したのです。往生とは,どこへいくかという行き先の問題ではなく,<いま>阿弥陀如来に任せられるかどうかの問題なのです。

P61
 この絶望の淵の底から開かれてくるのが浄土の慈悲です。図式的になりますが,聖道の慈悲とは自己と他者の間の愛,浄土の慈悲は自己と阿弥陀如来との間の愛です。「浄土の慈悲」とは,悲しみの心を否定して,悲しまない者になることではありません。人間から悲しみを抜き去ることは不可能です。ただ,その悲しみの思いそのものをまるごと阿弥陀如来に任せなさいと迫ってくるものです。今まで身内を亡くして悲しんでいたものが,阿弥陀如来から悲しまれる存在に変わることです。人間の愛には限界があリます。その限界に打ちのめされ立ち上がれなくなったものをのみ,阿弥陀は無条件の愛で包み込みます。阿弥陀の愛は全人類を視野に入れています。ただ,それに目覚めるのはたったひとりの我が身自身なのです。

P62
 この世を生きているのは私だけです。私以外の人はすべて私の世界の住人にすぎません。この世は私だけの固有の世界だったのです。死んでいくのもひとり,生きているのもたったひとりです。
 現代の世界観は,大きな世界にたくさんの人々が住んでいるという世界観です。これは常識とまでなっている世界観です。じつは,これは一神教ん世界観です。この宇宙も世界もすべてたったひとりの神が造ったという世界観です。
 仏教は,その世界観は「仮の世界観」だと考えます。もしたったひとつの世界の中の住人だと考えると,他者が死んでいくのは,その大きな世界から,たったひとりだけ別の世界へ旅立ったという淋しい観念になります。私たちが死者を悼むときの観念は,そういう観念になっていないでしょうか。ひとりのひとが亡くなるというのは,一つの固有の世界がなくなったのです。それを他者が,悲しいとか寂しいと意味づけて推し量ることはできません。

P93
 自由は思いの中だけでしか成り立ちません。自由は予定や希望の中にだけあります。それが現実となってみれば,そこには宿業という受動性が横たわっているのです。私たちの思いは,どこまでいっても「はからい」ですし,「自力」以外にありません。ただし,この「はからい」があるからこそ,「他力にして,自力をはなれたる」という阿弥陀如来の叫びが聞けるのです。「思い」は自力であり,「身の事実」は他力で成り立っているのです。

P110
 唯円が「義」を立てて異義者を批判できたのは,指一本,真実にはふれ得ないという確信です。それまでの唯円は,自分が異義者を批判することが,義を立てることになり,それこそが親鸞の「無義」という教えに反するのではないかと躊躇っていたのです。
 ところが,真実には指一本ふれることができないのだと確信したところから,身を翻して自由に意義批判が生まれたのです。どこまで表現しても,真実を汚すことにはならないからです。

P130
 わたしは法事で読経が済んだ後,参詣者の方に向き直り,「読経の間,皆さんは何を考えていましたか」と問いかけます。すると皆さん戸惑われたような顔をします。それは両親の法事であれば,生前のご両親に思いを巡らすひともいるでしょう。しかし人間は尊い思いだけでなく,どうでも良いことも考える生き物です。法事の後の食事のことや今朝の取り止めもない口喧嘩を思い出してみたりと,思いは自分のコントロールを超えてはたらきます。そういう自分の思いを超えてはたらく作用をも含めて「宿業のもよおすゆえ」と唯円は語っているようです。

P173
 仏の智慧をたのめとは,「自分の心の価値観」を信じるなということです。それは「自分の心の価値観」をなきものとして破壊せよということではありません。この価値観なくして人間は生きることができません。ただ,この価値観に絶望し,どこまでも嘆いてくださる阿弥陀如来の慈悲に身を投ずること,それが「たのむべし」という命令を受けることです。永遠に「たのむ」ことのできない者に向かってのみ,永遠に「たのむべし」と命じ続けてくださるのです。
<以上引用>
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