ゴールデンウィークとは特別なものだ。
昔は、そんなに意識しなかった。
飛び飛びの休みがあり、その間の平日は、普通に学校に行っていたし、
働いていた気がする。
僕らは、5/4の間が祝日になったことと、土曜日が学校でなくなったのを機に、
ゴールデンウィークなるものが生み出された。
つまり、約1週間もの間、宿題とかあるかもしれないけど、基本"解放"を得るわけだ。
"解放"を得られたと、考えることになった理由として、やはり土曜日が休日扱いに
なったことが非常に大きい。この一日により、通常が2連休となり、
5/3,4,5の連休にくっつけやすくなってきた。
恐らくそれになってからおよそ25年くらいが経つだろう。
僕らは、その変遷を経てきた。何かに縛られる的な側面から、
急に解放された、1週間が目のまえに創り出されたのである。
非常に多くの活動、イベント、旅行、様々なものが生み出された。
今年、御存知のように、それらがほとんどないにも関わらず、
カレンダーはそのままとなっている。
僕らは、ゴールデンウィークを、ある種これまでと同じ、隔離された環境の中で、
"ただ過ごす"可能性が非常に高くなった。
皮肉な話だ。
束縛から解放された環境の中で、その開放は他の環境によって創り出された解放であり、
その解放を創り出してきた人たちまでもが、ある種、解放される。
"家の中"で。
これを特別といわずして何と言おう。
解放は、すべての解放ではなかったことに気づく。
本当の解放は、それぞれの人で時間軸をずらして、訪れる。
しかし、今回の解放は、家の中に閉じ込められるにもかかわらず、
これまでより、多くの人が、解放される。
なんと、滑稽な話か。
解放とはなんだったのか。
一番解放されているのに、一番閉じ込められているという、
二つの矛盾が共存する世界。
この特別なゴールデンウィークに、いよいよ本格的に突入する。
この矛盾した解放を、超えたとき、僕らはどうなっているのか。
果たして。。
外が暖かくなった。いよいよ上着もスプリングコートもいらなくなってきた。
でも、なんとなくだが、外はいつもと同じ風景があるように思う。
しかし、家のなかで解放されている人たちが、外にいない間、
恐らく、同じだった風景は、いままでにない風景に変わっているのだろう。
次に、僕たちが、家から解放されるその時まで。
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