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2020年04月06日07:25

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「夢をみせることは、夢をみていてはできない」(忘備録)

昔の日記を見ていたら、なかなか面白いことを書いていた。
忘備録代わりに引用したい。

***以下引用(自分の文)***

昔、遠藤周作が、突き詰めて言えば、病気をしていたとき、どん底の時、文学は救いにはならなかった、という意味のことを述べていたのを覚えている。

その時は、そういう覚めた目がありながら(あるから)、自身で作品を書いているのか、と思った。

ムラヴィンスキーも「音楽は人生に絶対に必要なものではない。でも音楽のない人生は不幸だ。」と述べている。
大家の何という謙虚な言葉だろう、そしてこの見解はおそらく正しい。

話しを活字に戻すと、僕は「人生を救う普遍的な一冊」というのはないと思う。
(「自分の中のバイブル」というのはあるかもしれない)

けれども、「活字」という存在には随分と救われている気がする。

大文学、哲学、宗教、そんな大げさな認識でなくても、新聞を読む程度でも、雑誌のエッセイ、帰りの駅の図書コーナーで手にした一冊で、ふっと心の風通しが良くなる時がある。

人から受け取ったメールもあるかもしれない。

それからこういう日記を書くという行為も、あるのとないのとでは、随分と違う気がする。

そいういわけで、作品としてあるものが必要ではないが、活字がないと僕の人生しんどい気がする。

音楽も同じで、ベートーヴェンがなくても生きていけるが(大丈夫かな。笑)、音楽そのものがないという状況は僕の人生はしんどいと思う。

***

反響があり、いろいろなコメントがあった。
「活字は力にならなかったけど、音楽なしの人生はない。」「ベートーヴェンぬきの人生なんてありえない。」「(自分の人生にとって)ショスタコーヴィチの音楽は救いになった」等々。

その中の一つを引用してみたい。

***

>私は、ショスタコーヴィチの音楽がなければいまの自分はないと思っていますが、もしかするとそれは、主観的に思っているほど重大な局面にであっていないからかもしれません。
ただ、「夢をみせることは、夢をみていてはできない」という言葉があります。遠藤周作とムラヴィンスキーの言葉は、創造するものに必要なある種の覚醒した眼を表現しているのかもしれないとも感じます。

***

「夢を見せることは・・・」に類することを、以前芥川也寸志が書いていたのを思い出しました。

 オーケストラの演奏で、舞台のうえだけが興奮していて聴衆が醒めているのは最悪。舞台の上と聴衆がともに燃え上がれば満足。しかし最高の演奏は、舞台の上は沈着冷静なのに聴衆が燃え上がるもの・・・というような趣旨でした。ムラヴィンスキーの演奏はまさにそんな感じだと思います。

ショスタコーヴィチの音楽がなければいまの自分はない、というのは、自分の実感としては本当です。もっというと、行き詰まったり苦しんだりしている局面で、彼の音楽に救われたと思ったことが何度もあったからです。その経験から、ごく個人的には、いわゆる「癒し系」の優しい音楽だけがほんとうの癒しになるとは限らない、と言う感想をもっています。彼の音楽は、自分といっしょに悩み、苦しんでくれる(非常におこがましいですが)と感じることができ、それが自分にとって救いになるのです。

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