薗田担著『無底と意志―形而上学 ヤーコブ・ベーメ研究』(創文社)補章「自由と悪―J・ベーメの〈無底〉をめぐって―」において、園田担氏は恩師・西谷啓治の最初期の著作である『神秘思想史』を引用しながら、ヤーコブ・ベーメの思想が持つ現代的意義を探ろうとする。
この西谷啓治の『神秘思想史』は、�狎祥凌脆觴腟舛亮舁廚蔑�れあるいはその代表的な類型として、プロティノス、アウグスティヌス、エックハルト、そしてベーメの神秘主義思想を取り上げ、それぞれの思想的特質と意義を極めて明快に、かつ余すところなく見事に開明した好著�瓩箸靴特里蕕譴討い襦�
著者である西谷啓治は、神秘主義の独自性や特徴を次のように論じている。
「自己の〈もと〉として見出される絶対者は、自己を超越し、自己にとって他者である。しかしながら、それはまた同時に自己の〈もと〉として、自己の内面にも見られ得る。そのとき、自己はこの〈もと〉によって初めて自己なのであり、〈もと〉に達するとき本来の自己に帰るのである。著者(西谷啓治)はこの事態を〈事故の根源は、同時に根源的自己に他ならない〉と言い表す。自己の根源(絶対者)においてあることが、同時に本来の自己においてあることと別ではない。超越的と見られるものは、同時に内在的なのである。こうして自己の根源と根源的自己、あるいは絶対者と真の自己とは、まったく二であるとともに生きた一であり、前者の姓名が後者へと流通することによって、後者は前者へ直接に合一することが可能となる。そして著者は、まさにこうした絶対者との生きた直接的な合一のうちに、神秘主義における體験と思想の中心点を見出し、その決定的な特質を見るのである。」
園田担氏は、このように西谷啓治が『神秘思想史』においていわゆる有神論的な思想(絶対者と自己の間にどこまでも間隙を考え絶対者に対してただ信仰という態度のみを許容する立場)からのみならず、汎神論的な思想(自己のみならずあらゆる個別者を絶対者の属性の様態に解消し、存在するのはただ絶対者のみと考える立場、スピノザがその代表的なものである)からも区別され、神秘主義の根本的な特異性が浮かび上がるとみなされると論じている。そしてそのような『神秘思想史』において西谷啓治はヤーコブ・ベーメの思想を重視している。その理由を次のように書いている。
「ここで注目されることは、それらの中でもとりわけヤーコブ・ベーメの思想が極めて重視され、重要な意義を見出されている点である。(中略)著者(西谷啓治)がここで神秘主義に関わる根本問題として取り上げた二つの問題点に由来していると見られる。その問題点とは、一つは人間と世界を含めたいっさいの存在の根源としての神に何処までも徹底的に遡源して、もはや単なる有ではなく無として見られるところまで到り、しかも人間が自己の窮極においてその無に立つと考える徹底した立場に立とうとするという意味で、神秘主義は神の絶対性とそこに立つ人間の超越的・絶対的な自由を探求し、確保するという点にある。そしていま一つは、人間と世界における悪の根源をどこまでも自己の内面に探り、善と悪へのいわゆる選択的自由の根拠を自己のうちに見出すという立場を開こうとするという点である。」
つまり西谷啓治はヤーコブ・ベーメの思想に、一方で神の絶対性とそれに基づく人間の超越的自由を確保しつつ、他方では根源的な悪の根拠への洞察をも示すという思想的可能性を最も強く見出していると、園田担氏は述べているのである。
「ベーメの意志―形而上学を前提とする人間的意志は、以上からも明らかなように、その根源において無底的意志に由来し、いわば〈無底〉に立脚するのであって、その絶対的自由はどこまでも超越的に確保されていると見ることができる。自己性(我あり)の根源は、あらゆる自己性、神の自己性をも超える無(無底)のうちに探られ、見出されているということができよう。ここに〈無底〉の思想のもつ根源性と独自性が十分に見て取られるであろう。しかしまた、そこから成立する自己性は、つねに我性または我意の成立と直結するものであり、いわゆる悪の根源をなすものであって、近世的ないし近代的な自我(Ich,ego)という在り方に対する根本的な疑問を提示するものでもあろう。ここにベーメの思想的意義が見出されるとともに、しかしまた近代的ないし現代的な自己の問題への結びつきの難しさもあるといえるであろう。」
園田担氏は、西谷啓治の『神秘思想史』におけるヤーコブ・ベーメを参考としながら、近代ないし現代哲学に対するその思想的意義を明らかにしようとするのである。
ログインしてコメントを確認・投稿する