「許せない」という感情を当然と言っている時点でダメだと思いますよ。
そういう感情は、誰しもが持ちえ、特に自分に近しい間柄の人が何某かの害があった場合、そういう感情を持つのは仕方がない事なのかも知れません。
ただ、そういう負の感情を持ち続ける、或いは、その感情の赴くままに言動を露わにするのって、社会生活を営む上で障害にしかならないため、幼いうちから、親から諫められ、学校に上がれば、教師から窘められ、
許す。
という行為を学んできたわけですよね。
その行為の過程には、
我慢、辛抱
があって、その姿は尊いと学んできたはずなんですよ。
ですが、その我慢や、辛抱で抑制できない、「許せない」と言う感情について、どのように抑制するか?と言うのが、大人の話になるわけですよね。
その、「許せない」という感情の行きつく先が戦争に至るわけですから、この感情を持つことを当然と言ってしまうのは大きな間違いなんですよ。
そもそも、自己の強い怒りを露わにすることが、日本で何時から是となったのでしょうかね?
強い感情を露わにする行為は、すべからく恥と言われてきていたはずなんですよね。
その恥ずべき行為を、ファッションとして行われているのが、加害者叩きなわけですよ。
罰する事に快感を覚えるとありますが、そもそも罪が何なのかすら認識が曖昧な人達に、罰と言う概念があるのか疑問なんですよね。
快楽を覚えているというのは同意しますが、快楽を覚えているのは「罰する」という行為ではなく、単なる嗜虐だと思いますよ?
しかも、絶対的な安全圏から、
社会的弱者=この場合は加害者
を一方的に責める事が出来るわけですよ。しかも多数派の意見に乗っかっている限り、否定すらされないわけです。
これの何処に、「正義」があるのですかね?
そこにあるのは、嗜虐嗜好を満足させ悦に入る単なる変態的嗜好だけだと思いますけどね。
更に言うなら、その根底にあるのは、イジメる側の思想で、しかも首謀者ではなく、同調者というみっともなさだけだと思うんですけどね?
繰り返しますが、これの何処に「正義」があるというのでしょうかね?
根本的な所で勘違いをしていると思いますけどね。
>>人は、なぜ他人を許せないのか?
そもそも、これが間違いの元で、本気で疑問に感じているのか?と思ってしまうわけですよ。
許せる人も世の中に居て、恐らく、そういう人が多いから、日本は戦後大きな争いも無く、平和ボケと言われるくらい安穏な生活を送ってきたんだと思いますよ。
許せない!という人が居たとするならば、それは単に心が狭いからですよ。
誰かを許すという行為は、自分自身の感情を抑え我慢するというのと同意語なんですよね。
一方的に人を攻撃し、自己の嗜虐嗜好を満足させる行為を正義と言い、その根幹にあるのを「許せない」という怒りと定義付けをしてしまうから、答えが明後日の方に行ってしまったのではないのでしょうか?
嗜虐嗜好を満足させたいという欲求の根幹になるのは、コンプレックスですよ。
自分が何某かの虐げられた状況にあり、その鬱屈した思いの発露の先として、弱者を選択しているに過ぎないだけです。
ですから、相手の状況はなんでも構わないわけです。
セクハラ、パワハラ上等の上司、犯罪の加害者、不倫をしている夫
その他諸々あるわけですが、見事にパターンが一致していると思うんですよね。
社会的に強者と思われている弱者。
これが標的なわけですよ。
この場合の弱者とは、言い返す事が出来ない立場の人と言う意味で、強者とは社会的な地位です。
普段の自分では文句どころか、目を合わせる事すら憚られる立場の人が、何かをやらかし、社会的な弱者の立場に一時的とは言え落ちてしまっている。
この状態をチャンスだと思う人が居るわけです。
繰り返しますが、これは正義なのですか?
一見すると分かりにくいですが、それは単なる弱い者イジメですよね。
ですから、立場が弱くても、社会的に保護されて一時的とはいえ強者の立場に立っている側は、ほぼ非難されませんよね?
バイアス云々と語っておりますが、そんな事は関係ないんですよね。
ネットによる偏った知識は、その状況下において展開される各種書き込みの中身に反映されているだけで、攻撃対象の判定基準には、恐らく何の影響も与えていないと思いますよ。
誰が弱者で、どちらの地位が高いのか。
判別基準をそこに求めている人間の何処に偏見があるというのでしょうか?
極めて冷静に状況を判断し、自分に帰って来ない、匿名でも十分効果を発揮できる相手を見極め、立場の弱くなった強者を一方的に叩き、蹂躙し、否定する事で愉悦を得ているだけの話です。
その行為を自ら「正義」と言っている人間が仮に居たとするならば、その人間は狂っています。誰かにそそのかされたのか、或いはそれこそネットの偏見で歪んでしまったかは知りませんが、自らの愉悦に浸る行為に、古今、正義であった例がありません。
仮にその手の行為が正義であるのなら、ヒトラーも正義の味方として受け入れてもらえますよ。
この行動から抜け出すのは、それほど難しくないと思いますけどね。
無抵抗な側を一方的に蹂躙する行為を
恥ずかしい
と認識するだけで十分だと思いますよ。
■不倫叩き、不謹慎狩り…他人を許せない“正義中毒”を、中野信子氏が斬る
(日刊SPA! - 03月31日 16:22)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=6029307
あなたは、どんなときに他人を「許せない」と思うだろうか。
「恋人や配偶者の浮気」「上司からのパワハラやセクハラ」「信頼していた仲間の裏切り」…。ここで生じる「許せない」感情は、自分や自分の近しい人が何らかの被害を受けたことに対する憤りであり、強い怒りが湧くのは当然だろう。
しかし近年、有名人の不倫スキャンダルやアルバイト店員の不適切動画の投稿、不謹慎だとみなされる行動など、自分とは関係のない人物・事象に対して「許せない」感情が集中するという現象が数多く見られるようになった。
◆不倫叩き、不謹慎狩り…「正義中毒」におちいった私たち
自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまう――。これは、なぜなのだろうか。
脳科学者の中野信子氏によれば、「我々は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っている」という。
「人の脳は、裏切り者や、社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです」(中野氏)
こうした状態を、中野氏は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼んでいる。この認知構造は、依存症とほとんど同じなのだという。
自分には何の被害もないのに、タレントの不倫スキャンダルを叩きたくなったり、不適切な動画の投稿などに対して、対象者が一般人であっても、本人やその家族の個人情報までインターネット上にさらしてしまうなどの「許せない」感情の暴走は、この脳の構造が引き起こしているのである。
「こうした炎上騒ぎを醒めた目で見ている方も多いと思います。しかし、正義中毒が脳に備わっている仕組みである以上、誰しもが陥ってしまう可能性があるのです。もちろん、私自身も同様に、気を付ける必要があると思っています」(同)
◆ネットで加速する正義中毒から抜け出す手はあるのか?
このように、誰もが無関係とはいえない「正義中毒」。しかし、他人を糾弾することで一時の快感を得られたとしても、日々誰かの言動にイライラし、許せないという怒りを感じながら生活をしていくのは苦しいものである。
「人を『許せない』という感情の発露には、脳の仕組みが大きく関わっています。許せない自分を理解し、人をより許せるようになるためには、脳の仕組みを知っておくことが有用なのは確かです」(同)
ここでは、中野氏の近著『人は、なぜ他人を許せないのか?』をもとに、「正義中毒」から抜け出し、人を許せるようになるためのヒントを探りたい(以下は、中野氏による解説)。
◆バイアス(偏見)は脳の手抜き
人間は誰でも、どんなに気を付けていても、集団を形成している仲間を、その他の人より良いと感じる内集団バイアスを持つものである。するとグループ外の集団に対しては、バカなどというレッテルを簡単に貼り付けてしまうのだ。ある集団にとって、グループ外の人々をあれこれ細かいことを考えず一元的に処理できるというのは、脳がかける労力という観点からは、コストパフォーマンスが高い行為といえる。「あの人たちはああだから放っておけ」とひと括りにしてしまうことで、余計な思考や時間のリソースを使わずに簡単に処理することができるわけである。
グループ外の集団の人々にも当然、個々にさまざまな違いがあり、その人の歴史や独自の考えもあるわけで、本来はその一人一人に対して丁寧に判断をしていく必要がある。しかし、このバイアスが働くと、手間をかけずに一刀両断できるのである。
「○○人とはそういうものだ」、「男性(あるいは女性)はだいたいそんな感じだ」などと、決めつけてしまうときには、気を付けた方がよいだろう。
◆ネット社会は確証バイアスを増長させる
SNSでは似たもの同士でつながることが多く、自分と同じような思考をするグループから、自分が欲している情報だけを取り入れ、受け取るようになる。日々それを繰り返しているといつのまにか、自分は正しい、自分の主張こそが正義だ、これが世の中の真実だと考えるように仕向けられてしまう。この現象を確証バイアスという。
インターネットの世界でのビジネスとは単純化すれば、広告媒体としてネットユーザーたちにいかに「クリックしてもらうか」である。そのために個々の検索の傾向を収集し、それに合わせて関心のありそうな情報や広告を提供する。ユーザー本人としては、毎日ネットの世界と接し、新しい情報を補給しているつもりが、しばしば自分の嗜好をもとに構成された、自分好みの偏った情報が示されているだけになってしまうのだ。
私たちがネットで新しい知識を得た、新しいニュースを知った、と思っていても、実はそれはフィルターにかけられた情報ばかりで、自分の世界は非常に限定的であるかもしれないということを、意識する必要があるだろう。
◆「なぜ、許せないのか?」を客観的に考える
まずは、自分が正義中毒状態になってしまっているのかどうかを、自分自身で把握できるようになることがとても重要だ。「このテレビ番組は馬鹿ばかしい」「○○党は許せない」「最近の若い連中はなっていない」などといった怒りの感情が湧いたときは、その感情を増幅させてしまう前にひと呼吸置いて、「自分は今、中毒症状が強くなっているな」と判断するようにする。
どんなときに「許せない!」と思ってしまうのかが自身で認識できるようになれば、自分を客観視して正義中毒を抑制することができるようになる。
◆ネットで知的偏食を防ぐには
個人の嗜好や考え方は「どんなキーワードを検索したか」「どんなニュースをクリックしたか」によって、かなりの確度で把握されており、そのデータはターゲティング広告の素材としても使われている。個々に好みやすい情報ばかりが表示されるため、仮想的な閉鎖環境にいるのと同様の状態に置かれたようになって、自分の嗜好とは異なる意見や情報に接する機会が減ってしまい、他者への共感や理解がますますしにくくなってしまうのだ。
そんなときは、あえて興味も関心もないキーワードを検索してみたり、普段は見ないようなニュースや記事を積極的に閲覧してみることをおすすめしたい。自分の属性とは離れた人の考え方、悩み、関心事などを検索することで、ネット企業のおすすめとは全く関係ない情報にあえて触れていくわけである。これによって知的偏食も防ぐことができ、場合によっては思わぬ新しい世界や知識を得られ、有益な思考パターンが学習できることもあるだろう。
脳に備わっている「正義中毒」という仕組みは、ネットの普及とネットへの依存により、さらに顕在化してきている。しかし、ネットは結局ツールに過ぎない。知的偏食を一層加速させ、「正義中毒」に溺れてしまうのか、その予防に使うのか、閲覧者の意識のありよう次第で変わってくると言えるだろう。
【中野信子氏 プロフィール】
東京大学工学部卒、同大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。2008年、フランス国立研究所にて博士研究員として勤務。2010年に帰国後は、執筆・テレビ出演などで活躍、著書多数。近著は『毒親: 毒親育ちのあなたと毒親になりたくないあなたへ』『人は、なぜ他人を許せないのか?』など
<文/日刊SPA!取材班>
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