mixiユーザー(id:48382454)

2020年01月11日00:49

98 view

1月11日の日記

今日の出来事:604年−聖徳太子が冠位十二階の制度を制定、1547年−足利義輝が将軍に就任、1851年−太平天国の乱:清国で洪秀全が率いる集団が武装蜂起

今日は、聖徳太子が冠位十二階の制度を制定です。「冠位十二階」は604年に制定され、605年〜647年まで行なわれた冠位です。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けました。604年1月11日に、「大徳」・「小徳」・「大仁」・「小仁」・「大礼」・「小礼」・「大信」・「小信」・「大義」・「小義」・「大智」・「小智」の12階の冠位が制定されました。冠は絁(絹織物の一種)でできており、頂を合わせて袋のようにして、その囲りに縁を着けました。元日にはさらに髻華という髪飾りを着けました。翌605年1月1日に推古天皇が冠位を始めて諸臣に授けました。誰に官位を授けるかを決める人事権者は、聖徳太子と蘇我馬子の二人でした。この時に始められた冠位制度は、天皇が臣下のそれぞれに冠(位冠)を授け、冠の色の違いで身分の高下を表すものでした。前代の「氏姓制度」と異なり、「氏」ではなく個人に対して与えられ、世襲の対象になりませんでした。豪族の身分秩序を再編成し、官僚制度の中に取り込む基礎を作るもので、政治上の意義が大きいものでした。647(大化3)年に「七色十三階冠」が制定されると、翌年4月1日に廃止されましたが、その後も何回かの改変を経て「律令制」の位階制度となり、遺制は現代まで及んでいます。
階と色は以下の通りです。
大徳(濃紫)
小徳(薄紫)
大仁(濃青)
小仁(薄青)
大礼(濃赤)
小礼(薄赤)
大信(濃黄)
小信(薄黄)
大義(濃白)
小義(薄白)
大智(濃黒)
小智(薄黒)

次に、足利義輝が将軍に就任です。足利義輝は、室町幕府第13代将軍です。第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれました。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となりました。幕府では父・義晴と管領・細川晴元が対立し、義晴はそのたびに敗れて近江坂本に逃れ、それに義輝も従いました。その後も父とともに京への復帰と、近江坂本・朽木への脱出を繰り返しました。1546年、足利義輝はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られました。この時の将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現・日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服して「義藤」と名乗りました。1548年、足利義晴は細川晴元と和睦して京に戻りました。この時、細川晴元も義藤の将軍就任を承諾しました。ところが、細川晴元の家臣・三好長慶が細川晴元を裏切って細川氏綱の陣営に転属しました。1549年、「江口の戦い」で三好長慶に敗れた細川晴元によって足利義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まりました。1550年、義晴が常在寺にて死去し、その後は堅田、朽木へ移りました。1552年、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻りました。将軍とは有名無実で、三好長慶とその家臣・松永久秀の傀儡でした。1553年に、細川晴元と協力して三好長慶と戦端を開きましたが敗退、再び近江朽木へ逃れて、以降5年間をこの地で過ごしました。なお、亡命中の15554年、名を「義輝」に改めました。1558年、六角義賢の支援で細川晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺いました。翌月、如意ヶ岳に布陣して三好長逸らの軍と交戦しました。一時期は六角義賢の支援を受けた足利方が優勢でしたが、三好長慶の弟・三好義賢の反攻を受け、さらに六角義賢から支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しませんでした。六角義賢の仲介により三好長慶との間に和議が成立した事に伴って、5年ぶりの入洛が実現し、幕府政治を再開しました。そして、伯父・近衛稙家の娘を正室に迎えました。三好長慶はなおも権勢を誇り、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに修理大夫に推薦されましたが、臣下として幕府機構に組み込まれました。三好長慶はたびたび暗殺未遂事件に遭遇しましたが、足利義輝の差し金であったと言われています。足利義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しました。1548年、伊達晴宗と稙宗(天文の乱)、1558年、武田信玄と上杉謙信(第三次川中島の戦い)、1560年、島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久、1563年、毛利元就と大友宗麟、1564年、上杉謙信と北条氏政と武田信玄など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行なって将軍の威信を知らしめました。また懐柔策として、大友宗麟を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許しました。さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門の足利輝氏などに与えました(前名の「藤」字は細川藤孝(幽斎)や足利藤氏・筒井藤勝(順慶)などに与えられました)。また、島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もありました。その政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」と評されました。このような経緯を経て、次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁、大友宗麟は鉄砲を献上しました。信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の上杉謙信との「川中島の戦い」が起きると、足利義輝は両者の争いを調停し、武田信玄を信濃守護に補任しました。武田信玄はさらに上杉謙信の信濃撤退を求めると、足利義輝は上杉謙信の信濃出兵を認め、信玄に駆逐されて上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じました。1558の足利義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続きましたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、一族の三好義賢が戦死しました(久米田の戦い)。こうして、三好氏に衰退の兆しが見え始めると、1562年に三好長慶と手を結びました。幕政を壟断していた政所執事・伊勢貞孝が三好長慶と反目すると、足利義輝は三好長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事としました。これに激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしましたが、三好長慶の手で討たれました。これによって、将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、将軍による政所掌握への道を開きました。さらに1564年に三好長慶が死去すると、政敵が消滅した足利義輝はこれを好機として、幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとしました。しかし、三好長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と「三好三人衆」にとって、足利義輝は邪魔な存在でした。そのため、足利義稙の養子・足利義維と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立しました。足利義輝が頼みとする近江六角氏は1563年の「観音寺騒動」以降、領国の近江国を離れられなくなっていました。1565年、松永久秀と「三好三人衆」は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こし、二条御所に軍勢を率いて襲撃しました。これが「永禄の変」です。足利義輝は奮戦しましたが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害されました。享年30でした。この時、摂津晴門の嫡子・摂津糸千代丸も一緒に討たれました。また、足利義輝の生母・慶寿院も殉死しました。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」です。

最後に、太平天国の乱:清国で洪秀全が率いる集団が武装蜂起です。広東省花県の客家出身である洪秀全は、度々院試(科挙の初期段階)に失敗したため、約40日間病床に臥せっていました。その間、不思議な夢を見ました。その夢とは上帝・ヤハウェと思われる気品漂う老人から「破邪の剣」を与えられ、イエスらしい中年の男から妖を斬る手助けを受けたというものでした。洪秀全は病が癒えてから広州に受験で訪れた際、そこでプロテスタントの勧誘パンフレット「勧世良言」を入手し、以前に見た不思議な夢の意味を「理解」し、キリスト教に目覚めました。この不思議な夢とキリスト教の接合は、ロバート・モリソンが聖書を翻訳する際にゴッド(God)を音で表記せず、「上帝」という訳語を与えた為に起こりました。洪秀全はキリスト教の教えの中でも特に上帝が唯一神である事を強く意識し、偶像破壊を熱心に行いました。元々、多神教的な土地柄である中国では儒教・道教・仏教にまつわる廟が多くありましたが、それらを破壊して上帝だけを崇める事を求めました。そのため、郷里の広東省での布教活動は、一族と数人の賛同者を得ただけで成功しませんでした。洪秀全は効果的な布教方法を模索し、「原道救世歌」や「原道醒世訓」という布教文書を著しました。1847年、太平天国の前身組織「拝上帝会」を広西省桂平県金田村に創設しました。数少ない賛同者のひとり、馮雲山が布教活動を行って約3千人の信徒を獲得し、洪秀全を迎えて立ち上げたものでした。「拝上帝会」の参加者は、炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などの低階層が中心でした。郷里花県では成功せず、この桂平県で成功した大きな理由の一つに病調伏等の現世利益重視の布教がありました。単なる宗教的熱意や倫理を説くばかりでなく、現在の生活でのメリットを強調する事で馮雲山は多くの信徒を獲得したのでした。しかし組織の拡大は、公権力やその土地の有力者との摩擦を生じさせました。馮雲山をはじめ「拝上帝会」の成員の逮捕が相次ぎ、洪秀全はそれまでの宗教活動から政治革命へと踏み出す事を決意しました。1850年、「拝上帝会」は金田村に集結して「団営」という軍事組織を結成しました。そこでは厳しく男女を別ち、それぞれ「男営」、「女営」に入営させました。これ以前より、鵞鳥の鳴き声でカモフラージュしながら鉄砲や大砲等の武器を密造し、革命の準備を進めていましたが、金田村に集結する過程で清朝の軍隊や自警団との小競り合いが発生しました。金田村に集結した人々は1万〜2万でしたが、このうち成年男子は3千人ほどでした。しかし、それでも数倍もの清軍を打ち破り、革命の火蓋を切りました「金田蜂起」。1851年1月11日、金田村で「拝上帝会」は国号を「太平天国」とし、洪秀全は自身を「天王」と称しました。こうして、「太平天国の乱」がはじまりました。

今日の誕生日:光明天皇(北朝第2代天皇)、後円融天皇(北朝第5代天皇)、山岡荘八、鈴木善幸(第70代内閣総理大臣)、岡田茉莉子、江利チエミ、河原崎長一郎、ちばてつや、大出俊、輪島大士、氷室冴子、中井義則(ゆでたまご)、内海光司(元光GENJI)、宮下直紀、深津絵里、持田真樹、松岡昌宏(TOKIO)、浜口京子、あさみちゆき、ミルコ・デムーロ、清木場俊介(元EXILE)、楓(E−girls、Happiness)、チーバくん、磯野フネ、恩田すみれ

今日の記念日:鏡開き、蔵開き、塩の日、UNO(ウノ)の日、マカロニサラダの日、樽酒の日

今日の「今日訓」:本日は、正月に年神様に供えた鏡餅を雑煮や汁粉にして食べ、一家の円満を願う「鏡開き」です。「鏡開きの日」から「樽酒の日」、商家などでは、新年初めて蔵を開き、商売繁盛を祈る「蔵開き」です。上杉謙信が、塩不足に悩む交戦中の武田信玄に塩を贈った「敵に塩を送る」という言葉の語源となった日で、この事から「塩の日」、「UNO(ウノ)」は数字の1を意味することから「UNO(ウノ)の日」、マカロニの形が数字の1に似ている事から「マカロニサラダの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する