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2020年01月09日08:53

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キリシタン紀行 森本季子ー8

●水の浦教会

 次の巡礼地は水の浦教会である。玉之浦沿岸の道を引き返し、中須郷の分岐点から河原浦、布浦などの海岸を北上。貝津から三井楽  三井楽半島の北端、柏は遣唐使最後の風待港で、ここからいっきに東シナ海へ乗り出したのである。平安時代の造船、航海技術や気象知識では東シナ海の渡船は大難事である。遭難が相次ぎ、帰らぬ人が多かった。

 いずことか音に聞くみみらくの 島がくれにし人をたづねむ
           (「蜻蛉日記」藤原道綱の母)

 みみらくは三井楽で、この世の最果て、ここから先は幽界であり、亡き人に逢える地、と平安期の人には思われていた。(中略)
 三井楽、水の浦あたりのカトリック信者のほとんどすべてが、寛政年間に大村藩外海地方から移住した隠れキリシタンの子孫だという。M神父がその一人である。

 慶応二年の頃、水の浦のキリシタンは長崎の大浦にフランス寺の建ったことを知った。代表者が早速長崎に渡って、プチジャン師と連絡をとり、正統信仰に帰った。同年降誕祭の夜、水の浦の信者が帳方、久三郎の家に集まった。
 従来の習慣により夜半までお伽徹夜をし、十二時過ぎからオラッショを始めている所に、入口源太夫という足軽が突然踏み込んだ。翌日になるとキリシタンは残らず岐宿の役場に出頭を命ぜられた。(「五島キリシタン史」浦川和三郎)

 棄教の強制である。が、一人として応じない。翌日、足軽たちが水浦久三郎方に押しかけ、座敷と納戸の壁板を剥ぎ取り、直径二寸ばかりの丸太を格子型に打ち付けて仮牢に引直した。(前掲書)
 三十余名がこの急造牢に押し込められた。一月になると姫島、楠原の信者もここに入牢した。彼らに加えられた拷問の苛酷さは、前掲の「五島キリシタン史」に詳述されている。人間の肉体の耐えうるところではない。口先だけの改宗を申し出た。が、帰宅と同時に「クーキャ(後悔)」し、コンチリサンを唱えて罪の赦しを祈ったという。その心中の苦悶はどれほどだったろう。このような迫害は全五島のキリシタンほとんどに加えられた。私たちはその苦難の跡を巡礼しているのである。

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