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2019年12月29日12:55

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ゼミナール・『宗教とは何か』

授業を終えられた西谷啓治先生が大谷大学の正門前で交通事故に遭われたのは、1986年6月23日のことであった。その日は、西谷先生の授業が終わる頃になって雨が強く振り出したことを記録している。

西谷先生が交通事故に遭われたというニュースは各新聞などでも報じられたが、西谷先生の授業に出ていた学生の間では、西谷先生が86歳という高齢でおられるということもあって、もう西谷先生の講義は聞けなくなるのではないかという寂しい噂が流れた。そのことは噂などではなく、そうなるものだと誰もみんなが覚悟していた。

しかしそのような噂を打ち消したのは西谷先生ご自身であったのだ。西谷先生は交通事故の治療を終えられて、約一年ぶりに再び大谷大学の教壇に帰って来られたのである。西谷先生は以前と何らお変わりになられることなく、椅子に座られることなく、立ったままで2時間半に及ぶ講義をされた。ただ以前とお変わりになられたことは、西谷先生はいつも洋服で大学に来られていたが、和服で来られるようになったこと、そして手にスケッチを持たれるようになったということだけであった。

ある日講義を終えられて教員控室に戻られた西谷先生は、かつてドイツに留学されていたことの思い出を話してくださった。とくにハイデッガー教授の許で経験されたゼミナールの様子を話してくれた。

ハイデッガー教授のゼミナールは、一つの決められたテキストののもとでそのゼミナールに出席している学生たちが自由に討論し、その討論に関してハイデッガー教授が意見を述べ、問題点を指摘する形式で進められるということであった。もちろんこのようなゼミナールの形式がドイツでの大学院における伝統的なものであったらしいが、西谷先生はそのようなゼミナールの様子を懐かしく話してくださった。西谷先生は以前から大谷大学で行われている講義も、ドイツで行われていたゼミナール形式でできないものなのかと考えられていたようである。

西谷先生は大谷大学の大学院の授業を、西谷先生が一方的に講義をするということではなく、ハイデッガー教授の許で経験されたゼミナールのような形式で行えないものかと,しきりに考えられていたようであった。そしてその時も何かテキストを決めて、そのテキストに関する学生たちの自由討論という形式で授業を行ってみたいと提案された。

その時そばにいたわたしに、
「何か読みたい書物はないかね。」
と聞いてくださった。

その時咄嗟にわたしの脳裏に浮かんだのが「西谷啓治著『宗教とは何か』」であった。
「何で良いのですか。」
と、わたしが西谷先生に問い直した。
「何でもいいよ。」
「本当に何でもよいのですよね」
と、少し徒っぽい顔をしているわたしに
「何だね。」
と、西谷先生は少し怪訝そうに言われた。そこでわたしは、
「西谷啓治先生の『宗教とは何か』です。」
と申し上げた。
すると、
「しかしあれは・・・・・・・・」
と、西谷先生は困ったなあという顔をされた。
「でも先生は何でもいいって言われたじゃあないですか。」
その時の西谷先生とわたしのやりとりは《先生と学生》ということよりも《お爺さんと徒っぽい孫》といったふうであろう。

二人のやりとりを横で見ていた堀尾孟先生も膝を叩いて
「今日は野島の勝ちだな」
と、言って笑われたことを覚えている。

その後西谷先生の授業に出席している他の学生たちみんなもわたしの提案に賛同してくれて、「ゼミナール・『宗教とは何か』」が始まったのである。

西谷先生に何か読みたい書物はないかと聞かれたとき、わたしの脳裏には西田幾多郎の『善の研究』もあった。しかし西谷先生に読んでいただけるのならば、西谷先生の主著である『宗教とは何か』を読んでいただきたいという思いが強くあった。

『宗教とは何か』という著作は、西谷先生ご自身がかかれているように、「近代という歴史的境位の根底に潜んでいると思われる問題を通して、人間存在の根底を掘り返し、同時に《実在》(リアリティ)の源泉を掘り返すという、そういう意図のもと」において宗教を問題とする著作であり、プラトンやアリストテレスといった古代の哲学者からアウグスティヌス、エックハルトといった中世の哲学者、デカルトやカントといった近代の哲学者、そしてハイデッガーやサルトルという現代の哲学者までの、西洋哲学の流れの根底に潜む問題を問い直し、そこからわたしたちが生きている現代という《歴史的境位の根底に潜んでいると思われる問題》を明らかにしている。

それゆえに、「西谷啓治著『宗教とは何か』」という著作は、現代の哲学・思想界や宗教界を問わず、あらゆるところで世界的に問題とされているのであり、ハイデッガーの『有と時』と同様に現代世界を揺るがす今世紀最大の哲学書の一冊であることは言うまでもない。

このような世界的な著作を著者自身にゼミナールという形式で読んでいただけるということは、いま世界のどこで哲学を学ぶものより最寄り哲学の本質を学ぶ機会が与えてもらうことであるように思えたのである。

このようにして西谷先生の授業は、西谷啓治先生ご自身の著作である『宗教とは何か』をテキストとすることになった。授業は、テキストの緒言から学生一人ひとりが一節毎を要約しその一節での問題点を発表しその節に対する疑問点を発表するという仕方で行われて行った。西谷先生の授業に出席している学生は単に哲学を専攻する者だけに限らず、真宗学や仏教学を専攻している学生、そしてまた京都大学のオーバードクター、留学生など様々な人が出席していて、出てくる問題点も疑問点も大変広範囲に及んでいた。

しかしそのことは、『宗教とは何か』という著作を読みそこに論述されている事柄を把握することがわたしたち学生にとっていかに困難でいかに悪戦苦闘しているのかということを示すとともに、この著作が如何にわたしたちの足下に潜んでいる広範囲な現代の歴史的課題を問題としているのかということを示しているということでもあったように思われるのである。

ある日の授業で、キリスト教と近代の無神論(とりわけ無神論的な実存主義)との問題、西谷先生はその問題を《主体的な無神論にまで徹底された人間の自由》と《従来のキリスト教に現れて来るような宗教的自由》というような相排除する二つの立場が何等かの仕方で止揚されねばならない問題として論述されているが、そのような問題が論じられた時、西谷宗教哲学はキリスト論をどのように考えられるのかという問いが西谷先生ご自身に学生から質問された。

この�狎消�宗教哲学はキリスト論をどのように考えるのか�瓩箸いμ簑蠅蓮�単に授業の一コマということだけではなく、『神と絶対無』等の著作を通して広くキリスト教界からの、西谷先生に対する質問でもあったと聞く。

その時西谷先生は、
「キリスト論は一体どこで論じられているのか。そしてそのキリスト論の論じられている事柄は現代の我々にとってどのような問題なのだろうか」
と、反対に問い返された。

西谷先生からの問いかけに一瞬にして教室は静まり返り、だれ一人その問いかけに答えられる者はいなかった。あまりにも大きく深い問いかけであった。

あのときの西谷先生の問いかけは、今日のキリスト教が現代を生きるわたしたちにとって真に救いとなり得るのか否かを問われたことであり、単にキリスト教界のみならずわたしたちにとっても大きな問題であったであろう。

討論にひと段落がつき、授業が終わろうとしていると、「これは、朴が昔書いたものなんだけれども、難しい問題ばかり書いているね」と、まるでだれか他人が書いたかのようなことを言って笑っておられた。そしてわたしにはいつも西谷先生が指摘される問題の本質をノートすることができないままに時を過ごしてしまったという思いだけが残されたのである。


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