いまから四十数年前、学生時代に初めて書いた小説を、高橋さんという作家に読んでもらったことがある。高橋さんはぼくの小説をチェ-ホフの「黒衣の修道僧」という小説を彷彿とさせる、と激賞してくれた。ぼくもチェ-ホフもドッペルゲンガー(「自己像幻視」)を描いた作品として類似していた。
チェ-ホフの文学の最大のテーマは「人と人がわかりあえるか」ということだった。チェ-ホフはそのときどきで「やはりわかりあえない」と絶望的になったり、「わかりあえる」という希望的観測に立ったり、揺らいでいたのだ。
文学はすべて揺らぎの中にある。鎌倉文士で芥川賞作家の中山義秀の作品がまさにそうだった。善人だった人物が突如、悪人に変容したり、一筋縄ではいかない。善と悪、聖と邪など常にせめぎ合い、揺らいでいる。
ぼくの恩師の朝日新聞の学芸部の名物記者にして鎌倉山教会の牧師だった門馬義久先生は義秀が亡くなる前日、本人から乞われて洗礼を授けた。
このシーンは山田風太郎が『人間臨終図鑑』(徳間書店)の中でも描いている。
八月十八日、彼は見舞いに来た友人の門馬義久に、突然「洗礼をやってくれ」といった。門馬は朝日新聞学芸部の記者であったが、また牧師でもあった。
門馬は自分がその任でないことをいい、また洗礼用の器もないことをいってことわったが、中山の要請もだしがたく、いままで自分が飲んでいた茶碗に水道の水を汲んで洗礼してやった。洗礼が終わると、中山は「広い世界がひらけたようだ」と、いった。
その翌日に中山義秀は息をひきとった。
門馬先生から洗礼を授かったのは、この世に義秀とぼくの二人だけなのである。ぼくはこのことを誇りに生きてきた。
ちなみにキリスト教はやるものではない。すべての宗教の根源は「大いなる力に生かされていることに感謝する」ことである。遠藤周作さんも「神様と呼ぶのが恥ずかしかったら、Xでも玉ねぎでもいい。この宇宙には大いなる力が存在します」というようなことを語っている。
ぼくの半生の中で恩師と呼べる人は三人だけ。門馬先生と白樺派の文豪にして文化勲章作家の里見��(さとみとん)先生、「荒地」の詩人の北村太郎さん。ぼくは北村さんからも小説の添削指導を受けていた。日本広しといえども北村さんから添削されたのはぼくだけである。北村さんはいつもぼくを励まし、作品を激賞してくれた。
すべて二十代のときからの付き合いである。他にも文化勲章作家の永井龍男さん(永井さんの小説は直木賞作家の車谷長吉さんが激賞していた)や詩人の田村隆一さんなど、若い頃から錚々たる人たちとの出会いに恵まれてきた。
門馬先生も里見先生も北村さんも永井さんも田村さんもすべて鎌倉在住。鎌倉に住んでいることがもたらしてくれたご縁だった。だから、鎌倉に感謝せずにはおられないのである。
いま、書いた人たちは全員、故人だが現在、書き下ろし中の拙著「鎌倉物語」に登場する。「鎌倉物語」はぼくの成長物語であり、文学史に残るような作品を目指している。
写真は詩人の北村太郎さん。
ログインしてコメントを確認・投稿する