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2019年12月06日01:06

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12月06日の日記

今日の出来事:1240年−モンゴルのルーシ侵攻:バトゥ率いるモンゴル軍によりキエフが陥落し、キエフ大公国が滅亡、1917年−ハリファックス大爆発、1956年−メルボルンオリンピック:メルボルンの流血戦

今日は、モンゴルのルーシ侵攻:キエフ大公国が滅亡です。モンゴルのルーシ侵攻は、1223年の「カルカ河畔の戦い」に始まり、1236年の「バトゥの西征」で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争です。1220年代のはじめ、ルーシの公たちは、キプチャク草原の遊牧民族・クマン人の戦士たちからモンゴルの到来を知らされました。ルーシ諸公のうち、ムスチスラフ・ムスチスラヴィチおよびムスチスラフ3世が連合軍を組み、クマン人と東へ向かって侵略軍を迎え撃ちました。これが「カルカ河畔の戦い」です。数で優勢だったルーシ連合軍はモンゴル軍の前に大敗しました。しかしこの戦いの後、モンゴル軍はヴォルガ・ブルガールヘと向かい、「ケルネクの戦い」でブルガールに敗れて東へと去りました。その13年後、再びモンゴル軍はルーシの前に姿を現しました。1236年2月、バトゥはモンゴル帝国第2代ハーンのオゴデイの命を受けて征西軍の総司令官となり、スブタイ、モンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征しました。35000人の弓騎兵からなるモンゴルの西征軍はヴォルガ川を越え、1236年の秋にヴォルガ・ブルガールへの侵略を開始しました。この後、一年に及ぶ戦いでビリャルやブルガールといった都市は陥落しました。キプチャク草原のキプチャク人は包囲殲滅され、カスピ海から北カフカスまでの諸民族が征服・帰順しました。キプチャク征服後の1237年11月、バトゥはウラジーミル・スーズダリ大公国の大公ユーリー2世の宮廷に使者を派遣し、モンゴルに服従するよう求めました。その1ヵ月後、モンゴル軍はリャザン公国の首都リャザンへの攻城戦を開始しました。6日間に及ぶ激戦の末、リャザンは陥落して完全に破壊されました。この戦いの知らせを受けたユーリー2世は息子たちをモンゴル軍討伐に赴かせましたが、完敗を喫しました。コロムナとモスクワを焼き払ったモンゴル軍は、1238年2月4日にウラジーミルに対する攻城戦に着手しました。3日後、北東ルーシの大国だったウラジーミル・スーズダリ大公国の首都ウラジーミルは陥落し、徹底的に破壊されました。大公の家族は燃える聖堂の中で全員殺され、かろうじて北へ逃げ延びた大公ユーリー2世はヴォルガ川の北で新たに軍を編成し、モンゴル軍に再度立ち向かいましたが、3月4日の「シチ川の戦い」で完敗して戦死しました。バトゥはこの後、広いルーシのステップ地帯を完全かつ効率的に攻略するため、軍をより小さな部隊に分けました。モンゴル軍の各部隊はルーシ各地へと散り、国土を略奪して荒廃させました。ルーシ北部の14都市(ロストフ、ウグリチ、ヤロスラヴリ、コストロマ、カシン、スクニャティノ、ゴロデツ、ハールィチ、ペレスラヴリ・ザレスキー、ユーリエフ・ポリスキー、ドミトロフ、ヴォロコラムスク、トヴェリ、トルジョーク)は破壊と略奪にさらされました。モンゴル軍を苦しめたのはコゼリスクという小さな都市で、年少の公・ヴァシーリーと住民は7週間にわたって激しく抵抗したため、モンゴル軍は4000人の犠牲を出しました。ルーシの都市の中で、モンゴルによる破壊を免れたのはモンゴルに服従と貢納を約束した西部の大都市・スモレンスクと、森林や湿地、春の悪路によって守られた北西部の大都市ノヴゴロドとプスコフだけでした。荒廃したルーシ南部のステップ地帯の住民は、ヴォルガ川とオカ川に囲まれたルーシ北東部の、土壌の貧しい森林地帯へと移り住みました。ルーシの伝説上の町・キーテジは、モンゴル軍を避けるために住民全員とともに湖に沈んだと言い伝えられています。1238年の夏、南へ転じたバトゥはクリミアを襲い、さらに東部のモルドヴィア、ルーシ東部、ヴォルガ・ブルガールを破壊しました。1238年の冬にはモンゴル軍は一旦休養のため、北カフカスに移って現地の諸民族の征服を行いました。1239年の冬には再びルーシ南部へと進み、チェルニーヒウ公国の首都チェルニーヒウとペレヤースラウ公国の首都ペレヤースラウを陥落させ、ルーシの有力国家であった両国を滅ぼしました。その後、ルーシ南西部に向かったバトゥ軍は1240年の11月28日から12月6日にかけてキエフを包囲し、これを完全に破壊してキエフを陥落させました。最後のキエフ大公ダヌィーロ・ロマーノヴィチは、本拠地であるルーシの強国ハールィチ・ヴォルィーニ大公国を守るため頑強に抵抗しましたが、バトゥ軍に中心都市であるハールィチとヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーを占領されました。こうして、中世ヨーロッパの最も発展した国の一つで、現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアの祖国「キエフ大公国」は滅亡しました。この戦いでルーシの人口に甚大な被害が出ました。人口の約半分の50万人が犠牲になりました。この後、ルーシ諸国をほぼ破壊したモンゴル軍は、「地果て海尽きるところ」まで行く事を決意し、ハールィチ・ヴォルィーニの地で分かれてハンガリーとポーランドへと侵攻していきました。

次に、ハリファックス大爆発です。1917年12月6日、カナダのノバスコシア州のハリファックス港で、軍用火薬を積んだフランス船籍の貨物船「モンブラン」とベルギー船籍の貨物船「イモ」が衝突し、「モンブラン」船上にあったドラム缶入りのベンゾールに着火し、それが船倉のトリニトロトルエン(TNT)、ピクリン酸、綿火薬等、約2600トンの火薬類に燃え移りました。「モンブラン」の船員や水先案内人はボートでハリファックスの対岸にあるダートマスへ逃げましたが、火災を起こした無人の船はその後、ハリファックスの波止場に流れつき、約25分後に大爆発しました。そして集まった消火隊、救助隊、見物人など約2000人が死亡、約9000人が負傷し、市の大半は廃墟になりました。

最後に、メルボルンオリンピック:メルボルンの流血戦です。メルボルンの流血戦は、1956年のメルボルンオリンピック水球競技で、ハンガリー代表対ソビエト連邦代表の試合の通称です。ナジ・イムレ政権の下、自由化と脱ソ連を進めたハンガリーに対してソ連が武力弾圧した「ハンガリー動乱」の直後、メルボルンオリンピックは開催されました。その水球競技でまさに因縁の対決が行われる事になりました。前回のヘルシンキ大会で優勝していた水球のハンガリー代表チームは、「ハンガリー動乱」が始まった当時、ブダペストの山上にあるトレーニングキャンプにおり、そこで煙が立ち上がるのを見て銃声も耳にしていました。メルボルンオリンピックの開催まで2ヶ月を切る時期で、騒ぎに巻き込まれる事を避けるため、代表チームはチェコスロバキアとの国境へと移動する事になりました。オリンピック開催地のオーストラリアに到着して選手たちは、初めて動乱の規模を知りました。ハンガリーに対するソ連の武力弾圧は容赦がなく、選手たちは多くの犠牲者が出ている事を知りました。やがてハンガリー選手の多くは、オリンピックをハンガリーの誇りを守る場とみなすようになっていきました。この時点で「ハンガリー動乱」におけるソ連の蛮行に国際社会は気が付いており、オリンピックのあらゆる競技でハンガリー代表チーム・選手は観衆から応援されました。「流血戦」は海外在住のハンガリー人も観衆に多く混じった目の前で行われました。12月6日に行われた試合は、開始直後からパンチやキックが飛び交う乱闘になりました。ザドルは群集の応援を背に2得点を挙げ、4対0で迎えた試合終了直前の数分間に、ソ連のバレンティン・プロコポフのパンチによって流血し、プールから出る事を余儀なくされました。怒った観客による暴動を避けるため、試合は終了まで1分を残して中止され、警官隊が競技場に入って群集を選手から引き離しました。怪我をしたザドルの写真は世界中の新聞に掲載され、「プールの水が赤く染まった」と報道されました。ハンガリー代表は決勝でユーゴスラビアを2対1で破り、水球で4つ目の金メダルを獲得しました。オリンピックの後、ハンガリー選手団100人のうち、45人が西側諸国に亡命しました。

今日の誕生日:由利公正、鶴田浩二、キダ・タロー、宍戸錠、露木茂、車だん吉、星由里子、久石譲、車田正美、林家たい平、市川海老蔵、エメルソン、保田圭(元モーニング娘。)、宇佐美友紀(元AKB48)、長野久義、林遣都、栗原類

今日の記念日:ミラの聖ニコラウスの祝日、姉の日、音の日

今日の「今日訓」:本日は、聖ニコラウスの聖名祝日です。「サンタクロースデー」とも呼ばれ、オーストリア・オランダ・ベルギー・スイスなどでは、この日に子供たちにプレゼントを贈ります。その聖ニコラウスにまつわる「三姉妹伝説」から「姉の日」となりました。また、1877年にトーマス・エジソンが発明した蓄音機で、音を録音・再生する事に成功したことを記念し「音の日」となりました。
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