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2019年12月02日00:18

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12月2日の日記

今日の出来事:1611年−慶長三陸地震、1804年−ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がパリのノートルダム大聖堂で行われ、フランス皇帝に即位、1805年−ナポレオン戦争:アウステルリッツの戦い、1971年−ペルシャ湾岸の6つの首長国によりアラブ首長国連邦が成立、1999年−日光の社寺が世界遺産に登録

今日は、慶長三陸地震です。1611年12月2日、巳刻過ぎ(10〜11時頃)大地震が発生しました。この地震で、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われましたが、太平洋側沿岸地域の震度は4〜5程度で、地震による被害はほとんどありませんでした。しかし、津波による被害が大きかった事から津波地震と言われています。この地震による津波被害は「慶長三陸地震津波」あるいは「慶長三陸津波」と呼ばれています。さらに、この地震の7年前には同じく津波地震と考えられている、東海・東南海・南海のトラフ寄りが震源とされる「慶長地震」がありました。現在の三陸沖北部(日本海溝付近)で発生したと推定されています。17世紀初頭の津波堆積物が色丹島や道東、道南(北海道森町)、三陸北部、三陸南部と約1500kmの範囲に及ぶ事から、「慶長三陸地震」は、従来の震源推定地であった三陸沖北部よりも北の、北海道東沖から北方領土沖の千島海溝付近で最初に発生した地殻変動が、周辺の震源域と連動して発展した巨大地震である可能性が高いとされています。17世紀初頭のものと推定される北海道東部で発見された津波痕は15〜20mの津波が到達したものと考えられる事から、「慶長三陸地震」は千島海溝沿いにおけるM9規模の地震の可能性が高いと推定されています。津波は、田老や大船渡で最高20m前後の高さで、現在の三陸沿岸、北海道東岸に来襲し、仙台藩領内で死者1783人、盛岡藩・弘前藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されています。現在の北海道の南東岸では、アイヌ民族が多数溺死しました。この「慶長三陸津波」の文献に現れる「津波」という語句が、記録されている最古の記述とされています。「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」  この「津浪」が現在で言う「津波」の語源です。

次に、ナポレオンがフランス皇帝に即位です。ナポレオン=ボナパルトは、1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれました。コルシカ島がフランス領になったため、フランス人になりました。ナポレオンは首都であるパリに出て士官学校に入学しました。1784年、ナポレオンは士官学校を卒業し、フランス王国の将校となりました。1789年、フランス革命が勃発しました。ナポレオンはフランス軍の中で王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、「トゥーロン攻囲戦」に参加しました。砲兵司令官が負傷した事により、ナポレオンが砲兵司令官となり、少佐に昇格しました。ナポレオンは、「港を見下ろす二つの高地を奪取して、そこから敵艦隊を大砲で狙い撃ちにする」という作戦を進言しました。デュゴミエ将軍がこれを採用、豪雨をついて作戦は決行されて大成功し、外国艦隊を追い払って反革命軍を降伏に追い込みました。この功績により、国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に准将(旅団長)へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられました。1795年、パリで王党派の蜂起「ヴァンデミエールの反乱」が起こりました。この時に国民公会軍司令官となったポール・バラスは、「トゥーロン攻囲戦」の時の派遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用しました。実際の鎮圧作戦をこの副官・ナポレオンに一任した結果、首都の市街地で市民に対して大砲を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功しました。これによってナポレオンは将軍に昇進し、国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとりました。「フランス革命」へのオーストリアの干渉に端を発した「フランス革命戦争」が欧州各国を巻き込み、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しました。ナポレオンはこの内のイタリア側からの軍を任されました。ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝でした。1797年4月にはウィーンへと迫り、ナポレオンは総裁政府に断る事なく講和交渉に入りました。そして10月にはオーストリアと「カンポ・フォルミオ条約」を結びました。これによって「第一次対仏大同盟」は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得し、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得ました。この「イタリア遠征」が「フランス革命戦争」から「ナポレオン戦争」への転換点となりました。フランスへの帰国途中、ナポレオンは「ラシュタット会議」に参加し、12月にパリへと帰還しました。フランスの英雄・ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられました。次にナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地・インドとの連携を絶つ事を企図し、英印交易の中継地点である「オスマン帝国」の支配下にあったエジプトを押さえる事を総裁政府に進言しました「エジプト遠征」。1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、「ピラミッドの戦い」で勝利してカイロに入城しました。その直後、「アブキール湾の海戦」でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまいました。イギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟「第二次対仏大同盟」が結成され、フランス本国も危機に陥りました。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まりました。これを知ったナポレオンは、自軍をエジプトに残したまま側近のみを連れて単身フランス本土へ舞い戻りました。フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えました。ナポレオンはブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらと「ブリュメールのクーデター」を起こし、統領政府を樹立して自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握りました。ナポレオンはアルプス山脈を越えて北イタリアに入る奇襲策をとりました。1800年6月14日の「マレンゴの戦い」でオーストリア軍に劇的勝利し、ドイツ方面の「ホーエンリンデンの戦い」でモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝しました。オーストリアは和約「リュネヴィルの和約」に応じ、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国としました。この和約をもって「第二次対仏大同盟」は崩壊し、フランスと交戦するのはイギリスのみとなりましたが、1802年3月に「アミアンの和約」で講和が成立しました。「フランス銀行」を設立して通貨と経済の安定を図り、有名な「レジオンドヌール勲章」を創設、さらに「フランス民法典」、いわゆる「ナポレオン法典」を公布しました。そして、1804年、議会の議決と国民投票を経て、世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせる「皇帝」の地位につきました。ナポレオンは、1804年12月2日に即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就きました(フランス第一帝政)。戴冠式はパリのノートルダム大聖堂で行われました。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は、多方面にさまざまな衝撃を与えました。こうしてナポレオンは絶頂期を向かえました。

その次に、ナポレオン戦争:アウステルリッツの戦いです。アウステルリッツの戦いは、オーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ郊外で、ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いです。フランス皇帝・ナポレオン1世、オーストリア皇帝・フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝・アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加した事から「三帝会戦」とも呼ばれています。1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと「第三次対仏大同盟」を結成し、バイエルンへ侵攻しました。ナポレオンが率いるフランス軍は「ウルムの戦い」でオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城しました。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流しました。ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣しました。その頃、イタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要がありました。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けました。ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始しました。フランス軍は73000と劣勢でした。またその布陣は、後方との連絡線確保の上で重要な右翼(南側)が手薄でした。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせました。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見えたため、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到しました。しかし、ナポレオンは手薄になった連合軍の中央部に、ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させました。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げましたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によって、プラツェン高地の連合軍は突破されました。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃しました。夕刻までに、連合軍は15000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走しました。そして、12月26日、オーストリアは「プレスブルクの和約」を締結してフランスへ屈服し、「第三次対仏大同盟」は崩壊しました。中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とする事を決め、バイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦がマインツ大司教・ダールベルクを首座大司教侯とする「ライン同盟」を結成して、帝国脱退を宣言しました。ここに至り、フランツ2世はドイツ皇帝(神聖ローマ帝国皇帝)退位と帝国の解散を宣言しました。こうして、「神聖ローマ帝国」は解体され、ドイツには「ライン同盟」が成立しました。ハプスブルク家は「神聖ローマ帝国」の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王として「オーストリア=ハンガリー帝国」を、「第一次世界大戦」の敗北により瓦解するまで統治し続けます。「アウステルリッツの戦い」とそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えました。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、「オーストリア帝国」を屈服させました。「アウステルリッツの戦い」は10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権をもたらす事になりました。そして、ナポレオンは翌1806年の「対プロイセン戦役(第四次対仏大同盟)」にて、全ヨーロッパの覇権を獲得する事になります。

その次の次に、ペルシャ湾岸の6つの首長国によりアラブ首長国連邦が成立です。首長国とはイスラム世界の君主の称号の一つである「首長」が君臨する国家です。現在は、アラブ首長国連邦、クウェート国、カタール国の三国です。このうち、アラブ首長国連邦(通称UAE)は、アラビア半島のペルシア湾に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家です。首都はアブダビです。1950年代になると、この地域で石油探査が始まり、ドバイとアブダビにて石油が発見されました。ドバイはその資金をもとにクリークの浚渫を行い、交易国家としての基盤固めを開始しました。一方、アブダビは、当時のシャフブート・ビン・スルターン・アール・ナヒヤーン首長が経済開発に消極的なため、資金が死蔵されていました。この状況に不満を持った弟のザーイド・ビン=スルターン・アール=ナヒヤーンが宮廷クーデターを起こして政権を握ると、一気に急速な開発路線をとるようになり、湾岸諸国中の有力国家へと成長しました。1968年にイギリスが「スエズ以東撤退宣言」を行うと、独立しての存続が困難な小首長国を中心に連邦結成の機運が高まりました。連邦結成の中心人物はアブダビのザーイドでした。当初は北のカタールやバーレーンを合わせた9首長国からなる「アラブ首長国連邦」の結成を目指していましたが、「カタール」や「バーレーン」は単独での独立を選びました。一方、アブダビとドバイは合意の締結に成功しました。これにより残余の国家も連邦結成へと動き、1971年に「アブダビ」、「ドバイ」、「シャールジャ」、「アジュマーン」、「ウンム・アル=カイワイン」、「フジャイラ」の各首長国が集合して連邦を建国しました。翌1972年、イランとの領土問題で他首長国と関係がこじれていた「ラアス・アル=ハイマ」が加入して現在の7首長国による連邦の体制を確立しました。

最後に、日光の社寺が世界遺産に登録です。「日光の社寺」は、栃木県日光市にある寺社などから構成されるユネスコの世界遺産です。1998年5月14日、「世界遺産」登録推薦にさきがけて国の史跡に指定されました。指定名は「日光山内」、管理団体は日光市です。従来、建造物については「国宝」や「重要文化財」に指定され、保護が図られている山内地区でしたが、面的な保護策は講じられていませんでした。そこで、「文化庁」、「栃木県教育委員会」、「専門家」、「学識経験者」が協議し、二社一寺をはじめとする土地所有者、土地占有者ならびに関係者等の協力を得て「日光山内」50.8ヘクタールが「文化財保護法」にもとづく史跡指定を受けました。1999年12月2日にモロッコのマラケシュで開催された「ユネスコ世界遺産委員会」で「世界文化遺産」として登録されました。「日光東照宮」、「日光二荒山神社(別宮本宮神社、別宮滝尾神社を含む)」、「日光山輪王寺(大猷院霊廟を含む)」103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が登録されました。

今日の誕生日:島津久光、斎藤実(第30代内閣総理大臣)、三笠宮崇仁親王、高峰三枝子、山崎努、権藤博、太地喜和子、夏木ゆたか、池田秀一、けらえいこ、中西圭一(クレイジーケンバンド)、松嶋尚美(元オセロ)、吉崎観音、野村真季、後藤正文(ASIAN KUNG−FU GENERATION)、細木美和、ブリトニー・スピアーズ、武山浩三(ジャングルポケット)、八乙女光(Hey! Say! JUMP)、田名部生来(元AKB48)、石田晴香(元AKB48)、清水富美加、薮下柊(元NMB48)、柿崎芽実(元日向坂46)、ドラミ(2114年)

今日の記念日:奴隷制度廃止国際デー、連邦結成記念日、日本アルゼンチン修好記念日、日本人宇宙飛行記念日、原子炉の日、美人証明の日、ビフィズス菌の日

今日の「今日訓」:本日は、1898年に日本とアルゼンチンとの間に「修好通商航海条約」が結ばれた事で「日本アルゼンチン修好記念日」、1942年にアメリカのシカゴ大学構内に設置された実験用小型原子炉シカゴ・パイル1号で、世界で初めてウランの核分裂の持続的な連鎖反応に成功した事で「原子炉の日」、1949年に国際連合総会決議317(IV)「人身売買および他者の搾取の禁止に関する条約」が採択された事で「奴隷制度廃止国際デー」、1971年にイギリスの保護下にあった「アブダビ」、「ドバイ」、「シャールジャ」、「アジュマーン」、「ウンム・アル=カイワイン」、「フジャイラ」の6つの首長国が独立して「アラブ首長国連邦」を結成した事で「連邦結成記念日」、1990年12月2日にTBSの秋山豊寛記者を乗せたソ連のソユーズTM11号が打ち上げられ、日本人初の宇宙飛行に成功した事で「日本人宇宙飛行記念日」、2006年12月2日に栃木県足利市にある厳島神社で、御祭神の「市杵島姫命」の分身として美人弁天を建立し、参拝者に心柔らかな品性ある美人である事を証明する日本で唯一の「美人証明」を無料で配布し始めた事で「美人証明の日」、1899年にフランスの小児科医のアンリ・ティシェが、パリの生物学会でビフィズス菌の発見を発表した事から「ビフィズス菌の日」となりました。
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