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2019年12月01日17:52

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梁の元帝蕭繹の「讀書萬卷,猶有今日(書、万巻を読めども、なほ今日あり)」という言葉、考!

梁の元帝蕭繹の「讀書萬卷,猶有今日(書、万巻を読めども、なほ今日あり)」という言葉、考!

2019.12.01 Sunday

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梁祝の文字文献のすべてを誰でもが日本語で読めるようにするために翻訳を続けているのだが、梁の元帝蕭繹のものとして『梁祝変事(梁祝故事)!』という言葉と≪金楼子(きんろうし≫及び≪会稽異文≫という書名が登場する。

この言葉と書名だけでは、「読みやすい梁祝伝説の資料文献集」の日本語訳としてはあまりにも唐突過ぎるのでなにか梁の元帝蕭繹(しょうえき508-555年)の、人となり、エピソードをと探す中で「讀書萬卷,猶有今日」という元帝蕭繹の最後の言葉を知った。そこで元帝蕭繹に関して管見の及ぶ限りエピソードを調べてみた。


先ず『梁祝変事(梁祝故事)!』は蕭繹の著作の中に登場する言葉で、現在この4文字以外は何も分からない。≪金楼子≫は元帝蕭繹の号(ペンネーム)にして、彼の著作集の名称(金楼子はその後整理されたものが存在するが、この4文字は見つけることができない)、≪会稽異文≫は(現存しない)書名である。

ではなぜ梁祝伝説とこの皇帝は関係があるのか。実際の資料にあたり以下のことが分かった。蕭繹の同時代に生活し、身近にあり実際に仕えた人の言葉がいくつかあり、その中にこの「讀書萬卷,猶有今日」があることを知った。


元帝蕭繹は梁祝伝説発祥の地会稽で幼児期を過ごし、後に会稽郡太守(「たいしゅ」は、郡の長官・会稽は広く紹興・上虞・寧波を指す)をつとめた。よって実際に梁祝伝説の地にあり自ら梁祝伝説を調べ書き記した人であることはほぼ間違いないと確信できる。


以下実際の史実として見つけられる書物の記録
1,新釈漢文大系21明治書院「十八史略下」巻四:

南北朝

学問:元帝蕭繹は歴代中国皇帝の中でも学問を愛した皇帝であった。幼少時に病気で片目を失明したが、書物を好み、自ら多くの著作を残し、蔵書は10数万巻に及んだという。また老荘の書を好んだ元帝は、西魏の軍が江陵に押し寄せる中も、

『老子』の講義を行い、群臣たちは武装したままそれを聴講した。元帝が集めた蔵書は、江陵が陥落する直前、「書、万巻を読めども、なほ今日あり。」(「讀書萬卷,猶有今日。」)と、自身の手によって全て焼き払われた。「自分は書物を万巻も読んだが、それでも今日の如く禍いにあって降伏せねばならぬ」

人となり:

元皇帝は、名は繹といった。繹は眇(すがめ)で、性質が残忍であった。江陵で位に即いた。梁は侯景の乱以来、州郡の大部分が西魏にとられ、蜀も魏の所有となった。そのため梁は巴陵郡(はりょうぐん)から下って、建康に至るまでも領土とし、

長江を境とし(て江南の地を治めるだけとなっ)た。○突厥(とっけつ)が柔然(じゅうぜん)を攻めた。北斉は突厥を撃って柔然を馬邑川(ばゆうせん)に遷した。この時柔然が衰えて、突厥が始めて強大になった。 ○西魏の宇文泰が、その主の欽を廃して、

その弟の廓(かく)を立てた。その後、欽は泰に弑(し)せられた。○西魏は柱国の官の于謹(うきん)遣わして、梁を伐って江陵に入らせた。落城にあたり、梁王は古今の書籍十四万巻を焼き捨て、(宝剣を柱に投げつけてこれを折り、)「ああ、文武の道は、今夜限りで尽き果てた」と嘆息し、

そこで出でて降参した。ある人が、「どういう理由で書物を焼かれたのですか」と問うと、「自分は万巻の書物を読んだけれども、やっぱり今日の憂き目に遇った。(書物など読んでも何の役にも立たないからだ)」といった。間もなく殺された。在位三年、改元すること一回で、承聖といった。


2,平凡社 中国古典文学大系9 『顔氏家訓」顔之推 著 宇都宮清吉 訳
第八章 学問論 105 元帝様のご勉強ぶり(全文)

梁の元帝さま(在位552年から554年)がある時、親しくお話しくださったことである。「ずっと以前会稽郡に駐在していた時分、身はまだ十二歳になったばかりだったが、疾くに学問の面白さは判っていた。その頃身はまた、疥癬(かいせん)に痛めつけられ、拳も握れず膝を屈げられない程なので、身は人のいない静かな書斎に葛織りの蚊帳をつり、

はえが来ないようにして、銀がめには山陰産の甘い酒を用意しておき、時々それをなめながら、苦痛を忘れることにしていた。こうして心のおもむくままに、独りで史書を読みふけり、一日に二十巻も読みあげたものである。もとよりまだ師匠について学んだことはないので、間々一字が読めず一語の意味が判らないこともあったが、必ず何度でも自分でも同じ所を繰り返し読んで、一向に倦きもしなかった次第である」と。


御身は畏くも帝の子であり、神童と言いつべきこのお方にして、なおかくの如きご勉強ぶりであったのだ。一般の人々、身分のあるなしに関わらず、自分の力で世に立とうと考えている者は、当然、一層のこと奮励しなければならぬ道理であろう!

3,もう一つのエピソード(京都大学 興膳 宏)「金楼子訳注」から


その1:蕭繹(しょうえき)は蔵書家である上に、熱心な読書家であった。片目が不自由だったために、臣下に読ませることが多かったようだが、『南史』梁本紀によると、五人の担当者に一更(約2時間)ずつ交替で読ませ、いつも夜明けにまで及んだ。読書中においいびきをかいて熟睡するので、読む方も眠くなって、読むのに順序次第を失ったり、ときにはこっそり飛ばし読みをしたりすると、前に戻って読みなおさせ、おまけに鞭打ちの罰を加えたという。それだけの読書家だっただけに、彼の頭には古今の書籍がぎっしり詰まっていたはずである。


その2: 蕭繹(しょうえき)の人と為りや『金楼子』の内容について、併せて参照すべきは『顔氏家訓』である。著者顔之推は、若いころ元帝につかえて、親しく接した経験があり、この書のあちこちでその思い出を懐かしく回想している。たとえば、勉学編では、元帝の老荘・周易の「三玄」愛好をめぐって次のようにいう。

「元帝、江荊(えけい)の間に
在りて、復た愛習する所なり。学生を召置して、親しく教授を為し、寝を廃し食を忘れて、夜を以て朝に継ぐ」。思い合わされるのは、西魏の大軍がいままさに江陵に押し寄せようとしていたとき、元帝は『老子』の講義を始め、危機的な状況下にありながら、なかなか講義を止めようとしなかったという史書の記事である。

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