自己存在証明を考える上で、重要なのは、
どこまでを自分の世界として、それをどこまでの世界に広めたいかだ。
どこまで、と、いうのは、今回の場合、
自分のすごさという範囲だ。
自己存在証明で何を証明するかは、ほぼほぼ、
すごさを表現するものである。
なので、やはり、問題は、どこまでというところになる。
一つ考えられるのはメディアであろう。
メディアに目をつけてもらえれば、必然的に、
自己存在証明を知る人がふえていき、どこまで、という領域も勝手に広がるかもしれない。
まあこれは、よくある。
もう一つが問題だ。
ある団体の、ある仲間の中だけ、という、世界である。
この世界の中では、実は恐ろしい要素がある。
そう。見せしめ、だ。
この見せしめは、自己存在証明のなんとなく延長にある気はする。
わたしが、前投稿で、疑問を持った理由が、ここにある。
見せしめは、確かに、自己存在証明に属するものだろう。
しかし、見せしめは、拘束力が違う。
周りの人たちに、これは、仲間内では最大限に広げたいものの、それを飛び越えることを、極度に嫌う。
最大限広めたい思いと最小限のクローズな範囲にしておくべきというある種の恐怖感が、相反する形で同居する。
この点が、自己存在証明の中でも違う種類
見せしめ、として、行動されるものだ。
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