ヤフーのサイトで、逆お気に入り機能をつけたくなるくらい、嫌になる記事が多くある。
最近では、教師による教師へのいじめ。
見るたびに不快になり、影響を受けやすい自分は、
生活のやる気すら無くしてしまう。
見なきゃいいじゃんといえばそれまでたが、
見てしまうのが人間の性をついているという自己嫌悪の負のスパイラルだ。
私の結論は変わらない。
それはこのタイトルどおりだ。
いくつか前の、バス停での凄惨な事件でも書いたが、
つまるところ、
この、自己存在証明に、やはり、帰着する。
立派なことを言っているようだが、
恐らく今後、このmixiの日記は、こういう矛盾している人間の素直なダメさ加減を表現するのにもっとも適するようになったというのは、mixiの人たちから訴えられてしかるべきくらい、mixiを皮肉ってはいるものの、それをそれとして利用している自分もまた、ダメダメだと認めざるを得ないだろう。
つまり、自分だけの世界に閉じておきたい精神錯綜を、
なぜかしら、世界中の人に知ってほしいという、矛盾だろう。
この投稿も全体公開になっているため、この要件を見事にみたしているのだ。本当に皮肉な話だ。
知られたくないけど、どこかで、知ってもらいたい。
まさに、自己存在証明にほかならない。
端的な話に戻そう。
こんないじめ、動画に撮ったり、わざわざ、見せつけるようなことはしない。なんで、見せしめるか。
まったく、同じである。
自己存在証明である。
この加害者教師は、何を言いたかったのだろう、
そう。自己存在証明だ。
いじめ、ころしなど、問題ではないのだ。
って言うと、また、トゲがあるのだけど、自己存在証明にこだわる人は、これを厭わない。
だからこそ、世間からは考えられないことが、
当人にとっては、自己存在証明を満足させるものとして、ごく普通に執り行われる。
しかし、一般的にはどう考えてもわからないのである。
確かに、どんくさい人はいるのだろう。
気に入らないとか、自分の考えにそぐわない人たちは、
扱いが難しいし、自分もどんくささでいえば、世界ではだいぶ上だろうな、という自己嫌悪は、既に12,3才くらいから、持ち続けているものである。
こんだけ、自己嫌悪って書くと、自己嫌悪を自己存在証明に利用している自分がいてさらに、自己嫌悪に陥る。
それなのに、なぜ、わざわざ動画まだ取って、
見せしめるのか。
いじめ、という、根本的な考え方は何処に起因するのか。
あれ?自己存在証明じゃないのか?
んーー?
つづく。
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