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2019年10月03日10:34

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 ルーツ        

  (2019年10月3日)

 何日か前の日記に書いた保証人から続くことです。母の父(私のじじちゃん)は3人きょうだい(弟、妹)。弟は関西で暮らしました。身内の叔父さんを頼りに甥っ子たちは関西に向かったようです。当時は大工として大忙しだったようです。私はじじちゃんの弟に会ったのは1度だけ、仕事引退後の60〜70代のころだったでしょうか、あやふやです。妹さんは結婚して近くで暮らし男4人の母になりました。ところが流行病にかかり夫婦ともに相次いで亡くなったそうです。両親を一度に亡くした4人の残された子どもの運命を今更考えました。卒業してすぐ住み込み職人として働いた長男、関西の伯父に弟子入りした次男、卒業とともに親戚の下駄屋に弟子入りの三男(私の父と同じ釜の飯の仲間になります。父の兄は商才があり当時は13人のお弟子さんの面倒見たそうです。下駄製造販売の商売は景気も良かったのでしょうね。小さかった四男は養子に貰われて育ちました。保証人を引き受けてくれた方でした。(私はそのころ詳しい事情は全く知りませんでした)母が大好きなりつおばあちゃんの娘の子ですから母とは従兄弟の間柄。
 私の友だちの友だちが三男さんの娘さんだったことがわり、世の中とは広いけど狭いものだと嬉しいニュースでした。その人のお兄さんは私と同じ年の生まれでお母さんのおっぱいの出が悪く、私と一緒に母のおっぱいを飲んで育った乳飲み子きょうだいなんだそうです。もう一人のお弟子さんの子どもも時折 母のおっぱいを飲ませてもらいましたという話なので、同じころに母は3人の乳飲み子を育てたそうです。お二人は初めての出産でお乳の出も慣れてなかったこともあったのでしょうね。その乳飲み子3きょうだいの二人と 私は一度もあったことがないのですがお元気でしょうか。
 弟子から職人へいろいろ段階をクリアーして自分の店を開店したころに戦争、時代の波に沈められたり、戦後は下駄から靴の生活に変わり、最終的には店じまい、別仕事に就くしか暮らしがたたなかったと思います。中途半端な年齢での仕事替えは大変だったでしょう。それでもわが家には職人仲間の方たちが来て昔話に花が咲いてました。一緒に苦労した仲間は年を重ねて引退(年齢�的に息子や娘に代を譲り)後の楽しみだったのでしょう、通じる仲間がいることは いつの世でも嬉しい財産ですね。
子どもだった私でも来宅してた仲間の人々を、父母が読んでいた名前を今も覚えています。年寄りになってからも苗字でなくて、名前で呼びあい 笑顔で話すおじさんたちを見て 子供心にもほっと嬉しい気持ちがわいて こそばゆいような、微笑ましいような気がしたのでした。
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