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2019年09月29日12:28

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功利主義で説明するか義務論で説明するかの説明がきちんと出来ればどうということはない「ディベート」に、何を不安を抱くのか理解が及びませんな。

「トロッコ問題」授業で謝罪
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5806718


こんな2択くらいで不安を感じてたら、やってけねえどころかむしろ何に不安を感じるのかわかりませんが、なんなんでしょうかね。

"Pokemon Desolation Part 21 HARDEST DECISION! Pokemon Fan Game Gameplay Walkthrough"
https://youtu.be/AlMTX7m93AQ

フォト


ポケモンの世界ですら、海外産は好感度の上下でスカーレットが負けてビルの屋上から飛び降りるか否かとか、どちらを敵に回してとどめをさすかとかやってるんだから・・・。


トロッコ問題は、端的に言えば功利主義で説明するか義務論で説明するかの説明がきちんと出来ればどうということはない嫌がらせクイズでしかないわけです。別に2通りの説明さえ「その立場に立って回答を投げつければいい」わけですから、ディベートと一緒ですよ。
すこぶる優秀なやつが1人の側でも、ちょうどこの前オウムの死刑執行で中川智正が刑場の露に消えたでしょ。そういうことだよ。
思考実験に余計な要素を含めてはいけないって、オッカムの剃刀で習わなかったのか?

んなこといってたら、村上龍の『半島を出よ』なんか読めないんじゃないですか?

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http://blog.tatsuru.com/2005/12/30_1057.html
『亡国のイージス』を観る
2005-12-30 vendredi

「戦争ができる国」というはその政府が「戦争ができる」世界戦略を持ち、その国民が「戦争ができる」メンタリティーを備えている国のことである。
日本は戦争ができない国だ。
テロリストはそう言い切る。
それは軍備がないからでもないし、憲法九条が規制しているからでもなく、日本人が「戦争とはどういうものか」を少なくともこの30年間ほとんど考えずに来たからである。
「戦争ができる」というのは、一面から言えば、「自国民が死に、自国の都市が破壊される」という限定的な損害を認めた上で、それよりも「メリット」が多い軍事的オプションを逡巡せずに選択できるということである。
そこを破壊することが戦略的に重要である都市であれば、自国民もろとも破壊することを辞さないようなメンタリティーをもつ人間しか戦争を遂行できない。
原爆は米軍捕虜をも焼き殺したし、ドレスデンにも連合国の市民は何人もいただろう。
現代の日本人にそれができるか。
それは村上龍の『半島を出よ』の主題でもある。
北朝鮮テロリストに占拠された福岡の街を自国民もろとも破壊する決断をする政治家がいないせいで、日本政府は屈辱的な領土割譲に応じることになる。
「戦争ができる人間」とは、軍事的バランスシートの上ですべてを計算して、そこに「人間の顔」を見ないでいられる人間のことである。
そんな人間は今の日本にはいない。
たしかに、今の日本には、経済的バランスシートの上ですべてを計算し、そこに「人間の顔」を見ないですませていられる人間はいくらもいる。
彼らは他人が経済的に破滅することの代償に自分が利益を得ることには少しの疚しさも痛みも感じないでいられる(つい先日も、証券会社の誤発注で短時間に巨富を築いた投資家たちがいた)。
けれども、「経済的なバランスシート」と「軍事的なバランスシート」のあいだには乗り超えることのできない深淵がある。
「金を儲けたい」というのは尽きるところ個人的な欲得だからである。
「自分さえよければ、それでいい」と彼らは考えている。
日本が軍事的に危機になれば、彼らはあたふたと個人資産を抱えてカナダにでもオーストラリアにでも逃げ出すだろう。
だが、「国を守る」という行為は個人的なものではありえない。
日本が軍事的危機に陥ったときに、われさきに安全な外国に逃げ出すような人間には戦争を遂行することはできない。

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「(・・・)そのときにアプライしてきた学生たち全員にある選考委員が同じ質問をした。
NATOのユーゴ空爆について知るところを述べよ、というのである。
(・・・)その回答を聞いて、件の選考委員は全員にこう諭した。
「アメリカではね。高校生でも、自国がかかわっている戦争については、賛成反対の意思を明確に表明し、きっちりディベートする。君たちが、国際情勢についてそんなふうないい加減な知識しか持っておらず、それについて賛否の立場を議することができないとむこうにいって恥をかくよ。」 彼はもちろん善意のひとであり、その説諭は教化的な意図のものであった。しかし、それにもかかわらず同じ言葉を十数回聞かされているうちに、私はだんだん不愉快になってきた。
他国で行われている戦争について、それがどういう国際関係論的文脈でなされているかについて十分な情報をもち、それについて賛否の立場を明らかにできるということはそんなに偉いことなのだろうか?そもそも、必要なことなのだろうか?
私はユーゴの戦争について新聞報道以上のことを知らないし、その記事だって決して熱心に読んでいるわけではない。
戦争の記事をみるたびに「あー、やだやだ。馬鹿と馬鹿が戦争してるぜ。けっ」と顔をしかめて、ぽいと新聞を放り出している。
泥棒にも三分の理。
ましてや戦争だ。
ミロシェビッチにだってNATOにだってコソボ解放軍にだってギリシャにだって、それぞれ言い分はあるだろう。
それぞれの言い分をきっちり聞こうとしたら、いくら時間があっても足りない。
それに「ここまで調べたら、賛否の判断をしてもよい」というような情報量の基準線など原理的に存在しない。
CNNのニュースを聞いて、ワシントン・ポストとタイムズとル・モンドと人民日報とイズベスチャ(まだあるのかしら)を定期購読しているひとなら正しく判断できるというものではあるまい。私の知っている国際関係論の専門家はインターネットでセルビア側とコソボ解放軍とアルバニアとギリシャの関連ホームページを読んでいるが、「どれも一方的な情報しか伝えていない」と嘆いていた。
こういう問題について「賛否の判断をするに十分な情報」というものはありえない。
十分な情報がないままに賛否の判断をするのはパセティックではあるけれど合理的ではない。
審美的にはかっこいいが論理的には危うい。
そもそもかの選考委員がたたえる「アメリカでは高校生だって…」ということ自体がきわめて重大な問題を含んでいると私は思う。
アメリカの高校生だってユーゴの戦争についての知識は私とどっこいのはずである。
それにもかかわらず、彼らはあるいは空爆に決然と賛成し、あるいは決然と反対するらしい。
なぜそういうことができるのか。
たぶんそれは「よく分からない」ことについても「よく分からない」と言ってはいけないと、彼らが教え込まれているからである。「よく分からない」と言うやつは知性に欠けているとみなしてよいと、教え込まれているからである。
反対側から言えば、ある種の知的努力さえすれば、どんな複雑な紛争についても、その理非曲直をきっぱりと判定できるような俯瞰的視点に達しうる、と彼らは信じている。だからこそどんな問題についてもつねに「きっぱりした」態度をとることが強く推奨されるのである。アメリカではそれは十分な「知的努力」を行ったことのしるしであり、そうすれば「賢く」みえるということをみんな知っているからである。
(・・・)具体的にいま戦われている戦争について、それを俯瞰するような上空飛行的視点がありうるのだろうか?
その戦争に対して、どう判断し、どうかかわるべきかを教えてくれるような知的なポジションというのはありうるのだろうか?
私はそんなものはないと思う。
「そんな超越的な視座は存在しない」というところから出発すれば、戦争の見方はずいぶん変わってくると思う。だが、知識人の多くはそういうふうには考えない。だからこそ彼らは戦争に対して非常に「まじめ」な態度をとる。 (・・・)」
(「古だぬきは戦争について語らない」(「Simple man simple dream -28」(1999.04.19))(http://www.tatsuru.com/columns/simple/28.html))
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