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2019年09月11日14:08

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「唯識三十頌」�ァ並萋鷭住稲鵝法繊兵畄觧楷衒検�

(二十四)(第二十三頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その四)〜
(原文)
 即依此三性 立彼三無性
 故佛密意説 一切法無性
(読み方)
 そく・え・し・さん・しょう りっ・ぴ・さん・む・しょう
 こ・ぶつ・みつ・ち・せつ いっ・さい・ほう・む・しょう
(訓読)
 即(すなわ)ち此(こ)の三性に依って、彼(か)の三無性を立つ。
 故に佛、密意(みっち)を以て、一切法は性無しと説きたまう。
(現代日本語訳)
 遍計所執行性、依他起性、円成実性という三つの世界の在り方を三性(さんじょう)といいます。これらは、有の観点から世界の在り方を示したものです。ところで、私たちは、先述のように(第二十二頌参照)、物事を自分の都合のよいように捉え勝ちです。これら三性についても、「有る」と聞けば私たちは、どうしてもそれらを実体的、固定的なものとして捉え勝ちになります。そこで、上記の三性をもとに、次に「空」の視点から三性のそれぞれに対応する三無性を示します。この三性と三無性の二つが一組になって初めて世界の在り方が十全に明らかになることでしょう。
 佛様は、そういう秘めた意図をもって、一切法は無性(仏陀が般若心経の中で説いた考え方で、すべては空である(無自性である)という考え方)と説かれたのです。


(二十五)(第二十四頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その五)〜
(原文)
 初即相無性 次無自然性
 後由遠離前 所執我法性
(読み方)
 しょ・そく・そう・む・しょう じ・む・じ・ねん・しょう
 ご・ゆ・おん・り・ぜん しょ・しゅう・が・ほっ・しょう
(訓読)
 初めのは即ち相無性なり。次のは無自然性なり。
 後のは前の所執の我法を、遠離せるに由る性なり。
(現代日本語訳)
 (そこで、以下では上記三無性のことについて示します。)まず最初は「相無性」です。次は、「無自然」の性です。そして最後は、前に述べた所執の我、法、すなわち、執着の対象である自己と自己に関わるすべての事柄を遠くに手放し(遠離し)隔絶したところに顕在化する性質のものです。
(用語解説)
相無性:私たちが有ると思っているものは実は実体がないということ。
無自然(生無性):仮有の依他起性は、ある条件の下、様々な原因が一時的に和合して在るというだけで、自然に生じたものではないということ。

(注釈1)
対応関係
・遍計所執性:相無性
・依他起性:無自然(生無性)
・円成実性:勝義無性(後述)
(注釈2)
三性の別の表現(「三性」:第二十三頌を参照)
・遍計所執性:妄有
・依他起性:仮有
・円成実性:真有




(二十六)(第二十五頌)〜在るべき世界のための心の在り方(その六)〜
(原文)
 此諸法勝義 亦即是真如
 常如其性故 即唯識実性
(読み方)
 し・しょ・ほっ・しょう・ぎ やく・そく・ぜ・しん・にょ
 じょう・にょ・ご・しょう・こ そく・ゆい・しき・じっ・しょう
(訓読)
 此れは諸法の勝義なり。亦即ち是れ真如なり。
 常如にしてその性の故に。即ち唯識の実性なり。
(現代日本語訳)
 そこでは、諸法すなわちすべてのものが、それそのものとして(常如)、あるがままの姿(真如)で顕在化してきます。
 それは、何よりも勝れたもの、すなわち、諸法の勝義といえるでしょう(勝義無性)。そして、それは、唯識という考え方を極めることによってで顕在化してくることでしょう(唯識実性)。


(二十七)(第二十六頌)〜真実の世界とは(その一)〜
(原文)
 乃至未起識 求住唯識性
 於二取随眠 猶未能伏滅
(読み方)
 ない・し・み・き・しき ぐ・じゅう・ゆい・しき・しょう
 お・に・しゅ・ずい・みん ゆう・み・のう・ぶく・めつ
(訓読)
 乃ち識を起こして、唯識の性に住せんと求めざるに至るまで、
 二取の随眠に猶お未だ伏滅すること能わず
(現代日本語訳)
 (では、その唯識実性という真実を極めるためには、どうしたらよいのでしょうか。それに至る道にはおおよそ五つの階位があるものと考えられています。
すなわち、)まず、最初の階位は、「資糧」と言われる階位です。これは、悟りの境地に達したいという心(識)は起きたものの、未だ教えについてしっかりと理解していませんので、唯識実性で説かれているような真に勝れた本性に到達したいと求めるに至っていない段階です。
 この段階では、二取(第十九頌参照)すなわち、認識するものと認識されるものが実体あるものと思ってしまう私たちの心の奥底にある執着をなお、未だに抑え消滅させることができていません。


(二十八)(第二十七頌)〜真実の世界とは(その二)〜
(原文)
 現前立少物 謂是唯識性
 以有所得故 非実住唯識
(読み方)
 げん・ぜん・りっ・しょう・もつ い・ぜ・ゆい・しき・しょう
 い・う・しょ・とく・こ ひ・じ・じゅう・ゆい・しき
(訓読)
 現前に少物を立てて、是れ(これ)唯識性と謂えり。
 所得有るを以ての故に、実に唯識に住ずるに非ず。
(現代日本語訳)
 次の階位は、「加行」と言われる階位です。この段階においては、現前に立てられた少物、すなわち、心に浮かんだ真如(第二十五頌参照)の影像(ようぞう)を真如そのものと思い込んでいます。つまり、心に浮かんだ真如は、影像相分にすぎないのに、それを唯識実性と勘違いしているわけです。
 これは、唯識という思想を持つことが唯識に即して生きることだと思っているにすぎず、これをもって、実際に唯識に生きることにはなっていません。
(説明)
 唯識論の理論を理解している、漢文やサンスクリット語が読める、お経を暗記している、などというのは、「私」が「何」かを知っているということで、ものと自我との間に分離があり、その上で知る・獲得するという形になっています。これは、すなわち、分別知にすぎないわけです(第二十九頌参照)。唯識論の本質は、無分別智(主体と客体の区別を超え、対象を言葉や概念によって把握しようとしないこと)の心になることですから、「加行」の階位はまだ途中の段階にあるにすぎません。


(二十九)(第二十八頌)〜真実の世界とは(その三)〜
(原文)
 若時於所縁 智都無所得
 爾時住唯識 離二取相故
(読み方)
 にゃく・じ・お・しょ・えん ち・と・む・しょ・とく
 に・じ・じゅう・ゆい・しき り・に・しゅ・そう・こ
(訓読)
 もし時に所縁に於いて智都(すべ)て所得無し。
 爾(そ)の時唯識に住す。二取の相を離れるが故に。
(現代日本語訳)
 第三の階位は、「通達」(つうだつ)と言われる階位です。もし、ある時、智(認識の作用)が、所縁、すなわち、認識の対象を全く把握しなくなるならば、
 その時こそ実際に唯識に生きているということになります。それは、二取(第十九頌、第二十六頌参照)すなわち、認識するものと、認識されるものが分裂した状態から離れるが故にそうなるということです。この段階に至ったのが、「通達」と言われる階位です。(説明)
 第二十七頌の(説明)の箇所で、指摘しましたとおり、唯識の本質は無分別智の心になることです。「通達」の段階に至りますと、主体と客体の区別を超え、認識対象を言葉や概念によって把握しなくなる段階になんとか辿り着いたと言えます。


(三十)(第二十九頌)〜真実の世界とは(その四)〜
(原文)
 無得不思議 是出世間智
 捨二麤(*3)重故 便証得転依
(読み方)
 む・とく・ふ・し・ぎ ぜ・しゅつ・せ・けん・ち
 しゃ・に・そ・じゅう・こ べん・しょう・とく・てん・ね
(訓読)
 無得なり不思議なり。是(こ)れ出世間の智なり。
 二の麤(*3)重を捨(しゃ)するが故に、便(すなわ)ち転依を証得す。
(現代日本語訳)
 第四の階位は、「修習」(しゅうじゅう)と言われる階位です。この階位においては、私たちがつかむこと(得)も、考えることもできない(不思議)、常識を超えた(出世間の)智の段階に至ったと言えます。
 この段階においては、二つの麤(*3)重(そじゅう)という人生を重苦しく空しいものにする二つの障害、すなわち煩悩障と所知障を完全に捨て去ることができる、というよりも、そうなるためにひたすら努力するということもなく自ずからそれらが脱落してしまうが故に、自己と自己に関わるすべてが智慧を依りどころとして再編されます。(いわゆる悟りを開いた状態になるわけです。)(二転位の妙果)
(用語解説)
煩悩障:心をかき乱す障害。
所知障:正しい智慧が生じるのを妨げる障害。
智慧:真理を明らかにし、悟りを開くはたらき。
(注釈)
(*3)「麤」
 この漢字も、お使いのパソコン、スマホ、ガラケーによっては、表示されない場合があります。表示されていない場合は添付写真をご覧ください。写真は鮮明ではないですね。「鹿」という漢字を下に二つ並べてその上に鹿という漢字を乗せた形です。

(三十一)(第三十頌)〜真実の世界とは(その五)〜
(原文)
 此即無漏界 不思議善常
 安楽解脱身 大牟尼妙法
(読み方)
 し・そく・む・ろう・かい ふ・し・ぎ・ぜん・じょう
 あん・らく・げ・だつ・しん だい・む・に・みょう・ほう
(訓読)
 此(こ)れは即(すなわ)ち無漏界なり、不思議なり、善なり、常(じょう)なり、
 安楽なり、解脱身なり、大牟尼なるを法と名く(なづく)。
(現代日本語訳)
 第五の階位は、「究竟」(くきょう)と言われる最後の究極の階位です。この段階においては、二転位の妙果(第二十九頌参照)により、汚れたものが漏れ出ることがない世界です(無漏界)。それは、私たちの思議(考えはかること)をはるかに超えた境地であり(不思議)、善であり、永遠に変わるということもありません(常)。
 そして、心は安楽であり、自己及び自己に関わるすべての執着から解放される身になります(解脱身)。いわば、無分別智(第二十七頌説明参照)を依りどころとして、大いなる牟尼(下記の説明参照)、すなわち、言語を絶した静寂の境地に至ります。それはまさに仏身になるということです。
(説明)
牟尼:�ー簗曄∪鼎�に瞑想してものを言わないこと。(≒静寂)�∧�様のこと。「悟る」とは、私たちの常識を超え、言葉を超えた存在に至るということで、まさに仏様になることであると解釈します。


(三十二)(釈結施願文)(しゃっけつせがんぶん)〜エピローグ〜
(原文)
 已依聖教及正理
 分別唯識性相義
 所獲功徳施群生
 願共速証無上覚
(読み方)
 い・え・しょう・ぎょう・ぎゅう・しょう・り
 ふん・べつ・ゆい・しき・しょう・そう・ぎ
 しょ・ぎゃく・く・どく・せ・ぐん・じょう
 がん・ぐ・そく・しょう・む・じょう・かく
(訓読)
 已(まさ)に聖教及び正理に依って
 唯識の性・相の義を分別せり。
 獲る所の功徳をもって群生に施す。
 願(ねがわ)くは、共に速(すみ)やかに無上覚を証ぜんことを。
(現代日本語訳)
 以上、清らかな教えと正しい考え方・もの事のとらえ方によって、
 すべてのことはわが心の展開だという物事の本質とそれについての様々な事柄を学んできました。
 この学修によって何らかの功徳が獲得できたのであれば、これをいのちあるものたち(群生)に施したいと思います。
 そして、皆と共に、速やかにこの上ない覚り(さとり)の境地(無上覚)に至ることを祈り(願)ます。


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          以上
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