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2019年09月05日18:01

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まさに本末転倒

日本の「部活第一主義」はもはや異常だ。
最近では部活を目的に学校を選ぶ「越境通学」なるものまで登場しているらしい。

そもそもなぜ、日本の教育現場はここまで「部活」に入れ込むのか?
正確に言えば「スポーツ」に入れ込んでいる、という事だろうか。

それは日本教育のスタンスの中心が「支配の論理」だったからだろうと思う。


まず戦前は、富国強兵のもとに学校制度が始まったわけだが、当時の学校はつまるところ「強い兵隊を養成する」のが目的だった。

強い兵隊、という事は当然屈強な肉体が求められる。
それなら学校教育の段階で、スポーツを取り入れることは実に理にかなっていたわけだ。
日本人が「スポーツ」と「教育」をしばしばセットで考えるのは、このころから始まった考え方なのだろう(言うまでもなく「スポーツを通じて健全な人間を教育できる」などというのは迷信なのだが)。

ついでに言えば、日本のスポーツの世界が過剰なまでに「上下関係」にこだわる(いわゆる体育会系)なのも、スポーツの延長線上に「軍人育成」があったのは明白だ。


そして戦後になって、それまで慣習で続いてきた部活には新たな機能が求められるようになる。
それは「非行防止」だ。

「青春時代には打ち込むものが必要だ」とよく言われるが、正確には「『疲れるもの』が必要」なのだ。

つまり「部活で生徒を(体力的に)限界まで追い込めば、非行に走る余力がなくなって平和になる」という思惑が教育現場にはあったのだ。

体力的に追い込むにはきつい練習が不可欠だが、そのためには大義名分が必要だ。
「やるからにはてっぺん目指す」
ここでこの論理が登場するわけだ。


みんながトップ争いをするようになれば競争は過熱する。
そうなれば、いつのまにか「競争に勝つ」ことが目的になってしまい、もはや部活は本来の存在理由を失う。

あまつさえ「部活の評判=学校のステータス」になってしまった現在、もはや後には引けなくなってしまったのだ。


余談だが、戦前戦後問わず、部活が「生徒に運動をさせる」ことが目的である以上、運動しない文化部は部活として「好ましくない」存在という事になる。
「運動部が上で、文化部が下」という露骨な差別がまかり通るのも、本当は全生徒にスポーツをやらせたいからだったのだろう。


総括すると、部活はもはや「なんのため」を見失った「過去の遺物」に他ならない、という事だ。
ただ「去年やっていたことを今年も繰り返す」では、そのうち行き詰ること請け合いだ。


「これが人の夢!人の望み!人の業!」
「他者より強く、他者より先へ、他者より上へ!」
「競い、妬む、憎んでその身を喰い合う!」
(機動戦士ガンダムSEED 第49話「終末の光」より)

■「部活が負担」教員の7割 「勤務時間を超える」「全くの専門外のため指導できず生徒が可哀想」
(キャリコネ - 09月05日 12:10)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=210&from=diary&id=5776416
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