2770日目
沙和地(素名和地)、海人(阿每訊)の武の后・・・
照=曌(明+空)=媚娘=女+眉+女+良
武曌(明+空)・・・暗(日+音)+空⇔闇夜⇔日食・日蝕
↓↑
則天武后
・・・厠顛武行(武孝・武考)?
厠=厂+貝(目ハ)+刂
=かわや=はばかり=便所
=手水(ちょうず)
=東司(トウス)=西浄(セイチン)
=トイレット (toilet)
顛=顚=傎=テン
顛=真+頁
十+具+頁
十+目+一+八+頁
顚=眞+頁
七+目+乚+八
傎=イ+眞
亻+ヒ+具
亻+ヒ+目+乚+八
真・眞
頁(おおがい・いちのかい
ケツ・ページ)
テン
いただき
くつがえる
たおれる
いただき・頭のてっぺん
物のてっぺん・山の頂上
はじめ・はじまり・もと
くつがえる・ひっくりかえる
たおれる・たおす・つまずく
おちる・転がりおちる
正気を失っている・正常ではない
顛末・天頂
武の行・・・十一月初旬
皇后になった武照は
厠に監禁されていた・・・?
王氏(前皇后)
と
蕭氏(前淑妃)
を棍杖で百叩きに処し処刑・・・本当カナ・・・?
↓↑
637年
太宗の後宮に入り
才人(二十七世婦の一つ・正五品)
太宗死後
女性の道士(坤道)となり
道教寺院(道観)で修行・・・?
↓↑ ↓↑
かわや づめ=厠詰め
せっちんづめ=雪隠(厠)詰
将棋で相手の王将を
盤の隅に追い込んで詰めること
逃げ場のない所へ追い詰めること
雪隠(厠)責め・・・仕置き
ーー↓↑ーー
おしっこ=古語「しと」
↓↑ 「ゆばり・ゆまり(湯放)」
粗相の語源は「麁相」・・・
失禁=オランダ語
「lekheid(漏れ)」の訳語
蘭方医が考案
おしっこ=pee(ピー)・urine(ユリン)
wee(ウィ)
piss(ピス)・Don’t piss me off!
うんこ =poo(プー)・Shit(シット)
stool(ストゥール)
Bowel Movement(バウルムーブメント)
feces(フィーシーズ)
excrement(エクスクレメント)
↓↑ Bullshit(ブーシッ)
stool(ストゥール)
stool(スツール)
背もたれと肘掛けのない椅子
通例3〜4本の脚が付いている
ひじ掛け・背のない腰掛け
踏み台・ひざつき台・足台(footstool)
《園芸》親木・親株・親株から出る若枝
狩猟で使うおとりの留まり木
おとり
トイレ・腰掛け式便器
↓↑
stool pigeon
椅子の鳩
密告者・スパイ・犯罪組織のおとり
An informer or spy.
情報提供者、スパイ
木の根元や切株
↓↑
「首まき」
comforter
muffler
neckerchief
↓↑
襟巻き(えりまき)
首巻き(くびまき)
マフラー(muffler)
首の周囲に巻く
細長い長方形をした厚手の布で、防寒具
カシミヤの襟巻き
襟巻きを巻く人
スカーフ(scarf)
↓↑
首巻
muffler
scarf
肩掛け
shawl
stole
ストール(stole)=肩掛け
↓↑
スティール (steal,steel,steele)
steal(盗む)
↓↑
steel
鋼 (steel)=鉄の合金
スチール線・スチール呼線
配管内にケーブルを通す場合に使用する通線工具
スティール・ギター
still
スチル写真 (still)
写真・静止画・・・
stall=売店・露店・屋台
ストール
stalls・stalling・stalled
↓↑
stall=畜舎の1頭用の仕切り
家畜小屋・馬屋・牛舎
競馬のスターティングゲート
トイレ・シャワーなどの1人用個室
↓↑
stall=時間を稼ぐために決断を遅らせる
何らかの行動をとるのを先に延ばす
↓↑
stall=売店・露店・屋台
馬・牛を入れる馬屋のひと仕切
ーー↓↑ーー
則天武后・・・「悪女」だったのか・・・?
↓↑
帝位を継いだ高宗の
皇后
王氏
と
蕭淑妃
が対立
皇后が
高宗に
武照の入宮を推薦
武照は
昭儀(九嬪の一つ、正二品)として
後宮に入宮
↓↑
永徽六年(655年)六月
高宗は武照を
昭儀から新たに設けた
宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとし
宰相の
韓瑗
と
来済の反対
↓↑
同年
永徽六年(655年)
中書舎人の
李義府
などの側近が
皇后廃立
と
武照擁立の意図を揣摩
許敬宗
崔義玄
袁公瑜
らの大臣が結託し
高宗に
武照立后の上奏文を送った
高宗は
王皇后を廃し
武照を皇后に立てることを
重臣に下問
↓↑
太宗の
皇后
長孫氏の兄で
高宗の伯父
長孫無忌
褚遂良
于志寧
李勣
の4人
下問に
長孫無忌
褚遂良
は反対
于志寧は賛成も反対も言わず
李勣が
皇后の廃立を容認
↓↑
永徽六年(655年)
10月13日(11月16日)
高宗は詔書で
「陰謀下毒」の罪
により
王皇后
蕭淑妃
2名を庶民に落とし投獄
親族は官位剥奪し
嶺南への流罪を宣告
7日後
詔書を発布で
武照を立后
諫言した
褚遂良を
潭州都督へ左遷
↓↑
潭=氵(水)+覃・・・譚=言+覃
氵+覀+早
氵+覀+日+十
襾・西・覀=ア
(おおいかんむり・にし・かなめかしら)
タン
ふち
水を深くたたえた所
潭水・深潭・碧潭
底深いさま
潭潭
タン・ジン・シン・イン
みぎわ・ふち・ふかい
水辺・岸・ほとり
↓↑
永徽六年(655年)
十一月初旬
皇后になった武照は
監禁されていた
王氏(前皇后)
と
蕭氏(前淑妃)
を棍杖で百叩きに処し
処刑
↓↑
トイレ=雪隠=セッチン
雪=「雨(丅・冂・::)+彐(彑・∃・⺕)」+「隠す」
丅(カ)=下(した・ゲ)の
冂(囲いの穴)を
::(水)を濯いで隠す
「雨=あめ・雨水・::(上水で下水に流す)」
「彐・彑・∃・⺕=いのこがしら・ケイ・ブタの頭
(彑頭)、いのこがしら(豕頭)
手を意味する「⺕」・・・鳥の爪の形象
鷲摑みの「手=指+爪」、「熊手」
フォーク=fork・ホーク=hawk
フォーク=folk folk song・
フォルクス(ドイツ語 Volks)=国民、大衆の
「雪=白い有紀」を隠す?・・・接沈をカクス?
↓↑ ↓↑
唐の
雪竇(セッチョウ)禅師が
霊隠寺の厠をつかさどった故事?
唐の禅師
雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事?
↓↑
「ちょっと花を摘みに」
フランス貴族女性の用足し隠語
↓↑
尿瓶(しびん)
尿を受けるための瓶状の容器
尿筒(しとづつ)=完筒・環筒(かんづつ)
↓↑
おまる(御虎子)
「お 」は接頭語
「まる」は
大小便をする動詞
「まる=放る」
「御虎子」の当字は「糞便」の丸、渦巻き形象・・・
「おまる」=木製の浅い桶で小判形
小判を「虎(とら)の子」・・・?
↓↑
小判の流通は
慶長六年(1601年)
徳川家康が
後藤家に命じて鋳造させた
慶長小判
万延元年(1860年)
万延小判まで10種発行
↓↑
天正十六年 (1588年)
豊臣秀吉が
後藤徳乗に命じて鋳造させた
天正大判
↓↑
金=原子番号79の元素
第11族元素に属する金属元素
こがね・くがね
↓↑ ↓↑
武川鎮軍閥(ブセンチングンバツ)
中国南北朝時代の
西魏
北周
隋・唐
の支配層を形成していた集団
関隴集団とも・・・
↓↑
武川鎮は「王気」が聚まる所
(趙翼の著『二十二史箚記』)
↓↑
「関隴集団」
貴族集団=論証
(陳寅恪の『唐代政治史述論稿(1944年)』
↓↑
武川鎮
北魏前期の首都
「平城」
を北の
柔然から防衛役割の6つの鎮の一
北魏では
各国境に
匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)
鎮将を置き、当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた
他の地域の鎮は
北魏の中央集権化が進むと共に廃止
六鎮のみはそのまま残され
鎮民たちは
選民として特別待遇を受けてた
↓↑
北魏の漢化政策で
六鎮の地位は下落
孝文帝により
洛陽遷都で
六鎮はほとんど
流刑地になった
六鎮の者たちは不満を抱き
六鎮の乱を起こし
北魏全体を混乱させた
↓↑
乱は
爾朱栄
が収めたが
北魏の混乱は
軍閥割拠状態となった・・・
↓↑
戦乱を勝ち抜いたのが
六鎮の一
懐朔鎮出身
高歓
武川鎮出身
宇文泰
それぞれ皇帝を擁立し
北魏は
高 歓の東魏
宇文泰の西魏(陝西省・甘粛省)
に分裂
武川鎮軍閥=関隴集団(関隴貴族集団)とも
関=関中(陝西省)
隴=隴西(甘粛省南東部)
↓↑
宇文泰は
東魏に対抗するために
府兵制を創始
軍を
十二大将軍・八柱国
をその指揮官とした
大将軍・柱国には
武川鎮出身者を就け
西魏
北周
の支配者集団となった
北周末期より貴族化が進み
軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、
関隴集団と呼ぶ・・・
ーーーーー
・・・???・・・
ーー↓↑ーー
武氏の出身・・・天武天皇の縁戚・・・?
↓↑
父の
武士彠(ぶしかく)・・・武士のハカリ?
・・・彠=尋+蒦(艹+隻)
蒦=艹+隻
艹+隹+又
カク
はかる・指で長さを測る
手でとらえる・手に持つ
彠=クワク・ワク・カク・キャク・ヤク
はかる・ものさし・のり
は
山西省の
商人(材木商)で
隋の煬帝
唐の高祖
に仕えた役人
↓↑ ↓↑
武士彠(ブシャク)
↓↑
577年〜635年
字は
信明
本貫・・・本を貫く
は
并州・・・并(併立・併合)の州
文水県・・文の水を懸ける
財産家の
武華の子・・・武の華の子?
↓↑
隋末に鷹揚府隊正
唐公
李淵が
太原留守となると
士彠は行軍司鎧参軍
劉弘基
長孫順徳
が
李淵の命を受けて兵を集め
副留守の
王威・・・・王の威(おどす・たけし・威嚇)
威=戊+一+女・・・権威
高君雅・・・高の君の雅(からす)・・・加羅州
らが
その意図を疑ったが
士彠は
「唐公の客である」と誤魔化した
司兵参軍の
田徳平・・・田の徳(悳)の平(たいら)
が募兵の状況を
王威に訴えようとすると
士彠は
田徳平を脅して
報告を止めさせた
↓↑
李淵が起兵
士彠は大将軍府鎧曹参軍
長安の平定に参加した功績により
光禄大夫となり
太原郡公・・・太の原の郡の公
に封ぜられた
↓↑
士彠は
工部尚書に累進
応国公に封ぜられ
利州都督
荊州都督を歴任
635年死去
礼部尚書の位を贈
諡は「定」・・・さだむ・・・サダム・フセイン?
↓↑
永徽年間
士彠の次女の
武照が皇后に上ると
并州都督・司徒の位を追贈
周国公に追封
↓↑
咸亨年間
太尉・太子太師
の位を加えられ
太原郡王に追封
↓↑
武照が朝政をみるようになると
士彠は
忠孝太皇と追尊
崇先府が建てられて、属官が置かれ
五代にさかのぼって
王位を追贈
↓↑
武周が建てられると
東都に
武氏七廟が建てられ
帝に追冊
↓↑
先天年間・・・睿宗-李旦の治世の元号
712年〜713年・・・古事記(712年)
士彠の
帝号が削られ
太原王とされ
武氏七廟も廃止された
↓↑
士彠は
相里氏・・・ 相の里
を妻とし
武元慶
武元爽
の二男をもうけた
↓↑
後
楊氏(栄国夫人、楊達の娘)
を後妻とし
三女をもうけた
長女は
賀蘭越石・・・加賀・和蘭(阿蘭陀)
越前・越中・越後・石川・・・?
の夫人となり
韓国夫人・・・「韓国」の夫人・・・?
に封ぜられた
次女の
武照は
高宗の皇后、帝位に上った
三女は
郭孝慎の夫人・・・「郭務悰」の縁戚・・・?
↓↑
兄に
武士棱
武士譲
武士逸
がおり
兄の
武士譲の子として
武懐亮(惟良)
武懐道
武懐運(弘度)
ら
↓↑ ↓↑
則天武后
14歳
太宗の後宮に入り
武照・・・「武を照らす持統(字問う)天皇」
と称す
↓↑
太宗の死後
尼になったが
還俗し
太宗の息子の
高宗の後宮に入った
↓↑
高宗の皇后となり
後
高宗が病弱で・・・???
「垂簾の政」を執政
↓↑
高宗と
皇后
武氏(則天武后)は
竜門に
毘盧舎那仏
の
大仏造営を発願
武后は自らの
脂粉銭(お化粧代)
二万貫を寄付
大仏の顔は
武后に似せて造られた
↓↑
則天武后
唐の高宗の皇后
664年に実権を握る・・・
↓↑
唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
665年・・・日蝕
為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
志彙編七 p.2024
ーー↓↑ーー↓↑
正始八年春二月朔
西暦247年3月24日の日食
・・・???・・・
天文律暦志にのる日食限の記述の変遷
↓↑
宋書・景初暦
237年
入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。
志彙編六 p.1696
↓↑
隋書・皇極暦
未施行(604年)
交限以上者月食、月在[裏]者日食
志彙編六 p.1957
↓↑
唐書・戊寅元暦
619年
交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕
志彙編七 p.1986
↓↑
唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
665年
為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
志彙編七 p.2024
↓↑
唐書・大衍暦
728年
望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕
志彙編七 p.2024
(古代日食計算における陽暦法の発見)
by
http://www.wagoyomi.info/youreki.html
ーー↓↑ーー↓↑
夏の第4代
仲康の時代
天文官の
羲氏・・・・・魏志?
と
和氏・・・・・倭史・和史?
が酒色に溺れ
天文観測をさぼり
日蝕の予報を出さず
暦を乱し死罪になった
ーー↓↑ーー↓↑
53年、158年、247年年、248年
の4回の皆既日食
ーー↓↑ーー↓↑
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