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2019年08月25日22:02

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もじたま日記・2770日目・棍杖で百叩きに処し処刑・本当カナ?

 2770日目
 沙和地(素名和地)、海人(阿每訊)の武の后・・・
 照=曌(明+空)=媚娘=女+眉+女+良
 武曌(明+空)・・・暗(日+音)+空⇔闇夜⇔日食・日蝕
 ↓↑
フォト

 則天武后
  ・・・厠顛武行(武孝・武考)?
  厠=厂+貝(目ハ)+刂
   =かわや=はばかり=便所
   =手水(ちょうず)
   =東司(トウス)=西浄(セイチン)
   =トイレット (toilet)
  顛=顚=傎=テン
  顛=真+頁
   十+具+頁
   十+目+一+八+頁
 顚=眞+頁
   七+目+乚+八
 傎=イ+眞
   亻+ヒ+具
   亻+ヒ+目+乚+八
   真・眞
   頁(おおがい・いちのかい
     ケツ・ページ)
   テン
   いただき
   くつがえる
   たおれる
   いただき・頭のてっぺん
   物のてっぺん・山の頂上
   はじめ・はじまり・もと
   くつがえる・ひっくりかえる
   たおれる・たおす・つまずく
   おちる・転がりおちる
   正気を失っている・正常ではない
   顛末・天頂
   武の行・・・十一月初旬
   皇后になった武照は
   厠に監禁されていた・・・?
   王氏(前皇后)
   と
   蕭氏(前淑妃)
   を棍杖で百叩きに処し処刑・・・本当カナ・・・?
フォト

 ↓↑
 637年
 太宗の後宮に入り
 才人(二十七世婦の一つ・正五品)
 太宗死後
 女性の道士(坤道)となり
 道教寺院(道観)で修行・・・?
 ↓↑      ↓↑
 かわや づめ=厠詰め
 せっちんづめ=雪隠(厠)詰
        将棋で相手の王将を
        盤の隅に追い込んで詰めること
        逃げ場のない所へ追い詰めること
        雪隠(厠)責め・・・仕置き
フォト

ーー↓↑ーー
 おしっこ=古語「しと」
 ↓↑  「ゆばり・ゆまり(湯放)」
     粗相の語源は「麁相」・・・
     失禁=オランダ語
       「lekheid(漏れ)」の訳語
        蘭方医が考案
     おしっこ=pee(ピー)・urine(ユリン)
          wee(ウィ)
          piss(ピス)・Don’t piss me off!
     うんこ =poo(プー)・Shit(シット)
          stool(ストゥール)
          Bowel Movement(バウルムーブメント)
          feces(フィーシーズ)
          excrement(エクスクレメント)
 ↓↑        Bullshit(ブーシッ)
 stool(ストゥール)
 stool(スツール)
 背もたれと肘掛けのない椅子
 通例3〜4本の脚が付いている
 ひじ掛け・背のない腰掛け
 踏み台・ひざつき台・足台(footstool)
 《園芸》親木・親株・親株から出る若枝
 狩猟で使うおとりの留まり木
 おとり
 トイレ・腰掛け式便器
 ↓↑
 stool pigeon
 椅子の鳩
 密告者・スパイ・犯罪組織のおとり
 An informer or spy.
 情報提供者、スパイ
 木の根元や切株
 ↓↑
 「首まき」
 comforter
 muffler
 neckerchief
 ↓↑
 襟巻き(えりまき)
 首巻き(くびまき)
 マフラー(muffler)
 首の周囲に巻く
 細長い長方形をした厚手の布で、防寒具
 カシミヤの襟巻き
 襟巻きを巻く人
 スカーフ(scarf)
 ↓↑
 首巻
 muffler
 scarf
 肩掛け
 shawl
 stole
 ストール(stole)=肩掛け
 ↓↑
 スティール (steal,steel,steele)
 steal(盗む)
 ↓↑
 steel
 鋼 (steel)=鉄の合金
 スチール線・スチール呼線
 配管内にケーブルを通す場合に使用する通線工具
 スティール・ギター
 still
 スチル写真 (still)
 写真・静止画・・・
 stall=売店・露店・屋台
 ストール
 stalls・stalling・stalled
 ↓↑
 stall=畜舎の1頭用の仕切り
     家畜小屋・馬屋・牛舎
     競馬のスターティングゲート
     トイレ・シャワーなどの1人用個室
 ↓↑
 stall=時間を稼ぐために決断を遅らせる
     何らかの行動をとるのを先に延ばす
 ↓↑
 stall=売店・露店・屋台
     馬・牛を入れる馬屋のひと仕切
フォト

ーー↓↑ーー
 則天武后・・・「悪女」だったのか・・・?
 ↓↑
 帝位を継いだ高宗の
 皇后
 王氏
 と
 蕭淑妃
 が対立
 皇后が
 高宗に
 武照の入宮を推薦
 武照は
 昭儀(九嬪の一つ、正二品)として
 後宮に入宮
 ↓↑
 永徽六年(655年)六月
 高宗は武照を
 昭儀から新たに設けた
 宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとし
 宰相の
 韓瑗
 と
 来済の反対
 ↓↑
 同年
 永徽六年(655年)
 中書舎人の
 李義府
 などの側近が
 皇后廃立
 と
 武照擁立の意図を揣摩
 許敬宗
 崔義玄
 袁公瑜
 らの大臣が結託し
 高宗に
 武照立后の上奏文を送った
 高宗は
 王皇后を廃し
 武照を皇后に立てることを
 重臣に下問
 ↓↑
 太宗の
 皇后
 長孫氏の兄で
 高宗の伯父
 長孫無忌
 褚遂良
 于志寧
 李勣
 の4人
 下問に
 長孫無忌
 褚遂良
 は反対
 于志寧は賛成も反対も言わず
 李勣が
 皇后の廃立を容認
 ↓↑
 永徽六年(655年)
 10月13日(11月16日)
 高宗は詔書で
 「陰謀下毒」の罪
 により
 王皇后
 蕭淑妃
 2名を庶民に落とし投獄
 親族は官位剥奪し
 嶺南への流罪を宣告
 7日後
 詔書を発布で
 武照を立后
 諫言した
 褚遂良を
 潭州都督へ左遷
 ↓↑
 潭=氵(水)+覃・・・譚=言+覃
   氵+覀+早
   氵+覀+日+十
     襾・西・覀=ア
    (おおいかんむり・にし・かなめかしら)
   タン
   ふち
   水を深くたたえた所
   潭水・深潭・碧潭
   底深いさま
   潭潭
   タン・ジン・シン・イン
   みぎわ・ふち・ふかい
   水辺・岸・ほとり
 ↓↑
 永徽六年(655年)
 十一月初旬
 皇后になった武照は
 監禁されていた
 王氏(前皇后)
 と
 蕭氏(前淑妃)
 を棍杖で百叩きに処し
 処刑
フォト

 ↓↑
 トイレ=雪隠=セッチン
     雪=「雨(丅・冂・::)+彐(彑・∃・⺕)」+「隠す」
          丅(カ)=下(した・ゲ)の
               冂(囲いの穴)を
               ::(水)を濯いで隠す
       「雨=あめ・雨水・::(上水で下水に流す)」
       「彐・彑・∃・⺕=いのこがしら・ケイ・ブタの頭
                (彑頭)、いのこがしら(豕頭)
              手を意味する「⺕」・・・鳥の爪の形象
                鷲摑みの「手=指+爪」、「熊手」
                フォーク=fork・ホーク=hawk
                フォーク=folk folk song・
                フォルクス(ドイツ語 Volks)=国民、大衆の
       「雪=白い有紀」を隠す?・・・接沈をカクス?
 ↓↑      ↓↑
 唐の
 雪竇(セッチョウ)禅師が
 霊隠寺の厠をつかさどった故事?
 唐の禅師
 雪峰義存が厠を掃除して大悟した故事?
 ↓↑
 「ちょっと花を摘みに」
 フランス貴族女性の用足し隠語
 ↓↑
 尿瓶(しびん)
 尿を受けるための瓶状の容器
 尿筒(しとづつ)=完筒・環筒(かんづつ)
 ↓↑
フォト

 おまる(御虎子)
 「お 」は接頭語
 「まる」は
 大小便をする動詞
 「まる=放る」
 「御虎子」の当字は「糞便」の丸、渦巻き形象・・・
 「おまる」=木製の浅い桶で小判形
 小判を「虎(とら)の子」・・・?
 ↓↑
 小判の流通は
 慶長六年(1601年)
 徳川家康が
 後藤家に命じて鋳造させた
 慶長小判
 万延元年(1860年)
 万延小判まで10種発行
 ↓↑
 天正十六年 (1588年)
 豊臣秀吉が
 後藤徳乗に命じて鋳造させた
 天正大判
 ↓↑
 金=原子番号79の元素
      第11族元素に属する金属元素
   こがね・くがね
 ↓↑ ↓↑
 武川鎮軍閥(ブセンチングンバツ)
 中国南北朝時代の
 西魏
 北周
 隋・唐
 の支配層を形成していた集団
 関隴集団とも・・・
 ↓↑
 武川鎮は「王気」が聚まる所
 (趙翼の著『二十二史箚記』)
 ↓↑
 「関隴集団」
 貴族集団=論証
 (陳寅恪の『唐代政治史述論稿(1944年)』
 ↓↑
 武川鎮
 北魏前期の首都
 「平城」
 を北の
 柔然から防衛役割の6つの鎮の一
 北魏では
 各国境に
 匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)
 鎮将を置き、当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた
 他の地域の鎮は
 北魏の中央集権化が進むと共に廃止
 六鎮のみはそのまま残され
 鎮民たちは
 選民として特別待遇を受けてた
 ↓↑
 北魏の漢化政策で
 六鎮の地位は下落
 孝文帝により
 洛陽遷都で
 六鎮はほとんど
 流刑地になった
 六鎮の者たちは不満を抱き
 六鎮の乱を起こし
 北魏全体を混乱させた
 ↓↑
 乱は
 爾朱栄
 が収めたが
 北魏の混乱は
 軍閥割拠状態となった・・・
 ↓↑
 戦乱を勝ち抜いたのが
 六鎮の一
 懐朔鎮出身
 高歓
 武川鎮出身
 宇文泰
 それぞれ皇帝を擁立し
 北魏は
 高 歓の東魏
 宇文泰の西魏(陝西省・甘粛省)
 に分裂
 武川鎮軍閥=関隴集団(関隴貴族集団)とも
 関=関中(陝西省)
 隴=隴西(甘粛省南東部)
 ↓↑
 宇文泰は
 東魏に対抗するために
 府兵制を創始
 軍を
 十二大将軍・八柱国
 をその指揮官とした
 大将軍・柱国には
 武川鎮出身者を就け
 西魏
 北周
 の支配者集団となった
 北周末期より貴族化が進み
 軍閥と呼ぶのはふさわしくないので、
 関隴集団と呼ぶ・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
ーー↓↑ーー
 武氏の出身・・・天武天皇の縁戚・・・?
 ↓↑
 父の
 武士彠(ぶしかく)・・・武士のハカリ?
    ・・・彠=尋+蒦(艹+隻)
           蒦=艹+隻
             艹+隹+又
    カク
    はかる・指で長さを測る
    手でとらえる・手に持つ
       彠=クワク・ワク・カク・キャク・ヤク
        はかる・ものさし・のり    
 は
 山西省の
 商人(材木商)で
 隋の煬帝
 唐の高祖
 に仕えた役人
 ↓↑ ↓↑
 武士彠(ブシャク)
 ↓↑
 577年〜635年
 字は
 信明
 本貫・・・本を貫く
 は
 并州・・・并(併立・併合)の州
 文水県・・文の水を懸ける
 財産家の
 武華の子・・・武の華の子?
 ↓↑
 隋末に鷹揚府隊正
 唐公
 李淵が
 太原留守となると
 士彠は行軍司鎧参軍
 劉弘基
 長孫順徳
 が
 李淵の命を受けて兵を集め
 副留守の
 王威・・・・王の威(おどす・たけし・威嚇)
         威=戊+一+女・・・権威
 高君雅・・・高の君の雅(からす)・・・加羅州
 らが
 その意図を疑ったが
 士彠は
 「唐公の客である」と誤魔化した
 司兵参軍の
 田徳平・・・田の徳(悳)の平(たいら)
 が募兵の状況を
 王威に訴えようとすると
 士彠は
 田徳平を脅して
 報告を止めさせた
 ↓↑
 李淵が起兵
 士彠は大将軍府鎧曹参軍
 長安の平定に参加した功績により
 光禄大夫となり
 太原郡公・・・太の原の郡の公
 に封ぜられた
 ↓↑
 士彠は
 工部尚書に累進
 応国公に封ぜられ
 利州都督
 荊州都督を歴任
 635年死去
 礼部尚書の位を贈
 諡は「定」・・・さだむ・・・サダム・フセイン?
 ↓↑
 永徽年間
 士彠の次女の
 武照が皇后に上ると
 并州都督・司徒の位を追贈
 周国公に追封
 ↓↑
 咸亨年間
 太尉・太子太師
 の位を加えられ
 太原郡王に追封
 ↓↑
 武照が朝政をみるようになると
 士彠は
 忠孝太皇と追尊
 崇先府が建てられて、属官が置かれ
 五代にさかのぼって
 王位を追贈
 ↓↑
 武周が建てられると
 東都に
 武氏七廟が建てられ
 帝に追冊
 ↓↑
 先天年間・・・睿宗-李旦の治世の元号
        712年〜713年・・・古事記(712年)
 士彠の
 帝号が削られ
 太原王とされ
 武氏七廟も廃止された
 ↓↑
 士彠は
 相里氏・・・ 相の里
 を妻とし
 武元慶
 武元爽
 の二男をもうけた
 ↓↑
 後
 楊氏(栄国夫人、楊達の娘)
 を後妻とし
 三女をもうけた
 長女は
 賀蘭越石・・・加賀・和蘭(阿蘭陀)
        越前・越中・越後・石川・・・?
 の夫人となり
 韓国夫人・・・「韓国」の夫人・・・?
 に封ぜられた
 次女の
 武照は
 高宗の皇后、帝位に上った
 三女は
 郭孝慎の夫人・・・「郭務悰」の縁戚・・・?
 ↓↑
 兄に
 武士棱
 武士譲
 武士逸
 がおり
 兄の
 武士譲の子として
 武懐亮(惟良)
 武懐道
 武懐運(弘度)
 ら
 ↓↑ ↓↑
 則天武后
 14歳
 太宗の後宮に入り
 武照・・・「武を照らす持統(字問う)天皇」
 と称す
 ↓↑
 太宗の死後
 尼になったが
 還俗し
 太宗の息子の
 高宗の後宮に入った
 ↓↑
 高宗の皇后となり
 後
 高宗が病弱で・・・???
 「垂簾の政」を執政
 ↓↑
 高宗と
 皇后
 武氏(則天武后)は
 竜門に
 毘盧舎那仏
 の
 大仏造営を発願
 武后は自らの
 脂粉銭(お化粧代)
 二万貫を寄付
 大仏の顔は
 武后に似せて造られた
 ↓↑
 則天武后
 唐の高宗の皇后
 664年に実権を握る・・・
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年・・・日蝕
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
ーー↓↑ーー↓↑
 正始八年春二月朔
 西暦247年3月24日の日食
 ・・・???・・・
 天文律暦志にのる日食限の記述の変遷
 ↓↑
 宋書・景初暦
 237年
 入交限数以上者、朔則交會、望則月蝕。
 志彙編六 p.1696
 ↓↑
 隋書・皇極暦
 未施行(604年)
 交限以上者月食、月在[裏]者日食
 志彙編六 p.1957
 ↓↑
 唐書・戊寅元暦
 619年
 交限巳上、望則月食、其朔在内道者、朔則日蝕
 志彙編七 p.1986
 ↓↑
 唐書・麟徳暦(儀鳳暦)
 665年
 為入蝕限、望則月食、朔入限、月在裏者、日蝕
 志彙編七 p.2024
 ↓↑
 唐書・大衍暦
 728年
 望入蝕限、則月食、朔入蝕限、月在陰暦則日蝕
 志彙編七 p.2024
 (古代日食計算における陽暦法の発見)
 by http://www.wagoyomi.info/youreki.html
ーー↓↑ーー↓↑
 夏の第4代
 仲康の時代
 天文官の
 羲氏・・・・・魏志?
 と
 和氏・・・・・倭史・和史?
 が酒色に溺れ
 天文観測をさぼり
 日蝕の予報を出さず
 暦を乱し死罪になった
ーー↓↑ーー↓↑
 53年、158年、247年年、248年
 の4回の皆既日食 
ーー↓↑ーー↓↑
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