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2019年08月17日00:04

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8月17日の日記

今日の出来事:798年−坂上田村麻呂が清水寺を建立、1338年−南北朝動乱:燈明寺畷の戦い、1871年−太政官札贋造事件、1877年−西南戦争:可愛岳突破、1942年−第二次世界大戦:マキン奇襲、マキン環礁をアメリカ海兵隊が奇襲し、日本海軍陸戦隊が壊滅、1949年−松川事件:東北本線でレールが外され列車が脱線転覆、1982年−ABBAの「The Visitors」が世界初のCDとして製造される

今日は、坂上田村麻呂が清水寺を建立です。大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至りました。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に籠って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士という白衣の修行者がいました。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して去っていきました。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置しました。これが清水寺の始まりとなりました。その後、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会いました。坂上田村麻呂は妻・高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来ました。延鎮より殺生の罪を説かれて、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進しました。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰る事ができました。坂上田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀りました。これらの縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願としています。現在は、「古都京都の文化財」として「ユネスコ世界遺産」に登録されています。

次に、南北朝動乱:燈明寺畷の戦いです。湊川決戦(湊川の戦い)で足利尊氏に敗れた後、比叡山に逃れた宮方は足利軍に奪還された京都を取り戻すために、賀茂糺河原などに攻め下りましたが阻まれました。後醍醐天皇は足利尊氏との和議を進め、新田義貞を捨てて比叡山から下山しようとしましたが、新田一門の堀口貞満が天皇に「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と奏上し、直前に阻止しました。後醍醐天皇は朝敵となる可能性の出て来た新田義貞に対し、皇位を恒良親王に譲り、恒良親王と尊良親王を委任して官軍である事を保証する事で決着し、下山しました。新田義貞は両親王と子・新田義顕、弟・脇屋義助とともに北陸道を進みました。折からの猛吹雪で凍死者を出しながら、足利軍の攻撃に大迂回を余儀なくされたりしながらも、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)に入りましたが、高師泰・斯波高経が率いる軍勢に包囲されました。新田義貞、脇屋義助は杣山城(福井県南条郡南越前町)に脱出し、杣山城主・瓜生保と協力して金ヶ崎城の包囲陣を破ろうしましたが失敗しました。そして、金ヶ崎城は落城し、尊良親王、新田義顕は自害し、恒良親王は捕らえられて京へ護送されました。その後、新田義貞は「鯖江合戦」で斯波高経に勝利し、越前府中を奪い、金ヶ崎城も奪還しました。足利方に寝返った平泉寺衆徒が籠もる藤島城を攻める味方部隊を督戦に向かいましたが、越前国藤島の燈明寺畷(福井県福井市新田塚)で黒丸城から加勢に向かう敵軍と偶然遭遇し、戦闘の末に戦死しました。首級は京都に送られ、鎌倉幕府滅亡時に入手した清和源氏累代の家宝である「名刀・鬼切丸」もこの時足利氏の手に渡りました。

その次に、太政官札贋造事件です。1868年、新政府は「戊辰戦争」の戦費調達のため、金札を発行しました。これを「太政官札」と言います。これを諸藩に貸付け、藩財政の補填に充てられました。一方で新政府は「通貨一元化」のため、諸藩の藩札の発行を禁止しました。福岡藩は、「太政官札」を当面の財政需要に充てました。しかし、維新政府が不安であったため「太政官札」の価値が下がり、金融難となりました。福岡藩の元勘定奉行で既に引退していた山本一心は、「戊辰戦争」の出費、新政府への拠出金などで窮乏の藩財政を救うにはこの方法しかないと、矢野安雄、福間重巳ら藩重役に「太政官札」の贋作を提案しました。そして、城内の二の櫓と「乙丑の獄」の責任を取って切腹して空家となっていた元家老・野村東馬の屋敷を工場として、制作にとりかかりました。贋造されたのは「太政官札」の他、「二分金」、「一朱金」、「二分銀」なども贋造されました。山本一心が過労で倒れた後も続けられ、藩財政はなんとか保たれました。しかし、日田県知事・松方正義により、福岡藩が「太政官札」を偽造して日田県内に流通していると告発が挙げられました。その後の明治政府の調査の結果、松方正義の告発が事実で福岡藩首脳が関与している事実が判明しました。このため、1871年8月17日、黒田長知は知藩事を解任され、後任に有栖川宮熾仁親王が就任しました。有栖川宮熾仁親王の福岡藩支配は、「廃藩置県」までの12日間に過ぎませんでしたが、知藩事の世襲が認められなかった事は江戸時代の改易に匹敵する重い処分でした。そして、藩知事・黒田長知を罷免閉門、最高幹部である大参事・立花増美、矢野安雄、権大参事・小河愛四郎、小参事・徳永織人、三隅伝八の5名が実行犯として処刑、その他に42人が流罪・閉門に処せられました。その後、福岡藩は「廃藩置県」により「福岡県」となりました。

その次の次に、西南戦争:可愛岳突破です。8月15日、「和田越の戦い」に敗れた薩摩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置きました。8月16日、西郷隆盛は「解軍の令」を出しました。これより、降伏する者が相次ぎ、精鋭のみ1000名程が残りました。8月17日午後4時、政府軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意しました。突破の隊編成として、前軍に河野圭一郎・辺見十郎太、中軍に桐野利秋・村田新八、後軍に中島健彦・貴島清をおき、池上四郎・別府晋介は約60名を率いて西郷隆盛を護衛しました。この時の突囲軍は精鋭300〜500でした。17日夜10時に児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始め、翌18日早朝に可愛岳の頂上に到着しました。ここから北側地区にいた政府軍を見たところ、警備が手薄であったため、西郷軍は辺見十郎太を先鋒に一斉に下山攻撃を開始しました。不意を衝かれた政府軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされました。このため、西郷軍は政府軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪う事に成功しました。

そのまた次に、第二次世界大戦:マキン奇襲です。太平洋戦争開戦時にイギリス領だったブタリタリ環礁は、開戦直後に日本海軍の第51警備隊などにより無血占領されました。ブタリタリ環礁の防備が手薄と判断したアメリカ軍は、コマンド部隊による奇襲攻撃を行う事を計画しました。その目的は「ガダルカナル島の戦い」の陽動作戦で、日本軍の戦力をソロモン諸島方面から引き抜かせる事にありました。潜水艦「ノーチラス」、「アルゴノート」に分乗した第2海兵奇襲大隊の選抜2個中隊は、真珠湾から出航しました。ゴムボートに乗り移った海兵隊は、ブタリタリ環礁の主島であるブタリタリ島に上陸しました。現地人から通報を受けた日本軍守備隊は、敵上陸を報告する電文を発すると迎撃に出動しました。日米両軍は銃撃戦となり、アメリカ潜水艦「ノーチラス」は支援砲撃を実施しました。アメリカ海兵隊の一部はボートが海流に流されて、偶然にも日本軍の背後に上陸したため、日本軍は挟み撃ちを受ける状況に陥りました。弾薬輸送車が破壊されて日本軍は弾薬が欠乏し、次第に劣勢となりました。機密書類を処分し、決別電を発信した後に突撃を敢行し、組織的抵抗を終えました。この作戦で、アメリカ軍の損害は戦死21人と収容作業時の溺死者7人、負傷者14人、捕虜9人でした。日本軍の被害は戦死43人、行方不明3人でした。

最後に、松川事件です。「下山事件」、「三鷹事件」と並び「国鉄三大ミステリー事件」の一つです。容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、未解決事件となりました。「三鷹事件」から約1ヶ月後の8月17日午前3時9分頃 、福島県信夫郡松川町(現福島市)を通過中だった青森発上野行き上り412号旅客列車(C51形蒸気機関車牽引)が、突如脱線転覆しました。現場は、東北本線・松川駅−金谷川駅間のカーブ入り口地点で、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線しました。機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡しました。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認されました。更にレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外され、ほとんど真っ直ぐなまま13mも移動されていました。周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見されました。「下山事件」、「三鷹事件」に続く鉄道事件として世間の注目を集めました。捜査当局はこの事件を、当時の大量人員整理に反対し、日本共産党の影響下にあった東芝松川工場(現北芝電機)労働組合と国鉄労働組合(国労)構成員の共同謀議による犯行との見込みを付けて捜査を行いました。その後、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けました。少年は松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙されました。国労員9名と東芝労組員10名の合計20名が逮捕、起訴されました。福島地裁による一審判決では、被告人20人全員が有罪(うち死刑5人)、仙台高裁による二審判決では17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となりましたが、裁判が進むにつれて被告らの無実が明らかになり、作家の広津和郎が中央公論で無罪論を展開しました。また宇野浩二、吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張、佐多稲子、壷井栄ら作家・知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まりました。そして、最高裁は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻しました。検察側の隠していた被告人達のアリバイを証明していた「諏訪メモ」の存在と「自在スパナ」(犯行に使われた凶器で松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが明るみに出て、検察の起訴事実は根底から覆される事態となりました。仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告人全員の無罪が確定しました。被告側弁護団の一員だった松本善明宛に、「私達は現犯人」と記した手紙が届きました。「私達は福島列車転覆事件を実際にやった私達今、被告として裁判に付されている方々本当に申し譯なく思います」とあり、事件に関わったのは7人で、名古屋(3人)、前橋(2人)、岡山(2人)とし、更に「事件には当時の共産係2名が関係して居ります」と記されていました。また、手紙が愛知県名古屋市熱田区から出された事が封筒の裏面に記載されていました。弁護団はジャーナリストなどとこの手紙を調査し、名古屋市熱田区の旅館で書かれた可能性がある事を突き止めました。手紙の筆者は、年齢当時35歳以上、高等小学校卒、文章をほとんど書かない、肉体労働に従事、東日本出身(東北地方か北海道)で、若い頃から外国で生活していた、という人物像が浮かびました。事件当時、松川駅の方から歩いてくる9人の背の高い男が目撃されており、「真犯人」からの手紙の人数と一致し、手紙の信用性を「決定的に高めた」としています。手紙を受け取った松本は「これは本物だ」と第一印象を述べています。しかし、1964年8月17日午前零時、汽車転覆等及び同致死罪の公訴時効を迎えました。

今日の誕生日:井伊直澄、山口多聞、江沢民、ジミー佐古田、青空球児(青空球児・好児)、ロバート・デ・ニーロ、笠谷幸生、ベンガル、ネルソン・ピケ、ベリンダ・カーライル(元ゴーゴーズ)、赤井英和、坂本千夏、長保有紀、ショーン・ペン、ガモウひろし、ジョルジーニョ、佐竹雅昭、はたけ(シャ乱Q)、華原朋美、蒼井優、戸田恵梨香、日向小次郎

今日の記念日:プロ野球ナイター記念日、パイナップルの日

今日の「今日訓」:本日は、1948年8月17日の夜に、日本のプロ野球史上初の夜間試合(ナイター)が行われました。試合は読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズで、横浜ゲーリッグ球場(横浜公園平和野球場)で行われました。この事から「プロ野球ナイター記念日」、「パ(8)イ(1)ナ(7)ップル」の語呂合わせで「パイナップルの日」となりました。
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