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2019年08月12日08:49

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主を信じ救われたがなぜ常に罪を犯してますか。😔

クリスチャンへの疑問質問!コミュのテーマ「主を信じ救われたがなぜ常に罪を犯してますか。考えてる顔」についてのコメントをメモ(記録)と致します


テーマ:「主を信じ救われたがなぜ常に罪を犯してますか。

柱書:

ゆき さん

2019年07月28日 11:55


「主を信じ救われたがなぜ常に罪を犯してますか。考えてる顔」、「罪から抜けたいけどなかなかできない!つかれた顔」という悩みを持ってる方はいらっしゃいませんか?実は私もそうだったのですが、ある説教から道を見つかりました顔(笑)、桜皆さんに分かち合いたいです! クローバー クローバー クローバー ハート(鼓動)ハート(鼓動)ハート(鼓動)
    本救われることと、完全な救いを獲得することの違い本

救われることと、完全な救いを獲得することの違いに触れるとき、兄弟姉妹の中にはこのように言う人がいるかもしれません。「救われることと、完全な救いを獲得することの間に、何か違いがあるのでしょうか。救われることは、完全な救いを獲得することを意味するのではないでしょうか。私たちは主イエスへの信仰を通じて救われてきたのですから、完全な救いを獲得してはいないのでしょうか。主が来られるとき、私たちはすぐに天国へと引き上げられます」しかし本当に話はそれほど単純でしょうか?この件を探求し、一緒に考えましょう。

1.救われるとは何を意味するのか?私たちは救われたあと、罪を持たないのか?
最初に神様の御言葉を読みましょう。「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである」神様の御言葉から、私たちが主への信仰を通じて救われるのは、主イエスが贖いの働きをなさったからだということがわかります。主は罪の生け贄としてご自身を捧げ、十字架にかけられ、それによって私たちを罪から贖われました。ゆえに、主を信じることで私たちはもはや罪人ではなく、律法に縛られることもありません。私たちは罪を犯したとき、神の御前に直接出向いて祈り、私たちをお赦しになるよう主に求めることができます。これが救われることの意味なのです。

では、私たちは救われたあと、罪を持たないでしょうか。たとえ大いに苦労し働いたとしても、また外面的なよい行いをしたとしても、それでもなお頻繁に罪を犯し得ること、そして罪の絆を断ち切れないことを、私たちは自分自身の経験から知ることができます。私たちのいのちの性質は以前と変わることがなく、自分の観念と一致しないこと、または自分の利益を害することに遭遇した瞬間、多くの堕落した性質をあらわにし、結果として神様に背き反抗します。例を挙げると、自分よりも優れた才能の持ち主であることを示す説教を他の人が教会でしたとき、その人に嫉妬するか、密かに貶めようとする。他の誰かが自分の利益を害したとき、その人を憎み、深刻な場合には腹を立ててその人に復讐する。主の働きの中で何かを捨てるとき、あるいはいくばくかを費やすとき、自分の成果を見せびらかしたり、神様に条件を突きつけたり、または他人を見下してけなしたりする。働きや説教において聖霊の啓きを得、その成果を刈り取るとき、自分自身に満足しきって神様の栄光を奪う。苦しみ、代価を支払ったにもかかわらず、代わりに何も得られず個人的な利益が満たされないとき、神様が自分を守らず祝福なさっていないと信じ込み、神様を責めたり誤解したりする。神様の戒めを犯すことをするとき、他人に見つかるのを恐れ、他人と神様を騙すために嘘をつく。長年にわたって神様を信じながら、神様はまだ自分に十分なお恵みをお授けになっていないと考えるとき、この世のやり方に従い神様を裏切る、などなど。こうした行動や態度は、私たちがいまだ罪の中で暮らし、サタンの支配下で生きていることを証明するのに十分です。私たちの本性がいまだサタン的であること、私たちの考えや物の見方がこの世界に付随していること、そして自分の考えと一致しない状況のせいで、私たちが勝手気ままに神様を裏切り、世俗的な生活に戻り得ることを、それらは証明しているのです。
ハートもっと見る:https://pse.is/KJS6W






[19] ゆき さん

07月30日 16:50



皆さん、投稿を読んでいただいて、ありがとうございました。どんなんコメントであって、ありがとうございました。事実を知りたいなら、これを見てください。神様を信じる私たちは根拠がないと話しは行けないですね。神様はすべて、公平で、聖なるお方です。裁くのはすべて主なる神様でありますね。

https://www.youtube.com/watch?v=nVm6zI9khAk






[26] モリオバッハ

2019年08月05日 09:55


>>[19] ゆきさん


おはようございます。

ご質問された件、下記に回答しましたので、ご参考に供すれば幸いです。


Q1:主を信じ救われたがなぜ常に罪を犯してますか。

A1:真のハルマゲドンの実践・研鑽をされていないから。


参考:


ヨハネの黙示録に描かれたハルマゲドンは、今までに解釈されてきた「人類の最終戦争」ではないことに、気づけるか否かが問題です。


ハルマゲドンは、他人との戦争・葛藤ではなく、人間一人ひとり自身の邪心との闘いであることを認識できるか否かなのです。


人間誰でも、生まれたときは、清い姿(真心)の状態です。


大人になるにつれて、他人を騙したり、憎んだり、馬鹿にして、醜い姿(邪心)に変心していく様相に、気づかれることでしょう!!


この醜い姿が大人社会です。


この醜い姿を消滅させるために、ハルマゲドンがあることを知っている人は幸いです。


所謂、真心と邪心の葛藤・戦争が、

キリスト教では、真のハルマゲドンと表現されていることに通じるのです。

仏教では、真の解脱(げだつ)とか、涅槃(ねはん)とか、悟り(さとり)と表現されているのです。

イスラム教では、真のジ・ハード(聖戦)と表現されているのです。


宗教の世界観は、我々一人ひとりの精神的な世界観の範囲内で、修業・実践・研鑽活動を行うべきところ、その範囲を免脱(超越)して、物質的な世界観で、活動すると、人類の悲劇・不幸事件となってしまうわけです。


サリン事件やジ・ハード事件は、これの代表見本の事例(事案)です。


要するに、真心と邪心が葛藤して、邪心が消滅したとき、キリスト教では、真の復活とか、再臨と言った表現で示されているのです。


半世紀余りにわたって、哲学・宗教・倫理の実践・研鑽を続けてきて、このような解釈の仕方を、種々のセミナーで伝授してきた次第です。


如何でしょうか。


毎日毎日が新たな発見(気づき)であり、発見できたことへの感謝の日々になれば幸いです。


気づけた人は幸いです。


半世紀余りにわたって、大半の人は、発見(気づき)出来ずに、他界されている状況を診て参りました。


感謝。





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