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2019年06月12日12:09

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「一人で死ね」という発言について

 六月十二日の東京新聞「発言」欄に、「一人で死ね」という発言に対する私論が述べられていた。川崎市で発生した通り魔事件に関するもので、述者は「加害者の悩みを無視したような冷淡な発言は社会の分断を生むのでよくない」と主張している。私はその意見には、二つの点で明確に反対だ。
 一点目は、そもそもどのような「悩み」を持っていたとしても、それを社会や何の関係もない他者に向けた犯罪行為として発現することは間違っていると考えるからだ。加害者としては、自分が事件を起こすことで承認欲求を満たしたり、「自分の悩みの元凶を作った社会」に対する報復の念を晴らしたりすることが主な目的だろう。しかしそれと第三者とは別である。そのような身勝手な行為で関係のない被害者を生み、家族や友人に多大なる心理的損傷を負わせてよいいわれはない。また、そのような加害者を許さないという声が上がることで、次の模倣的犯罪の抑止につながっている可能性もある。
 二点目は、現今、「分断」や「対立」という言葉が必要以上に忌避されていると考えることによる。元来、「意見」があるところには必然的に「対立」がある。百パーセント同調される意見などこの世にない。しかし、そのような多様な主義主張が交わされる中で、お互いの合意点や妥結点を探り合っていくのが民主主義の本意ではないだろうか。意見が「対立」することを恐れて誰も何も主張をしないような社会は、言論を圧殺された封建社会と何ら大差がないのではないか。
 今回のような痛ましい事件が起こることを防止していくための取り組みが必要なことは、言うまでもない。その中の一つには、悩める人々の心の闇を解放させる働きかけが重要なのはわかる。しかしだからと言って、それをもとに下劣な犯罪行為に及んだ人物に対して、同情や冷静な発言を求められることは、まったく違うのではないだろうか。

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