mixiユーザー(id:1762426)

2019年06月03日06:20

90 view

蟻の街の子供たち 北原怜子(きたはらさとこ)−28

聖母文庫 聖母の騎士社刊

 その晩のことでした。今まで、夜の勉強組の中に加わったことのない久ちゃんが、殊勝にも年下の子供たちと一緒にやって来たと思ったら、
「先生、昼間のつづきの勝負をしようよ」
 と言ってきかないのです。
 こちらは、連戦連勝のあとで少々油断もありましたし、狭い応接間の隅でやることですから、初めから冗談のつもりで、
「よし、まだこりないのね!」
 とか、なんとか強そうなことを言いながら、うっかり久ちゃんの相手になってしまいました。ところが、久ちゃんは、いきなり、私の手元に飛び込んで来て、力一杯足をすくいました。あっという間もなく、私の体はもんどり打って、応接間の板敷の上に投げ出されてしまいました。
 私は投げられた痛さと、恥ずかしさから、その場に居たたまれず、とっさに電灯のスイッチをひねって、部屋を真っ暗にしておいて、そのままはうようにして二階に逃げ上ってしまいました。ところが、それから一週間というもの、痛くて、どうにも起き上がれませんでした。
 そうなると、今度は、久ちゃんが恐縮してしまって、毎日、仕事の行き帰りに、裏木戸の外に車を止めては、台所口まで入って来て、
「先生、具合はいかがですか」 
 と尋ねてくれるのでした。
 あんまり、その態度がいじらしいので、ある日、久ちゃんを、二階の私の寝室に呼び入れました。久ちゃんは、枕元にしょんぼり坐ったままで、何と言っていいか分からなくて困っているといった様子でした。
 「久ちゃん、先生の体はもうすっかりよくなったんだから、心配しなくてもいいのよ。それよりも、今日、二階に上がってもらったのはね、あなたに相談したいことがあったからなのよ」
「何の相談?」
「実はね、高円寺にあるメルセス女子修道院がm三月二十五日の御復活祭に、あなた方を招待して下さるんですって、・・・もちろんその時はあなたも行くでしょう」
「うん、行くとも」
 久ちゃんは、急に元気づいてきました。
「それでね、行く以上は、ただ招(よ)ばれて行って、御馳走になったり、余興を見せてもらうだけじゃ面白くないでしょう。何か、こっちからも、みんなをあっと言わせるようなお土産を持って行きたいんだけど、久ちゃん、何か名案ない」
「そうだな・・・先生、僕たちで芝居をやっちゃいけない?」
「それができたら一番いいんだけど、久ちゃん手伝ってくれる?」
「うん、芝居ならお手のものだ。僕自分で作って、自分でやってみせるよ」
 久ちゃんのお父さんは唯の興行師だけでなく、自分でも始終脚本を書いていた関係から、久ちゃんも、見よう見まねで、児童劇を書くことは大好きだったのでした。その上、子役で舞台に立った経験もたびたびあるというのですから、この話を聞いて張り切ったのは当然でした。久ちゃんは、二日程かかって、台本を作りあげました。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する