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2019年06月02日15:47

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(2015年)9/19〜9/23 オオフジツボ5th北海道ツアー(後編その2)りびあん

オオフジツボ2015年9月の北海道5連休ツアー4日目は,りびあんでした。

札幌で複数個所やると集客が心配…ということで,藤野さんは6月の時点では新たな都市でのライブを模索されていたのですが,健さんがりびあんは場所も離れているし客層も違うからということでお薦めされたもののようでした(私自身も札幌で複数箇所開催しても大丈夫と思っていたことは以前に触れたとおりです。)。

りびあんの田畑さん御自身も,ちょうど藤野さんやオオフジツボに入れ込み始めておられたところでのタイミングとなりました。

2012年秋の藤野さんのプチソロツアーの客席においでになったのが先だったでしょうか。
藤野さんはハンドリオンの1stアルバムをほんの数枚お持ちだったのですが,のやで坂本さんがお求めになったほか,もうお一方購入された方があり,田畑さんだったのではありませんかとブログにコメントさせていただいたのが,私と田畑さんとの最初期の接点でした(祈るような気持ちで待っていたハンドリオンの最初のアルバムは,エンジニアの藤井さんが亡くなられたためマスターテープの所在などもわからないらしく,そのままの形では再発売されることはありません。このアルバムは,ジャケットのメリノさんのテンペラ画とともに秋の日のイメージで思い出されるのです。)。

田畑さんは翌年(2013年秋)のオオフジツボ弾丸1泊ツアーの時ものやにいらっしゃっていて,開演が迫ってからいらっしゃったがために,かえって最前列至近距離に着席されることになっていました。この時のライブでは松川さんが誤ってコードを抜いてしまったようで,突然生音になる一幕があったのですが,田畑さんが最前列で俺じゃないという顔をしていたというエピソードを,この日のりびあんで太田さんが御紹介されていたと思います。

りびあんについては,ゆかりの方々の演奏の場となっていることはかねて認識しながらも,車を運転しない私は,自転車で赴くのも難しい距離ということで,それまでは札幌在勤中にも訪れたことはありませんでした。

今回オオフジツボがおいでになるということで真剣に公共交通機関を調べたところ,地下鉄真駒内駅からじょうてつバスでライブの時間に合わせて往復すれば十分鑑賞可能だということがわかって初めて訪れることができ,その後に続くことになるのでした。

ツアー4日目のこの日から鈴木マイさんが客席に姿を現したのだったと思います。前年(2014年)の北海道ツアーでもお見かけしていましたが,『耀の遠心』のリリースツアーでもある今ツアーと鈴木マイさんには特別な関係があります。『耀の遠心』のジャケットは,鈴木マイさん撮影による札幌モエレ沼公園の風景だからです。前年(2014年)のツアーの際にオオフジツボの皆さんと訪れた際に撮影されたものだったでしょうか。

ライブ中のMCでそういった御紹介があったためでしたか,終演後,元新聞社勤務でしたかの年配の男性客に鈴木マイさんが捕まって長話の相手をしておられたような記憶もあります,

『耀の遠心』のジャケットは,草原の中の水栓?が被写体で,健さんが僕も撮ってほしい〜と水栓?をまねて前腕を上と下に直角に曲げたポーズが壷井さんによるとはにわということだったのでした。のやでのリハーサル時の写真が記憶に残っていますが,りびあんでもはにわエピソードの紹介があったかもしれません。

曲の方ですが,初日の野良窯以来でLAUのhinbaがありました。
転換の合図のような藤野さんの雄叫びが気のせいではなかったようだと再認識しました。

平泉セットのところで,東北の灯籠流しの話をしていると壷井さんと太田さんが精霊流しのメロディを奏でましたが,精霊流しはこの年(2015年)7月の公園通りクラシックスでも奏でられていて,照明の聖子さんとシンクロしたことは以前にも触れたと思います。

当別ふれあい倉庫で壷井曲藤野曲太田曲の特徴を天地人に例えたことを御紹介され,太田曲を地べたの音楽などとお話しされる一幕もありました。

太田曲の「おもかげ」は,演奏前に曲紹介があることが多いのですが,この日は解説なしですぐに始められました。人が亡くなる話にまつわることから,終演後に東京組が客層に配慮したのであろうかといった会話を交わされていました。八戸の翌日,私が見ることのできなかった三沢の養護施設でも解説はなかったそうです。

田畑さんの奥様の盛り上げも与って,会場は大いに温まりました。

終演後は東京からの皆さんを含め残られた方が多く,まとまった時間を過ごすことができました。香聡庵のみかさんもいらっしゃっていて,2009年の初ツアー以来で交流されたのではないかと思います。

藤野さんがみかさんに前にも来ていなかったかと反応されていましたが,2013年はジャックの中村ちゃんさん,スズエさん,成田妻さん,がんこさんのそろそろソロライブと重なったため,みかさんはジャックの終演後のやに短時間だけお顔を見せにいらっしゃったのでした。

私は少し離れておとなしくしていたのですが,がんこさんらの話題になった時,ジャックとかぶったんですよねと補足した気がします。

みかさんは,この日,オオフジツボの音楽につき全曲クライマックスというキャッチフレーズを考案され,2009年の時は主に旧知の藤野さんと話したが,今回で太田さんや壷井さんの個性もだいぶわかったというような御発言もありました。

このツアー中この日だけあらさんが客席にお見えになっていましたが,お忙しい中だったようで,終演後はすぐお帰りになっていました。終演後のお話によると,健さんがお誘いのメールをしたのだとか。

この辺りからあらさんの話題となり,藤野さんからは,あらさんが今年もしおん保育園に来るので何か御一緒にやれませんかとメールしたが返事なく現在に至るというお話をされ,健さんか田畑さんが,迷惑メールフォルダに入ってそのままになったんじゃないかと混ぜっ返しておられました。

藤野さんからは,あらさんはあれだけ美しい音を奏でるのだから繊細な指先かと思いきや,けっこうがっしりしているといったお話もあり,他の方々は,そうでなければあれだけの大きさと重量のカンテレとテーブルを運んで回れないだろうというように応じておられました。

健さんからだったでしょうか,テーブルの脚のネジが取れていたことがあったけれども,その時あらさん少しも慌てずビールケースか何かで代用されたという御紹介もありました。

この年(2015年)6月,まだ転勤することになるかどうかわからないでいる状態の私も訪れたNordic & Celtic Music Partyに,健さんとあらさんはあらけんのユニットでお出になったのですが,ノルケルでは立って演奏するからと,あらさんは伸縮式の脚をお持ちになっていたそうです。

藤野さんもトリのあんじょんでお出になった年で,御自分たちの出番までは,健さんあらさん藤野さんのお三方で会場後方から鑑賞されていたようなのですが,藤野さんはSNSへの掲載のために健さんの写真を撮影したかったところ,健さんが伸縮式の脚をこりゃ珍しいといつまでも眺めていじっていたので仕方なくその様子を撮影したというお話もありました(そのお写真も実際にSNS上で見た記憶があります。)。

その日のノルケルパーティの終演後,健さんは越谷のおーるどたいむで浜田さんとのライブがあり,あらさんと藤野さんも訪れて懇親されたようでした(私は渋谷の山崎さんの方に赴いたことは以前にも書いたとおりです。)。途中あらさんの宿泊先に立ち寄ったところ,部屋からずっと出ておいでにならず,健さんと濱田さんのライブにかなり遅れてしまったその大部分はホテルでのあらさん待ちだったとのお話もあり,そういえば遅くて終わりに近かったと健さんも応じておられたと思います。

あまり自信はありませんが、あらさんのMCのお声がとても小さく、聞き取ろうとして会場はしんとなるといったお話もこの時だったでしょうか。操さんも同様であると。

この少し前の(2015年)7月末,りびあんでは,マルカートのソロライブがあったばかりでした(私がまだぎりぎり道南在勤中にて訪れることができなかったのでした。)そんなことからだと思いますが,田畑さんと藤野さんの間でユキさんの話題になり,藤野さんからは,マルカートさんのアコーディオンはとても好きであることや生徒さんを引き継いだ御縁などについてのお話をされていました。

田畑さんからライブに来てくれたりはしないのかといったお尋ねがあったのだったでしょうか。藤野さんは,マルカートさんは私のライブには来ないですよとお話しになっていたように思います。そんなおそれ多いといったニュアンスでしょうか。

この日,ジャックではロケット姉妹のライブがあったのです。健さんは,わざとぶつけたわけではあるまいななどともおっしゃっていたように思います。

この辺りから,健さんが当日ブラック藤野と評し,田畑さんが後日ブログで彼女の内側の暗黒面がこぼれ落ちるようなトークと評したノリになってきます。アルコールがふるまわれていたのだったでしようか。

今は藤野さんの教え子は50人を数えるそうで,結婚式での演奏をよく頼まれ。お祝いはいいからと言われるが,そうはいかない,その代わりお車代とか応分のお返しを考えるんだよと教え諭すといったお話もありました。壷井さんから,封筒をそのまま「藤野」に「賛江」と書き足して返せばいんじゃないかとか,いっそ最初から空封筒を渡して返してもらえば再利用可能といった混ぜっ返しもありました。
結婚式での演奏については,壷井さんもアウェイ感と落ち着いて飲み食いできない経験談をお話しになっていました。

私の絡みでは、私が意外なところに現れても驚かないでいると不満そうにしているという御指摘がありました。それを受けて健さんは、RINKAの青森でのライブの時、atomの開場前に近くのコンビニで操さんが私を見かけたが、驚く顔が見たいだろうからとそっとしておいたと言っていたなどと応じておられました。

甲府ちゃんさんは,この日,ツイッター友達であった札幌のプログレマニアのカニ氏と初めて実際に会い,田畑さんの奥様から握手を勧められたりしていました(カニ氏はこの翌年くらいまでは札幌在住だったようですが,今は首都圏におられるようです。)。

甲府から来た甲府ちゃんということで,みかさんから私の道南も引き合いに出された気がします。この頃,NHKの朝ドラが健さんもゆかりの『花子とアン』だったので,東京組の女性客から甲府の人は本当にてっ!というのかと甲府ちゃんにお尋ねになっていました。日常的に耳にするわけではないが,お母さんくらいまでの世代の人の口からはゴキブリが出た時などに聞くというくらいのお答えだったでしょうか。

この日,東京で音や金時などよく訪れているという札幌出身の若者が,オオフジツボの北海道ツアーのために帰省し,りびあんへの坂道をものともせず,御両親と3人で自転車でおいでになっていました。藤野さん息子さんがお母さんといるところに行き会って言葉を交わされた際,そろそろお父さんにも御挨拶しなきゃねとジョークをとばすと,お母さんが目を丸くしておられたそうで,そういう時にてっ!というのかもというのはよくわかるたとえでした。

この後,この御両親は,息子さんがいない時でもオオフジツボの現場に姿を現し,打ち上げの席上で岡田夫妻の娘さんの面倒を見たりするまでになっていきます。親子の会話がもれ聞こえたところでは,息子さんは私と読みが同じ名前のようでしたし,これは東京で息子さんと御一緒になった時に耳にしたのでしたか,私がかつて通勤で毎日通過し今でも訪れることのある総武線沿線某駅最寄りの住人であるといった接点もあるのでした。

帰りは田畑さんの御厚意で,東京組の皆さんと一緒に真駒内駅まで送っていただきました。過去最長の5日間のツアーも翌日はいよいよ最終日となります。

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