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2019年05月18日02:46

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道元関係の論文の拾い読み

むかし、松本史朗の『縁起と空 如来蔵思想批判』を本屋で手にとって、なんだか自分の信念が壊されそうで本棚に戻して30年位経ちますが、気になってようやく古本で手に入れて拾い読みし、着眼点の鋭さにとても共鳴しています。
結論には同意しかねるところもありますが、そういうところに焦点を合わせて問題を掘り下げていくのかと感心しました。
それから彼の『道元思想論』を手にしました。
如来蔵思想の仏性内在論とそれが中国の老荘思想の影響を受けて変質した仏性顕在論が道元の中でどのような位置づけになっているのかという観点から論じられています。

そうこうしているうちに十二巻本『正法眼蔵』をめぐる問題がいろいろあることを知ってネットのPDFを漁っています。

参考までに今見ているPDFはこれらです。

道元撰新草十二巻本『正法眼蔵』の性格について 石井清純
(松ヶ丘文庫よりダウンロードしました。)
http://www.matsugaoka-bunko.com/ja/member/about.html

永平寺と顕密仏教 石井清純
https://zenken.agu.ac.jp/research/48/07.pdf
“つまり、いままでは私たちは、『正法眼蔵』を解釈する ときに、それに引用されている文章というのは、道元禅師 の文脈でしか解釈していなかった。例えば、一番有名な話 は、「馬祖磨甎作鏡」です。馬祖道一が坐禅をしていまし た。それを見ていた南嶽懐譲が聞きます。きみは何をしているのかね。仏になろうとしております。それを聞いた南嶽懐譲は、いきなり敷瓦を研ぎ始めた。すると馬祖さんが、お師匠さん、何をなさいますか。敷瓦を磨いて鏡にするのだ、と言うと、馬祖さんは、お師匠さん、瓦を磨いても鏡にはならないですよと言った。それに対して、懐譲さんが、そうだろう。坐禅しても仏にはならないのではないか。と言ったという話です。これはどういう文脈で解釈するかというと、曹洞宗では、仏となるために坐禅をするのは間違っているという意味に解釈します。しかし、本当は違います。洪州宗の禅風に照らして解釈すると、これは、坐禅ばかりしていては仏になどなれない、という意味になります。日常生活全体 が、すべてが仏行だというのが、洪州宗の禅ですから、日常生活全体が修行なのに、坐禅だけに拘泥していては仏にはなれないというのです。
それではまずいので、道元禅師は、これは馬祖が仏となってから坐禅をしているんだと、前提を変えて、そこから坐禅は仏となるためではなく、仏としてのするものなのであるという方向に解釈を変えたのです。これは、石井修道先生が『道元禅の成立史的研究』(大蔵出版)で指摘されたところなのですが、このように見ることによって、道元禅の特徴が際立つということなのです。”

仏性はもともと人間に内在していて、修行でそれを顕し仏に成る成仏思想は仏性内在論、私達はもとよりありとあらゆるものが仏の顕れで、仏として修行するのが禅なのだというのは仏性顕在論。

仏性=アートマンと見るとアドヴァイタもサーンキヤも仏性内在論で解釈することができるので、如来蔵思想を認めると仏教も真我探求のインド伝統哲学と同類のものとなり、それは全然仏教じゃないだろというのが松本史朗説。

そのため松本史朗は如来蔵思想は仏教にあらずと宣言するのですが、私は逆に仏教はインド古典哲学の完成形(スワミ・ヴィヴェーカーナンダの仏教解釈)だとする見方に共感しながら、確信を持てずに考えを巡らせています。
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