mixiユーザー(id:1762426)

2019年05月04日08:43

86 view

蟻の街の子供たち 北原怜子(きたはらさとこ)−6

聖母文庫 聖母の騎士社刊

眠られぬ夜に

 その夜、私は床についても、どうしても眠ることができませんでした。今日一日のことを思い出すにつけ、目に一丁字(いっていじ)もない、一外人があんなにまでして日本の貧しい人々のために尽くして下さっているのに・・・私は、そういう貧しい人々が、自分の家から一町と離れていないところに、何百人、何千人と住んでいることすら知らなかったのです。
 ゼノ様は、もう二十年も昔から、日本の兄弟姉妹のために、身を粉にして働いて下さっているのに、私は同じ二十年という永い月日を、どう送って来たでしょう。過去をふりかえってみると、自分はなんという世間知らずのお嬢さんにすぎなかったかと、我ながら恥ずかしさで、身がすくむ思いでした。
 それと同時に、自分が、今夜のような気持ちになれたのも、カトリックの信者になったればこそだと思うにつけ、何か目に見えぬ、大きな力の導きを感ぜざるを得ませんでした。
 思えば私は子供の時分から、何かこうはっきり分からないのですが、非常に浄らかなものに、漠然とした憧憬を持っていました。そういう私が、一番、最初にあこがれの対象になったのは、私の祖先が神主であったからかもしれませんが、あの着物に緋の袴をつけたお巫女(みこ)さんでした。
 私の七五三のお祝いの時、両親に連れられて、明治神宮へお参りに行ったのですが、初めて見たお巫女さんの、あの姿を、私は、いまだに忘れることができません。
 戦争中、学徒動員で工場へ通うようになってからは、女学生の間でもいろいろなみだらな事故が起こりました。が、私の頭からは、どうしても、あの浄らかなお巫女さんの姿が消えることはありませんでした。
 その頃の女学校では、髪の毛は耳の下何センチメートル以上長くしてはいけないとか、スカートは膝の下何センチメートル以上とかいう風に、大変難しい規則にしばられた生活を生徒に強いておりました。そして、あの八月十五日(終戦)を境に、その生活から急に開放された時、いわゆるアプレゲールの生活が公然と始まったのでしょう。しかし、私の場合は戦争もぎりぎりに押し詰まった八月十四日の晩、病気のために倒れ、その年の十二月まで、起き上がることができませんでした。その病臥中の十月には、同じく学徒動員で身体をそこねて、帰ってきた兄が死んでしまいました。
 私の母校である桜蔭高女は、お茶の水系統のきびしい先生方ばかり揃っていましたので、終戦になっても、昔風の気風が残っていて、あまり変わったようにも思われませんでした。翌年の三月に卒業して、薬専に入るまで、私の目には、いわゆる戦後の生活というものは特別なものとして、何も映りませんでした。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する