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2019年04月26日12:46

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宗教と言葉−遠藤周作の疑問から

以前、作家の遠藤周作が「なぜ南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われると考えられるのか、不思議でならない」ということを言っていたということを、たしか大峯顕氏のエッセイで読んだ覚えがある。

大峯顕氏は、京都大学文学部哲学科宗教学分野専攻で西谷啓治先生のお弟子のお一人で、フィヒテ哲学を研究されていた。しかも浄土真宗本願寺派の僧侶でもあり、また俳人としても有名な人であった。

わたしは、以前大峯顕氏の著作の幾つかは持っていたが、今回の引越で『フィヒテ研究』(創文社)以外はすべて売ってしまったが、やはり『花月の思想―東西思想の対話のために』(晃洋書房、1989)と『宗教と詩の源泉』(法蔵館、1996)は持っておきなたと思って、「日本の古本屋」でそれぞれ2,000円で出ていたので買うことにした。またまた�倏稾瓩鍬瓩任△襦�

大峯顕氏の哲学的思索の中心は、やはり�狃ゞ気噺斥姚瓩箸いΔ箸海蹐砲△襪茲Δ忙廚┐襦�上記の「なぜ南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われると考えられるのか、不思議でならない」という遠藤周作の疑問も�狃ゞ気噺斥姚瓩箸いμ簑蠅反爾�関係しているように思える。大峯顕氏がこの遠藤周作の疑念にどのように答えていたのかは忘れてしまったが、�倏以�を唱える�畆臑里楼貘涼�なのかという問題になっていくように思われる。

キリスト教においては、神に祈りをささげる主体はどこまでも人間なのであるが、浄土真宗においては念仏を唱える主体は、衆生あるいは人間ではなく、阿弥陀如来なのだ。�狷醋軌ぬ鐶吠��瓩呂匹海泙任皸ぬ鐶貿〕茲�らわたしたちに対する�狷髻△泙気棒犬�よ�瓩箸いΩ討喟爾覆里任△襦�つまり祈るという宗教的行為の主体がキリスト教と浄土真宗とでは異なっているのである。

もっと言えば、浄土真宗における信心、信仰もその主体は衆生や人間ではなく、阿弥陀如来なのである。親鸞が�狢膵圈β膺��瓩箸いΔ里楼ぬ鐶貿〕茲旅圓任△蠖�であるからなのだ。よく考えると、�犧甍�深重・煩悩熾盛の衆生�瓩燭襪錣燭靴燭舛僚す圓篆�仰にどれだけの意味があるというのであろうか。何ら効果など望めないのである。

今日、朝一番に郵便局に行って『宗教と詩の源泉』の代金を振り込んできた。『花月の思想−東西思想の対話のために』は商品に振込用紙が添付された送られてくる。振込用紙があれば、ATMで振り込みも可能である。

今日、郵便局に行って振込手数料が窓口ならば200円、ATMならば、150円に上がったという。これも行かねばわからないことである。これからは、郵便局と銀行はわたしが行くことにしようかと考えている。電動車椅子使用の障害者といわれる人がこの街で暮らしているのだということをアピールするためにも。何かそんなことを思った。
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