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2019年04月17日05:35

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もじタマの2710日目からのツヅキ・・・

 2710日目のツヅキ・・・
フォト

ーーーーー
 蘆名氏(あしなし)
 桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族
 相模国
 蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来
 「芦名氏」「葦名氏」
 「三浦芦名家」と表記される事もある
 相模
 蘆名氏
 と
 会津
 蘆名氏の二つの系統が存在
 通し字は
 前者は「為」
 後者は「盛」
 蘆名 盛氏(あしな もりうじ)
 戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名
 蘆名氏第十六代当主
ーーーーー
 突厥=トゥルク
    突厥の発祥
    西海(地中海)から中央アジアへ移住
    窮地を狼に救われた
    烏孫=突厥
    烏孫の移動ルート
ーーーーー
 「土方」・・・ドカタ・ひじかた・日出方・・・
 と呼ばれる異民族が
 殷の辺境を侵略したと記録
 周代の『周礼』『易経』に
 「土方・鬼方・馬方」
 と呼ばれる民族が記録
   ・・・土方=乾・艮・巽・坤
      鬼方=丑寅
      馬方=午
ーーーーー
 山戎、獫狁、葷粥
 『史記』
 「唐(帝堯)や
  虞(帝舜)より以前には
  山戎(さんじゅう)
  獫狁(けんいん)
  葷粥(くんいく)
  が北方の草原地帯に住み、遊牧生活」
 西周時代末(紀元前800年頃)
 虢季子白盤という
 青銅器の銘文に
 「玁狁」の名
 周代の詩篇である
 『詩経』采微に
 「玁狁」の名
 『春秋左氏伝』荘公三十年・『史記』世家
 紀元前663年
 「斉の
  桓公が
  山戎を征伐した」
 周代に実在した遊牧民・・・
 ↓↑
 戎、狄、胡
 春秋戦国時代
 中国本土にも
 戎や狄(あるいは翟)といった
 異民族が入りこんで点在していた
 後代
 北の異民族を狄(北狄)
 西の異民族を戎(西戎)
 と呼んだが
 戎は北戎・西戎に大別
 北戎では上記の「山戎」
 西戎では西周を滅ぼした「犬戎」
 ↓↑
 狄は周の王室と結びつき
 王位継承問題に介入
 紀元前635年
 晋によって討伐されると
 赤狄・白狄に分かれ
 胡は後の匈奴の代名詞・・・胡=匈奴
 イラン系の
 ソグド人・・・胡人=匈奴=ソグド人
 をも指す用語
 春秋時代の
 オルドス地方には
 「林胡」
 という部族がおり
 燕の北には
 「東胡」
 という部族
 多くは戦国時代の
 秦や趙に併合・・・
 ↓↑
 秦の始皇帝の統一
 北の草原地帯では
 匈奴・月氏・東胡が
 中国に侵入
 秦の将軍
 蒙恬
 によって阻まれていた
 紀元前210年
 蒙恬と始皇帝が死亡し
 内乱頻発
 匈奴は
 河南の地(オルドス地方)に侵入、占領
 匈奴の君主(単于)は
 頭曼単于で
 太子は
 冒頓だったが
 冒頓より
 末子を寵愛し
 頭曼は
 冒頓を廃すため
 西の
 月氏に人質として送りつけ
 頭曼は
 冒頓が月氏にいるにもかかわらず
 月氏を攻撃
 冒頓は月氏に命を狙われ逃げかえり
 父の頭曼を殺し
 単于となり
 東胡に侵攻して併合
 月氏を撃退
 一大強国を築き上げた
 ↓↑
 匈奴単于国
 冒頓単于
 史上初めてモンゴル高原統一
 周辺国も次々と匈奴の支配下
 モンゴル高原の北
 バイカル湖の南の地域(ザバイカリエ)に
 「渾庾・屈射・丁零・鬲昆・薪犁」
 などの諸族がおり
 冒頓単于はこれらを征服
 南の漢帝国に侵攻
 高祖
 劉邦を撃退
 西の
 月氏を河西地域から追い出し
 その支配下にあった
 「楼蘭・烏孫・呼掲」
 および
 西域26国を
 匈奴の支配下に入れた
 モンゴル高原から
 西のジュンガル盆地・タリム盆地
 までをその支配下に大帝国を築いた
 ↓↑
 漢の高祖を撃退して以降
 匈奴は毎年漢に貢納品を要求
 漢の
 武帝
 (在位 前141年〜前87年)
 が即位し
 元朔二年(前127年)
 将軍の
 衛青に命じて河南の地を奪取させ
 元狩二年(前121年)
 驃騎将軍の
 霍去病に1万騎をつけて
 匈奴の
 休屠王を撃退
 合騎侯の
 公孫敖とともに
 匈奴が割拠する
 祁連山を攻撃
 匈奴は
 重要拠点である河西回廊を失い
 渾邪王
 休屠王
 を漢に寝返らせてしまう
 元狩四年(前119年)
 伊稚斜単于
 (在位 前126年〜前114年)
 は
 衛青
 と
 霍去病
 の遠征に遭って大敗
 漠南の地(内モンゴル)も
 漢に奪われ
 次の
 烏維単于・・・「烏の維」
 (在位 前114年〜前105年)
 の代においては
 逆に漢から人質を要求された
 東胡の一部の
 烏桓族は歴代単于の墓をあばいて
 冒頓単于に破られた時の報復をし
 イリ地方の
 烏孫族は漢と同盟を組んで匈奴を攻撃
 北の
 丁零族もそれに乗じて攻撃
 匈奴は弱体化し内乱が頻発
 一時は5人の単于が乱立
 呼韓邪単于・・・・・・・呼ぶ韓の邪(よこしま)?
 (在位:前58年〜前31年)
 内乱を鎮めて匈奴を統一
 漢に称臣して漢と好を結んだ
 呼韓邪単于
 とその息子たちによって
 両国は平和を維持した
 ↓↑
 匈奴
 南北に分裂
 中国で
 新都侯の
 王莽
 が政権を掌握
 新王朝を樹立
 烏珠留若鞮単于・・・烏(からす)
           珠(あかたま)
           留(とめる)
           若(わかい)
           鞮(かわぐし・かわぐつ・靿
             the leg of a boot)
 (在位:前8年〜13年)
 呼韓邪単于
 以来続いてきた和平を決裂させ
 中国に侵入略奪を繰り返す
 地皇四年(23年)九月
 更始軍
 が長安を攻め
 王莽を殺害
 新朝が滅亡
 ↓↑
 25年
 光武帝
 後漢成立
 呼都而尸道皋若鞮単于(在位:18年〜46年)
 後漢に対し優位な立場に立とうとした
 彼の子の
 蒲奴単于
 (在位:46年〜?年)の時代
 匈奴国内で
 旱(ひでり)と
 蝗(いなご)の被害で
 国民の3分の2が死亡する大飢饉
 烏珠留若鞮単于の子
 右薁鞬日逐王の
 比は匈奴に対して独立を宣言
 南匈奴を建国(もとの匈奴を北匈奴と呼ぶ)し
 後漢と同盟
 南匈奴は
 北匈奴の
 単于庭(本拠地)を攻撃し
 単于蒲奴を敗走させた
 単于蒲奴の権威は失墜
 多くが
 南匈奴へ流れた
 ↓↑
 「鮮卑」
 章和元年(87年)
 東胡の生き残りである
 鮮卑族が北匈奴の左地(東部)に入って
 北匈奴を大破させ
 優留単于
 殺した
 後漢・南匈奴連合軍は
 北匈奴を西方の
 康居の地へと追いやった
 空白となったモンゴル高原は
 鮮卑が奪い取り
 匈奴国民はすべて
 鮮卑国民と化した・・・匈奴⇒鮮卑
 ↓↑
 桓帝
 (在位:146年〜167年)
 檀石槐が
 大人(たいじん)の位に就く
 弾汗山
 啜仇水のほとりに本拠を置き
 東や西の部族の
 大人たちが帰服
 ↓↑
 鮮卑
 南で後漢の国境地帯で略奪
 北で
 丁令の南下を阻み
 東で
 夫余を撃退
 西で
 烏孫に攻撃
 東西は1万2000余里
 南北は7000余里
 にわたって領域を有した
 ↓↑
 後漢は
 使匈奴中郎将の
 張奐
 を送って討伐させたが敗退
 後漢は使者を送り印綬を授け
 檀石槐
 を王の位に封じ
 和親を通じようとしたが
 檀石槐は拒絶し
 侵入略奪
 檀石槐が45歳で死亡
 鮮卑内で後継争い
 檀石槐の帝国は一代にして瓦解
 ↓↑
 一時は
 軻比能
 が勢力を増したが
 青龍三年(235年)
 魏の
 王雄
 が放った刺客によって
 軻比能
 は殺され
 他の鮮卑部族は
 魏の支配下に入る
 ↓↑
 五胡十六国時代
 西晋の時代
 モンゴル高原の
 北部では
 丁零族
 が各部に分かれて勢力を広げ
 南部では
 鮮卑族の
 拓跋部・慕容部・宇文部・段部・禿髪部・乞伏部
 が分立
 ↓↑
 八王の乱(291年〜305年)
 以降
 周辺異民族は
 傭兵として雇われ
 徐々に中国内部での勢力を増す
 南匈奴の
 劉淵
 が起こした
 永嘉の乱
 で西晋が倒され
 華北は異民族の国家が興亡する
 五胡十六国時代へと突入
 ↓↑
 モンゴル高原南部は
 鮮卑拓跋部の
 代国
 が勢力を張り
 北部では
 高車(丁零)
 が勢力を張った
 ↓↑
 柔然可汗国
 5世紀
 柔然が勢力を伸ばし
 中国北部の
 北魏(代国)と対立
 ↓↑
 402年
 酋長の
 社崙
 は
 周辺諸族を支配下に治め
 丘豆伐可汗
 (在位:402年〜410年)
 と号し
 柔然可汗国を建国
 以後、モンゴル高原の遊牧帝国は
 君主号として
 可汗(カガン)を採用
 ↓↑
 可汗を推戴する
 可汗国建国
 柔然は北魏の
 太武帝の親征以降
 敗戦を重ね、次第に衰弱
 北魏や
 南朝の
 宋に朝貢
 独自の元号を使用したり、城郭を築き
 北魏に対する侵入略奪も続け
 それに反対的であった
 高車
 副
 伏羅部・・・伏(ふせる)羅(くに・あみ)部(ぶ)
 の
 阿伏至羅・・・阿(おもねる)
 ↓↑     伏(ふせる)
        至(いたる)
        羅(くに・あみ)・・・羅馬・新羅?
        羅=罒+維=罒+糸+隹
            維新 
          あみ・鳥あみ・鳥をとる網
          あみする・網にかけて捕らえる
          残らずつかみとる
          つらねる・つらなる・並ぶ
          薄い絹・うすもの
          羅馬尼亜(ルーマニア)の略
 ↓↑       羅典(拉丁⇔拉致の丁?・ラテン)語
 兄弟が
 柔然
 から離反し(487年)、対立
 ↓↑
 柔然は
 阿那瓌
 (在位 520年〜552年)
 勢力を得るが
 突厥
 によって衰退させられ
 555年
 最後の可汗が処刑されて滅亡
 ↓↑
 突厥可汗国
 突厥はもともと
 柔然に従属する
 「鍛鉄」奴隷で
 その酋長である
 「土門」が
 伊利可汗
 (イリグ・カガン、在位 552年〜553年)
 と号して
 柔然から独立
 突厥可汗国を建てる
 ↓↑
 木汗可汗
 (ムカン・カガン、在位 553年〜572年)
 柔然とエフタルを滅ぼし
 他鉢可汗(タトパル・カガン、在位 572年〜581年)
 の代に
 ソグド文字で
 石碑を建て
 仏教を導入し
 伽藍を建て
 軍事面・文化面ともに強盛
 ↓↑
 582年
 内紛によって
 突厥が東西に分裂
 東突厥・西突厥が成立
 7世紀
 モンゴル高原を中心とする
 東突厥は
 中国の
 隋に侵入し
 唐の
 隋打倒に協力
 隋が滅亡し
 唐が建国されたが
 東突厥は
 中国への侵入・略奪をやめなかった
 ↓↑
 630年
 太宗が
 大規模な
 東突厥征討
 頡利可汗
 (イリグ・カガン、在位 620年〜630年)
 が捕えられ
 東突厥は
 唐の
 羈縻支配
 (中央官僚派遣の直轄支配)
 を受ける
 ↓↑
 モンゴル高原は
 薛延陀
 回紇
 といった
 「鉄勒」諸部が勢力
 ↓↑
 682年
 阿史那-骨咄禄
 (アシナ・クテュルク)
 が
 イルティリシュ・カガン
 (在位 682年〜690年頃)
 と号し
 唐の羈縻支配を脱し、独立
 阿史那-默啜
 (カプガン・カガン、在位 690年頃〜716年)
 最盛期で
 毘伽可汗
 (ビルゲ・カガン、在位 716年〜734年)
 固有の文字である
 突厥文字
 自らの文字で自らの言語を記し
 突厥碑文を残した
 毘伽可汗
 の死後
 内紛が相次ぎ
 回紇(ウイグル)
 葛邏禄(カルルク)
 拔悉蜜(バシュミル)
 の3部族によって
 最後の可汗が殺され
 東突厥は滅んだ
 ↓↑
 回鶻可汗国
 回鶻(かいこつ、ウイグル)
 初め
 「回紇」と表記され
 突厥の最大構成民族
 「鉄勒(てつろく、テュルク)」
 の有力部族であった
 7世紀〜8世紀
 「鉄勒」の中でも
 モンゴル高原の有力な部族は
 「トクズ・オグズ(九姓鉄勒)」
 と呼ばれ
 回紇
 はその中でも最有力部族
 東突厥可汗国の衰退に乗じ
 742年
 周辺の
 葛邏禄(カルルク)部
 拔悉蜜(バシュミル)部
 とともに
 東突厥の
 烏蘇米施可汗
 (オズミシュ・カガン)を殺害
 ↓↑
 744年
 回紇部の
 骨力裴羅
 (クトゥルグ・ボイラ)
 は
 骨咄禄毘伽闕可汗
 (クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン
  在位:744年〜747年)
 と号し
 745年
 最後の
 東突厥可汗
 を殺して
 東突厥を滅ぼし
 モンゴル高原の覇者となった
 ↓↑
 755年
 唐で
 安史の乱
 が起こると
 皇帝の
 粛宗は
 回紇の
 葛勒可汗
 (在位 747年〜759年)
 に援軍を要請
 757年11月までに
 唐・回紇連合軍で
 反乱軍を撃退
 つづく
 牟羽可汗
 (在位 759年〜779年)
 が
 反乱軍の残党を駆逐
 回紇の協力で
 8年に及ぶ
 安史の乱を終息させた
 ↓↑
 779年
 ソグド人官僚に促されて
 唐に攻め込もうとした
 牟羽可汗
 を宰相の
 頓莫賀達干
 (トン・バガ・タルカン)
 が殺害し
 回紇可汗国内の
 ソグド人官僚
 マニ教が弾圧されるという政変
 頓莫賀達干
 は
 合骨咄禄毘伽可汗
 (アルプ・クテュルク・ビルゲ・カガン
  在位:779年〜789年)
 と号し
 唐との関係を強固なものにすると同時に
 国号を
 「回紇」から
 「回鶻」に改称
 ↓↑
 790年代
 吐蕃
 との戦争も両国が連合して対処
 保義可汗
 (在位 808年〜821年)
 関係がこじれ、一時的に緊張状態
 後すぐに唐との関係が修復したが
 回鶻可汗国内で後継争いが相次ぎ
 異常気象によって
 多くの家畜が死んだため
 国力衰退
 北の
 黠戛斯(キルギス)
 の侵入を招いて
 回鶻可汗国は崩壊
 ↓↑
 九姓タタル国
 回鶻可汗国の崩壊後
 モンゴル高原を支配したのは
 黠戛斯(キルギス)
 ↓↑
 860年代
 東方のタタル族によって
 高原を追い出された
 タタル族は
 漢籍では
 「阻卜」・「達旦」
 と記され
 ウイグル碑文・イェニセイ碑文では
 「トクズ・タタル(九姓タタル)」
 「トクズ・タタル・イル(九姓タタル国)」
 と記される集団
 回鶻可汗国の
 崩壊後から
 11世紀に至るモンゴリアの
 空白時期を埋める
 漠北政権
 「九姓タタル」は
 契丹(遼)
 の侵攻により
 その属民となった・・・
 ↓↑
 遼(契丹)
 高原支配
 4世紀以来
 大興安嶺山脈の東側には
 契丹(キタイ)
 という遊牧民族が居住
 10世紀になって強大化し
 部族長の
 耶律阿保機
 に内モンゴルを中心に大帝国を築いた
 契丹は漠北のモンゴル高原に進出し
 ↓↑
 928年
 ケンテイ山脈以東に住む
 タタル「烏古」
 を征服し
 契丹の軍を駐屯させ
 1000年までには
 ケンテイ山脈以西に住む
 タタル「阻卜」
 を征服
 ↓↑
 1004年
 契丹帝国(遼)は
 ウイグル故城の一
 オルホン川
 トーラ川の間の
 カトンバリクの地に
 モンゴル高原を統治する拠点
 「鎮州建安軍」を置いた
 ↓↑
 1115年
 黒龍江(アムール川)
 下流域の狩猟民族
 「女真(ジュシェン)」
 の部族長のひとり
 完顔阿骨打
 (ワンヤン・アグダ)
 が遼から独立して自ら皇帝となり
 「金」を建国
 ↓↑
 1125年
 金軍はモンゴル高原で最後の
 遼皇帝を捕えて遼を滅ぼし
 遼が支配していた領土を受け継いだが
 狩猟民族であった
 女真族
 は漠北の草原地帯まで支配が及ばなかった
 モンゴル高原は
 モンゴル、ケレイト、メルキト、ナイマン
 といった諸部族が割拠
 ↓↑
 モンゴル
 中国史書で
 「室韋」
 という部族集団に属す
 「蒙兀室韋」
 という部族名で初登場
 ↓↑
 室韋
 大興安嶺山脈の北
 アルグン川渓谷(フルンボイル市)に居住
 9世紀
 モンゴル高原に進出
 10世紀、11世紀に
 「九姓タタル国」を建国
 次第にモンゴル高原における占有率を高め
 室韋族はテュルク系民族から
 「オトゥズ・タタル(三十姓タタル)」
 「トクズ・タタル(九姓タタル)」
 などと呼ばれていた
 モンゴル部はそのうちの
 「オトゥズ・タタル(三十姓タタル)」
 に属し
 バイカル湖畔に居住
 ↓↑
 1084年
 モンゴル部は
 契丹帝国に使者を派遣し
 『遼史』に
 「萌古国」
 という名前で記された
 モンゴル部族はその後
 数氏族に分かれ
 周辺のタタル系部族と抗争を繰り返した
 ↓↑
 チンギス・カン
 テムジン
 モンゴル部の中心氏族
 ボルジギン氏に属する
 キヤト氏の傍系に生まれた
 ↓↑
 1195年
 テムジンは兵を集めて
 金軍によって追われた
 タタル部(タタル系の一部族)を攻め
 その部族長を殺した功により
 金朝皇帝から
 「ジャウト・フリ」の官職を授かる
 ↓↑
 1196年
 ケレイト部族長
 オン・カンと同盟し
 周辺の
 メルキト部、ナイマン部、タタル部
 と
 チンギス・カンの同族である
 タイチウト氏などと抗争を繰り返した
 ↓↑
 1203年
 同盟者である
 オン・カンの襲撃に遭ったが
 反撃して
 ケレイト部を滅ぼし自軍に組み入れ
 ↓↑
 1204年
 ナイマン部、メルキト部、タタル部
 を壊滅させ、モンゴル高原を統一
 ↓↑
 1206年
 テムジンは
 支配部族・氏族の代表者を召集し
 オノン川の水源地にて
 大会議(クリルタイ)を開催し
 全遊牧民族の支持を得て
 「チンギス・カン」の称号を授かった
 ↓↑
 モンゴル帝国
 中世モンゴル語で
 イェケ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)
 「ウルス」・・・「ウ(ら・り・る・れ・ろ)ス」?
 「領民」という意味で
 「領土」という
 概念のなかった遊牧民族にとっては
 「領民」が「国家」・・・?
 ↓↑
 チンギス・カン
 1208年
 モンゴル高原西北の
 オイラト、ケム・ケムジュート、キルギス
 といった部族を支配下に入れ
 ↓↑
 1209年
 タングート族の
 西夏
 を降し
 カラ・キタイ(西遼)属国
 天山ウイグル王国を自領に加え
 ↓↑
 1210年
 金朝攻略を開始
 ↓↑
 1218年
 カラ・キタイを征服
 1219年
 中央アジア遠征を開始
 1222年
 イスラム王朝
 ホラズム・シャー朝を壊滅
 別動隊は
 キリスト教国
 グルジアを攻撃した後
 カフカス山脈を越え
 テュルク系遊牧民族
 キプチャクの草原地帯に入り
 キエフ・ルーシの諸侯と一戦
 1225年
 モンゴル高原に帰還した
 チンギス・カンは
 反抗する西夏の攻略
 ↓↑
 1227年
 西夏を滅ぼした
 同年に陣中で病死
 ↓↑
 チンギス・カンの後継
 オゴデイ・カアン
 (在位 1229年〜1241年)
 征服戦争を引き継ぎ
 征服地の施政と法の整備
 駅伝制(ジャムチ)の採用
 中央政府である
 中書省の設置
 首都である
 カラコルムの建設
 国家体制を強化
 ↓↑
 1234年
 オゴデイ・カアン
 金朝を滅ぼし
 華北の地を手に入れ
 1235年
 首都のカラコルムを
 オルホン河畔に建設
 1236年
 ヨーロッパ遠征が開始
 ヴォルガ川流域の
 ヴォルガ・ブルガール
 1237年
 キプチャク族
 1240年
 キエフ・ルーシ諸侯国を征服
 1241年
 ポーランド王国に侵攻し
 ワールシュタットの戦いで
 シレジア公を戦死させ
 バトゥ率いる部隊は
 ハンガリー王国に侵攻し
 ハンガリー軍を潰走させた
 1242年
 オゴデイ・カアンが死去
 モンゴル征西軍は帰還
ーーーーー
 ・・・北方異民族・・・支配階級は「北方同民族」だろう・・・
 血縁同族で武力争いし、征服した被支配人民を同属支配する・・・
 「拉=手・扌(て・てへん)+立
    くじく
    ひく
    ひっぱる
    ひしぐ
    ひしゃげる
    ひしぐ・くじく・くだく
    おしつけてつぶす
    ラ・ラツ・ロウ」
 「丁=チョウ・テイ・トウ
    あたる
    ひのと
    十干の四番目・火の弟・五行で火・方位は南
    つよい・さかん
    働き盛りの男性・壮年の男
    しもべ・下働き・雑用の男
    あたる・出遭う・遭遇する
    よほろ(よぼろ)・徴発された男
    斧などで木を切る音
    書物の枚数を数詞
    町を分けた区分・丁目
    長さ・面積の単位・町
    一丁=六十間=約109メートル
    サイコロの目の偶数・丁半賭け勝負
    丁抹(デンマーク)の略
    豆腐・拳銃などを数える数詞
ーーーーー
 ・・・???・・・「一丁字を知らず」・・・
 「目に一丁字なし」・・・「目に一丁字(いっていじ)なし」?
 『唐書』張弘靖伝、『資治通鑑』・・・一個の文字も知らない?
 「丙丁に付す」・・・
 燃やして灰にする・・・秘密の文書を焼却する・・・
 「丁は个(カ)の誤り・个は個・箇の意」・・・?
 「丁,續世說,一丁作一个,因篆形相似,傳寫譌作丁」
 ↓↑   ↓↑
 ・・・「子」⇔「孑・」、「古」⇔「占」、「若」⇔「苦」・・・
 ・・・「大(ダイ)」⇔「太(タイ)」⇔「犬(ケン)」・・・
 ・・・「人(儿)」⇔「入(入り口)」・・・
 ・・・「王(オウ)」⇔「玉(たま)」⇔「壬(ジン)」・・・
 ・・・「末・未・末・禾・耒」・・・
 ・・・「礻(示)・衤(衣)」・・・
 ・・・「纂」≠「篡・䵵・𣀔・𨏉・簒・簒」・・・
 ・・・「爪(つめ)」⇔「瓜(うり)」・・・
 ・・・「灬(烈火)」⇔「㣺(心・忄)」・・・
 ・・・「乚(乙)」⇔「L(エル)」・・・
 ・・・「干(カン)」⇔「千(セン)」・・・
 ・・・「丁(チョウ)」⇔「丅(ティ)」・・・
 ・・・「乙(イツ)」⇔「Z(ゼット)」・・・
 ・・・「七(7)」⇔「𠤎(牝・雌)」⇔「匕(匙・匕首)」・・・
 ・・・「ナ(那)」⇔「十(拾・X・乂)」・・・
 ・・・「ナ・メ・乂・乄・X・十・・・七」・・・
 ・・・「𠂉(櫛)」⇔「丆(面)」・・・
 ・・・「丫(ア)」⇔「Y(ワイ)」・・・
 ・・・「工(コウ)」⇔「H(ヱィッチ)」・・・
 ・・・「阝(阜・邑)」⇔「B(ビィ)」⇔「乃(ナイ)」・・・
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