皆様、おはようございます。
最近、若人程、「知的好奇心」が薄れてきているため、世界の出来事から身近な出来事に至るまで、無関心な人が余りにも多いように想われます。
スポーツ競技(サッカー、野球、相撲、その他)鑑賞には、関心をみせても、芸術(音楽、絵画、彫刻、その他)鑑賞に関心を寄せている人は、前者に比べて、桁違いに低過ぎな観です。
世の中が物で溢れて、物を大事にしなくなったり、物欲は満たされても、心欲は満たされている人は極少だと想っています。
高齢者(65歳以上)の人達は、幼少時、物量に乏しく、衣食住も満たされていなかったため、どうしたら快適な住居で生活が出来るのか、どうしたら健康的な生活が出来るのか、どうしたら綺麗なファッションで生活を楽しむことが出来るのか、まあ、夫々、工夫に工夫を重ね、快適な生活を求めて、発明や考案を積み重ねて参りましたから、知的好奇心がある人程、「歓喜の人生」を謳歌できたはずです。
要するに、生活環境がプアー(貧弱)であったから、何かを考案しなければと、必死に姥貝ていたのです。
これが、「知的好奇心」の出発点です。
世の中の様々な出来事から身近な出来事に至るまで、様々な理不尽点、矛盾点、可笑し過ぎる点を洗い出し、何事に対しても、一度、疑問に思って、これが正しい情報なのかを精査・考察してみることが大切です。
正しい情報か否かを見極めるために、科学的探究心が必要不可欠です。
私の場合、幼児(3〜5歳)時、童謡(汽車ポッポ、鳩ポッポ、その他)が大好きで、叔父が所有していた蓄音機を借りて、親父が買ってくれた25cm盤のSPレコードを叔父の鉄針を使って聞いて楽しんでいました。
ある時、叔父が鉄針は高価なので、頻繁に使うなと注意されてしまいました。
そこで、鉄針に代わるものを身近な生活用品から選択し、爪楊枝を選定したのです。
木製の爪楊枝で、SPレコードから発せられる音は、柔らかく、小さな音でしたが、これでも、音が出せたことが喜びとなり、考案を重ね、爪楊枝から竹へ変更し、小型のナイフで、竹の先端を削って、竹針を作成し、鉄針より、マイルドな音が出た喜びが忘れられないのです。
これが、「オーディオ探求」への出発点となっております。
5歳児時、隣の小父さんから頂いた、30cm盤のSPレコードが、初めてのクラシック音楽(ウィーナーワルツで、ヨハン・シュトラウスのA面:美しき碧きドナウ、B面:ウィーンの森の物語)でした。
竹針を活用して、毎日毎日、聞いて楽しんでいました。
これが、「クラシック音楽探求」への出発点となっております。
10歳時頃から本格的にクラシック音楽を楽しみとして聴きはじめ、小学生から高校生までの音楽の授業で学習したモーツァルトやベートーヴェンをはじめ、様々な音楽作品の音楽ソフト(25cm&30cm盤のLPレコード、17cm盤のドーナツ型のEPレコード)は、お小遣いではなかなか買えず、お年玉で、1〜2枚/年の購入状況が続きました。
専ら、AM用ラジオで、クラシック音楽の番組に合わせて、聴くしかありませんでした。
ステレオ放送が開始され時、もう1台のラジオを親父に買って貰い、ステレオ放送で、クラシック音楽を楽しむことができました。
左チャンネルはNHK第1放送、右チェンネルはNHK第2放送、民放では、左チェンネルは文化放送、右チェンネルは日本放送で、ステレオでクラシック音楽が聴けたときは嬉しさがこみあげてきました。
FM放送が開始された時、また、親父に強請り、FM用ラジオを買って貰うことが出来、音質の良さに魅力を感じたのです。
高校生1年生時、「クラシック音楽の源泉・本質は何なのか。」を探索に、クラシック音楽の基は、キリスト教の教えにあるのではないかと想い、近所のキリスト教の教会に行き始めたのです。
下記に記述したことと合わせて、クリスチャン同士(同志)の戦争の原因を探るために。
鉄道は、1〜2歳児時、親父が鉄道マニアだったので、仕事が終わり、夕方になると、親父に抱っこされて、徒歩1分先の東武鉄道伊勢崎線第1号踏切、浅草(車両)工場とセメント工場に出入りする蒸気機関車(業平のネルソン)や貨車の往来、特急電車(5700系のねこひげ)から各駅停車の各種電車までの往来見学をしていたことにはじまります。
まあ、生まれながらにして、鉄道マニアに飼育された観です。
中学生時までは、学校での学習に対して、余り疑問に思いませんでしたが、高校生時から、学習した授業内容に対して、多くの疑問を抱くようになりました。
特に、歴史(日本史、世界史)の内容(中身)は、史実(事実・真実)なのかどうかでした。
日本史では、卑弥呼や聖徳太子は、実在人物か否か、担当の先生に質問しても、存在した証拠を示すもの(証拠物件甲第1号証)は今のところ「なし」との回答でした。
世界史では、なぜ、イエス様が、隣人を愛せよ!!と教えているにも関わらず、クリスチャン同士(同志)が、戦争を続けているのか、担当の先生に質問しても回答できず、校長(日蓮宗の高僧で、キリスト教の研究家)に尋ねても回答できず、近所のキリスト教の教会の牧師に尋ねても、回答できず仕舞いでした。
日本史の最後の授業で、担当教師が、教えた日本史の史実は、明治以前、皆、嘘であることを伝えてくれたのです。
私は、先生、それ違うよ!!と手を挙げて、明治以前ではなく、終戦(昭和20年8月15日)以前じゃないのと答えたのです。
先生、一寸躊躇して、お前の言う通りだと認めてくれたのでした。
これが、「歴史認識と宗教探求」のはじまりとなったのです。
それらが切っ掛けとなり、半世紀余りにわたって、知的好奇心の積み重ねで、何が真実なのかを突き止めていく好機となったのです。
何事にも「知的好奇心」を持ち、「知的好奇心」を趣味に活かし、何が「本意」なのか、何が「真実」なのか、何が「本質(真理)」なのかを見極める行為が、楽しみとなり、年齢がますとともに、益々、探求・探究へのめり込んでいく観でした。
「知的好奇心」がない世界観、「知的好奇心」が持てない生活環境では、「新規性」や「進歩性」は生み出せません。
運良くも、サラリーマン時代、10年間の新技術開発研究、28年間の特許管理(現在、知的財産管理)に携えたことは、天職となり得ました。
これも「知的好奇心」が原点です。
「歓喜の人生」を謳歌するには、「知的好奇心」の影響力が大だと思っています。
今からでも決して遅くはありませんから、皆々様に、「歓喜の人生」を謳歌するために、「知的好奇心」をお勧めしたいのです。
皆々様と共に、一緒に、「歓喜の人生」を謳歌していければ、こんな嬉しいことはないと想う、今日この頃です。
感謝
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