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2019年02月15日21:33

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想定問答・・・

 古川古松軒が随員となった巡見使は、諸藩の大名を監察する諸国巡見使です。
 徳川家綱の代に入った1664年(寛文4年)に、
 全ての大名に対して領知朱印状が交付され、
 同年に宗門改が全ての領主に対して義務付けられた事により、
 それらの実施状況を確かめる事を名目として、
 1667年(寛文7年)に諸国巡見使の制が導入されました。

 この制度では、責任者を若年寄としてその指揮監督にあたり、
 若年寄の支配下にあった使番1名を正使、
 同じく小姓番と書院番からそれぞれ1名ずつを副使として派遣することとしています。
 彼らは従者を連れて管轄する諸国の監察を行い、
 諸藩及び公儀御料の政治の実態を「美政・中美政・中悪政・悪政」などと格付けした他、
 キリスト教禁止令などの幕府法令の実施状況、
 領内の物価や相場、船舶や海防についてなどを調査しました。

 続いて徳川綱吉が将軍職についた翌年の1681年(天和元年)にも諸国巡見使が派遣され、
 これ以後新将軍が就任してから1年以内に
 巡見使発遣令と実際の発遣が行われることとなりました。
 また、全国を8の区域に分割して管轄区域を定めています。
 以後、幼少で没した徳川家継を例外として、
 寛文・天和の制度に則って将軍の代替わりの恒例行事として制度化されました。

 古川古松軒は、
 徳川家斉の就任後、1787年5月14日(天明7年3月27日)に発令され、
 翌年に派遣された、陸奥・出羽・松前の3国を担当する巡検使の随員となりますが、
 この時の正使は藤波要人、副使が川口久助と三枝十兵衛で、
 古松軒は、三枝十兵衛の随員となりました。

 寛文7年の巡見では、実際に島原藩の高力隆長が改易処分にされるなど、
 「悪政」と評価された大名には処罰の可能性があり、各藩ではとても恐れました。
 そのため、諸藩は巡見使の機嫌を取ることに気を配り、
 巡見使に対して過度とも言える接待が行われ、
 巡見使が通過する村々に対して負担が命じられました。
 更に「巡見扇」などと呼ばれる想定質疑集も作成されています。

 古松軒たちが、青森県の三戸辺りを進んでいた時、
 副使の三枝が馬好きだったため、案内の者に、
 牧場のような所で放し飼いになっている馬が子を産んだ場合、
 子馬を人が連れて来て育てるのか、そのまま育てるのかを尋ねると、
 案内の者は、「さようの事は存じ申さず。」と答えます。
 それで三枝は、家で飼っている馬が子を産んだときはどうかと尋ねますが、
 これに対しても、案内の者は、「さようの事は存じ申さず。」と答えます。
 これには、三枝も怒ったのでしょう、
 近くにいる馬を指さしてあれは何かと尋ねますが、
 やはり、案内の者は、「さようの事は存じ申さず。」と答えます。
 この答えを聞いて、駕籠の脇にいた従者が怒って、別の者と交代しろと命じます。
 そうすると、この案内の者は恐れ入って懐中から書状を出します。
 それは、巡検使から尋ねられた事に対する想定問答集で、
 その末尾に、これ以外の事を尋ねられた場合は、
 「さようの事は存じ申さず。」と答えろと書いてありました。
 その想定問答集には、馬の事が書いてなかったので、
 全て「さようの事は存じ申さず。」で通した訳で、
 これには、一同大笑いしたとの話が東遊雑記に載っています。

 この想定問答集は、案内を命じられた時に役人に渡されたものでしょう。
 案内人に余計な事を言われないように厳しく管理していたのだと思います。


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