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2019年01月14日14:18

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【1991年12月天皇誕生日の三連休】三陸と遠野への短い旅

平成の天皇誕生日に旅をしたのは、1991年が初めてでした。岩手県の三陸と遠野を回る旅、当初は11月3日を含む三連休に予定して、宮古と遠野のユースホステルを予約していたのですが、遠野ユースからその日は既に満室でしたと手書きの丁寧なお詫びのハガキ(色鉛筆で描かれた遠野の風景画つき)を頂きました。「開所式」のどんちゃん騒ぎが予定されて常連さんを優先していたための手違いだろうと思われます。三陸海岸にある小学校の校舎を改築したユースに変更しようと電話を掛けたら、いかにも東北人らしいペアレントと思しき男の人が「やってません!」とだけお答えになったので、旅行は中止、宮古のユースもキャンセルして、年末まで延期となったのでした。

経済や社会に疎い私がバブル崩壊による景気の退潮を実感することはほとんどなかったけれど、石油化学会社の研究員として湾岸戦争の行方に不安を感じないはずはありません。会社生活は三年目の後半に入っていました。新規農薬の探索・開発研究は、将来性が見込める分野ではなくなっていたと思いますが、コンピュータの研究への応用が各分野で進展しつつある影響もあって、まだ理科系の新入社員にとっての配属希望の人気部門の一つでした。二年間のアメリカ留学を終えて戻って来た直属の上司はフルマラソンを2時間半で走破する猛者でした。その下で化合物の物理化学的性質と活性との関連を分析する定量的構造活性相関法(QSAR)とコンピュータグラフィックによる化合物の三次元構造の重ね合わせ比較の唯一のエキスパートとして、水田用除草剤と殺菌剤、畑地用除草剤の探索に関わっていました。研究業務のスキルは向上してオリジナルのQSAR解析システムを作り上げ、上司との相性も良かったし、化学へのコンピュータの応用に関する学会への参加でも多くの刺激を得ましたが、実用的な成果には乏しくて、窓際社員への道を歩み始めていたかもしれません。

前年の暮れに三十路を迎えましたが、体育会系社員ばかりの研究所の雰囲気に染まり、ボート班に入って早朝の霞ケ浦の練習に参加、昼休みはジョギングで汗を流し、筑波研究学園都市のプールにも通い、学業でも音楽活動(オーケストラ)でも停滞していた二十代よりも健康的な生活を過ごしていました。スキー用具を買い揃えたのは1月、初心者レベルから「成り上がり中級」となり「万年中級」へと上達しつつありました。会社の敷地内の社員寮に住んでいたので通勤時間は数分、職場や同期だけでなく社員寮の仲間との宴会にも明け暮れる日々でしたが、会社の仲間と離れての「ひとり旅」のスタイルも成熟しつつありました。研究所内の社内報「つくばニュース」に「ひとり旅のすすめ」という文章を載せて、大好評で文才を認められるに至ったのは8月のこと、旅先での活躍、出会いについて毎度の様に詮索されるフーテンの寅さんのような存在になっていました。

旅の前日(12月20日)には平成元年入社の同期会があって本社の特許部の女子や鹿島のプラントに移っていた男子も駆けつけました。当時の女子社員の平均年齢は20代後半、三年くらい勤めて結婚その他で退職するのが普通でした。今回の同期会の主賓二人も結婚退職に近い女子二名でした。一名はバイオ系の今ならブラック職場と名指しされそうなラボを退職したのですが、バツイチの先輩社員と極秘に結婚したことが明らかになったのは一年後くらい。もう一名、北海道出身の色白で小柄でぽっちゃりした人気の子は、担当の化学分析の仕事は好きではなく早く辞めたかったけれど、みんなとのお別れは悲しいと涙ぐみながらの挨拶でした。農薬の開発に携わる女子一名は、趣味的な化学合成に没頭する探索チームやプロ意識の低い評価チームの批判を始め、訳の分からないコンピュータシミュレーションに取り組む私も槍玉に挙げていたようです。新素材の開発で成果を上げていた女子一名は、休暇にはエジプト、ギリシャ、トルコへ旅を続け、まるでギリシャ彫刻のようなトルコ人青年のボーイフレンドもできて、日本語専攻の彼から「熱い手紙」を何通も頂いたそうです。

同期会で2時まで飲んでいたのですが、4時半に起床してまだ真っ暗な中、5時16分に会社の正門前のバス停を出発。アルコールはあまり残っていないようですが、日記には常磐線と東北新幹線に乗車したはずの記録が残されていません。土浦駅で三陸と遠野を回る周遊券が無かったけれど、行きは東北本線、帰りは常磐線というコースの切符を作ってもらった微かな記憶があります。11:46盛岡発の山田線「快速リアス」で宮古へ向かいました。車窓からは人家もほとんど見かけられず、葉のすっかり落ちた裸の木々ばかり並んだ山々の風景が続きました。枯葉が地面に厚く積もって、雪も所々に残り豪雪地帯ではなさそうですが、茨城に比べれば降雪量が多いことは明らかです。「区界(くざかい)」というそのものずばりの地名の駅もありました。川の上流らしき澄んだ水の流れが所々で渦を巻いていて冷たそうです。これといった魅力の乏しい車窓風景を眺めながらの長く退屈な車中ですが、天気が良かったのが幸いです。宮古駅には14時ころの到着です。盛岡で弁当を買い損ねたので遅い昼食は宮古の駅ソバで済ませました。

浄土ヶ浜まで宮古駅からバスで15分ほど。バス内の運賃表は電光の表示ではなく、金属板が自動式でパタパタとめくられて停留所名と運賃を表示しているのが昭和時代にタイムスリップしたかのようでした。湾内遊覧船に乗り、40分ほど乗船。風が冷たく寒い船上でした。海の水は緑を含んだ青色に澄み切っています。二十代と思われる色白でぽっちゃりした女性がガイドを務めていましたが、淀みない見事なアナウンスで訛りが感じられません。様々な岩が出現する景色の手前を、たくさんのウミネコが餌付け用のパンを求めて飛び交っています。ウミネコの戦隊は船と同じスピードで飛んでいるので飛行時の表情もよく観察できます。浄土ヶ浜の三角錘を斜めにしたような岩の並ぶ風景は水墨画を思わせ、海と陸の両方から写真に撮りました。陸からの岩の風景には子どもと犬が良い感じに写り込みました。

下船地に近いレストハウス前でバスを待っている間に暗くなりました。すぐ前のカーブの多い坂道を使ってコーナリングの練習を繰り返すライダーがいました。ブーツが地面に着きそうになるほど車体を傾け、オレンジ色の火花が暗い中に煌めくのを何度も見ました。

宮古駅に戻ったのは16:50でユースに行っても誰も到着していないと思ったので、駅で浄土ヶ浜見物の分の日記を記しました。宮古駅周辺は大きな建物は少なく、商店街も規模が大きいものではありませんが、魚屋の店先にはホヤやアワビが大量に並んでいるところはいかにも東北の食材の風景です。大きな鮭の口に縄を掛けた干物(南部鼻曲がり鮭)を戸口に提げた家が多いのは、この地域の年末の風物詩のようです。

ユースホステル末広館のペアレントのおばさんはとても親切で優しい人でした。ホステラーは男性4名のみでした。夕食のおかずは、すき焼き風煮と刺身で、白くて柔らかいのに歯ごたえがあるのは蛸の頭でした。豪勢な食事内容ですが、ユースホステルと兼業している旅館では更に上のランクの食事(イサキの刺身が付いている)が提供されているようです。ホステラーの一人は、あまり魚介類が好きでないらしく生魚が食べられず、蛸の頭も気持ち悪がって手を付けませんでした。朝食に出た干物は、おそらく各家で冬の保存食としている南部鼻曲がり鮭だったと思います。

他のホステラー3人は三重県出身。名張出身で成田のエレベータ会社に勤務して一年目の一人旅の男と二人組でどちらも青春十八きっぷでの旅でした。名張の男はユース宿泊が二泊目だったので、今後の参考に三人で日本全国のユースホステルの五段階評価を行って、ガイドブックにメモしてもらうことにしました。コメントとして「女子ホステラーの宿泊が期待できる」、「食事が良い」、「気ちがいユース(差別用語注意!歌ったり、踊ったり、ゲームで盛り上がるミーティングがあるユースをこう呼んだのが昭和時代)」などを付け加えたりしました。

本日の宿、ユースホステル末広館は食事の良さもあって文句なしの評価5となりました。ガイドブックの記載に従って北から順に評価。二人は北海道旅行のリピーターでトップバッターの桃岩荘には思い入れがあって評価5だそうです。(歌って踊るミーティング、港での出迎え、愛とロマンの8時間コースなど盛りだくさんで強烈な印象を残す桃岩荘に私が宿泊したのは二年半後でした。)北海道旅行に関しては札幌に興味がなく、基本的に夜行列車で通過してしまうそうなので札幌のユースは評価対象外になりました。倉敷ユースは女子ホステラーが多くて楽しかったというのは私からのコメント。人気がなくて寂れて食事も粗末なユースは、容赦なく評価1です。三人のうち一名が宿泊したことがあるか、評判を聞いているかしたらの独断・偏見を交えての評価でした。

私が評価5とした高知県の山中の定福寺ユースは、二人組の一人が評価1だと酷評して異を唱えました。四国の秘境を回るユースオリジナルのコースが用意されて、夜はミーティングで周辺の観光案内、初めて宿泊する人もリピーター(常連)も分け隔てなく旅先の健全な出会いを楽しんだ最高の宿で、まだ宿泊経験のない桃岩荘は雰囲気が似ている宿と想像していたのですが、彼にとって何か好みに合わない点があったようです。寺(真言宗)のユースなので住職がペアレントとしてミーティングを仕切ることや宗教色が気に入らなかったのかもしれません。名張の彼は「評価分かれる!」とメモしました。

翌22日、名張の男は6:21の列車に乗って南下。宮古駅前の魚菜市場を見物しようと思いましたが、日曜は残念ながら休みの様子でした。今回の旅は前日に昼食を駅ソバで済ませたこと、着替えを十分に揃えていなかったことなど失敗が多く、初めての三陸は急ぎの旅で今一つのものになりそうです。宮古駅を出発したのは8時過ぎ、三陸鉄道北リアス線に乗車。入り組んだ海岸線に対して直線に走るためトンネルの区間が多くて、海はほとんど見えず、車窓風景は期待したほどではありません。8:50に田野畑駅で下車。北山崎までのバスがなかったので駅前のタクシーで片道2200円掛けて北山崎の展望台まで往復しました。

いかにも東北人らしい無口なタクシーの運転手さんを待たせて展望台へ。波で浸食されて穴の開いた岩の列はまるで巨大な象が群れを成しているかのような風景です。絶好の撮影ポイントからは逆光になって写真が黒ずんでしまうのが少し残念ですが、真っ青な海に向かって力強く進もうとするかのような象の雄姿は見応えがありました。736段の階段を岩のトンネルの目の前まで降りました。海の深い青色が美しく、潮の香りも強烈で、いつまでも佇んでいたくなります。帰りの階段の登りで息が荒れて汗だく、汗がセーターの内側までしみ込んできました。短い時間でしたが、三陸海岸の最も魅力的な海の風景を浄土ヶ浜と北山崎の二ヶ所で堪能し、また二つお気に入りの美しい海の風景の記憶が脳裏に刻み込まれたのでした。

10:25田野畑発の列車で宮古へ戻りました。戦前を舞台にしたドラマや映画に出て来そうな、大都会では鉄道博物館に陳列されているようなレトロな車両ですが、内部は昔の一等車のイメージを再現したようで、木目調の内壁、ロココ調の装飾、シャンデリアのような照明、シンデレラの乗る馬車のようなカーテンと豪華です。女子大生またはOLのグループやオバサンの旅行者が盛んに写真を撮り合っています。

宮古駅に着いたのは11:04。駅前の「蛇の目寿司」に入って、上寿司に日本酒1合とホヤの酢の物を付けて、2400円と手ごろな価格です。寿司は癖のないウニの味が良く、ホヤは三陸の海の香りをそのまま封じ込めたような風味でした。ホヤはあまり噛まずに食べるのが良く、噛み過ぎるとエグ味で少々気分が悪くなります。潮の香りが口の中に広がるにつれて三陸に来ている実感がこみ上げました。寿司に付いているアラ汁も美味しかったです。板前さんは何かのお祝いの食事作りに追われて忙しい様子でしたが、十二分に三陸の味覚を堪能して満足して店を後にしました。

宮古から釜石経由で列車を乗り継ぎ、遠野に到着したのは15:20になっていました。「千葉家の曲り家」を見学したいと思ったのですが、バスの便がありません。みやげ物店兼観光案内所に行ったら、観光タクシーの1時間コース(5000円)を頼んでくれました。腹の出た話好きで親切な運転手さんの東北訛りを聞きながらの出発。典型的な茅葺の南部曲り家の千葉家に着いたのは16時10分前でした。観光客の姿がなく、年配の女性が二人で窓を拭いたりして年末年始の支度に追われている様子です。農具を少し見て写真を数枚撮ったくらいで建物の内部にはほとんど入れなかったので只での見学となるかと思っていたら、仕事の手を休めたオバサンが310円を徴収しにやってきて案内のパンフレットを手渡しました。

運転手さんのお勧めは「續石(つづきいし)」で案内された観光客は皆さん「たまげる」そうです。運転手さんと二人で坂を登って行ったのですが、一日の大半を車の中で過ごす運転手さんは、体がなまってすぐに息を切らして辛そうにしています。私の方は普段ジョギングで体を鍛えているし、午前中の北山崎の736段の階段に比べれば坂道の登りなど何でもありませんでした。5mくらいある石が重ねられているだけですが、下の石より上の石の方が大きく、何らかの自然現象で出来たのか弁慶のような怪力の人が石を持ち上げて乗せたのかは謎だそうです。女性三人組の観光客が見物して帰るところでした。光の当たり加減の異なる別の時期に改めて見て確かめたくなりました。

暗くなりかけたころ雪で所々凍り付いた道を登って五百羅漢へ向かいましたが、多数の石の存在が確認できるだけで、描かれた羅漢様の顔を判別できるような時刻は過ぎていました。真っ暗な中でフラッシュを焚いてとりあえず撮影した一枚は、現像してみたら苔むした石の表面に羅漢の顔の輪郭を刻んだ線を認めることができました。

遠野ユースホステルの前までタクシーが到着したのは17:30でした。田んぼに囲まれた遠野YHはユースの中でも最高ランクです。収容能力は20名と少ないけれど、床が木目調で天井が高く、「図書室」の絨毯は床暖房でホカホカです。図書室の漫画本は、めぞん一刻、ブラックジャック、美味しんぼ、ザ・シェフなどホステラーからの寄付で各種全巻が揃えてありました。ホステラー同士の会話を促すためテレビは無くて、テレビの音はペアレント室から聞こえてくるだけでした。洗面所にはお湯が出るし、トイレはウォシュレット付き、風呂場の天井はガラスで夜空が見え、ジェットバスが備えてありました。

夕食には食前酒にロゼのワインがグラス一杯、スープ、鮭のバター焼き、麻婆豆腐と豪華な食事に、更にデザートにコーヒーゼリーが付きました。ホステラーは常連のオジサンが数人、髪が薄くなったかわりにヒゲもじゃの人は、遠野の四季の移り変わりを見るために396連泊したことがあるそうです。女子はたった一人、横浜から気仙沼方面の港の開発の仕事で出張に来た次いでだそうです。むっちりした下半身の立派さが目立つ十人並み以上の美人です。今回の旅で女性との出会いが全くなかったという事態だけは避けられました。夕食時、ペアレント夫人は彼女がどの男性の隣に座るか楽しみに見ていたようです(私の隣ではありませんでした)。

夜9時からはティータイムがあり半強制的参加、その後に「遠野初心者」限定で希望者のみ(4人)ペアレントさんによる遠野の観光案内がありました。遠野の一つ一つの観光スポットは大したことがなく、自分の足で歩いて全体的な雰囲気を感じ取ることが大切だそうです。修行を抜け出したお坊さんが「女を買いに来るための道」に驚いていると、雄琴のソープランドの上客は比叡山の僧侶たちだという話も聞きました。遠野の四季の移り変わりを撮影したアルバムを見せてもらいました。田植えの季節の風景、雪のころの「トオヌップ」の風景は特に美しいものでした。

二階の談話室は24時間開放でした。常連さんたちの話題も豊富で、海外を旅したきり日本での仕事を辞めて居ついてしまった人や、遠野ユースにハマって仕事を休んだ人の話など聞かされました。紅一点のホステラーさんの他、ヘルパーの名古屋出身の若くて髪の長い目の大きな美人が仲間入りしました。健康的に太い脚を短パンから惜しげもなくさらしながら座っています。ホステラーの女性は北海道の旅が特に好きだけれど、休暇を延長して旅先でクリスマスイブを迎えると傷心旅行と思われるので遠慮したそうです。話が続いている内にペアレントさんがクリスマスツリーを持ってきて点灯させました。プラパズルを弄んでいる内に増々夜が更けて気が付いたら2時半になっていたので退散しました。消灯時間も起床時間も強制されず、常連さんには11時半まで寝る人もいるそうです。

翌23日は7時少し前に起きました。ユースのシーツはおなじみの袋状のものでしたが、夜中の2時に寝室へ戻っての二段ベッドの上段で上手くセットできず、クシャクシャになったシーツを被って寝ていました。遠野ユースの居心地が良すぎるので、めぞん一刻の続きを読んだりしている内に、また時間が過ぎてしまいそうでした。曇っていてとうとう早池峰山の姿は拝めませんでした。

居心地の良いユースでウダウダと過ごす時間に見切りを付けて出発。ペアレントの奥さん、ヘルパーの女の子、まだ残っているホステラーによる見送りがあります。玄関を出てまっすぐ田んぼの中の道を進み、曲がり角に差し掛かるころを見計らって、「行ってらっしゃ〜い!また来いよ〜!」という声援が飛んでくるので、振り返って手を振って応えます。また泊まりたいユースが一つ増えました。

タクシーで案内してもらった昨日とは違い、遠野を自分の足で歩いて回る本来の旅に戻りました。二ヶ月前にYHから頂いたお詫びのハガキに描かれた古道跡の朽ちかけた鳥居のところで、自転車で探勝中のホステラー紅一点の女性の姿を見かけました。まだ人気の少ない伝承園へ行き、南部曲り家を含めて茅葺の小屋が並ぶ様子を眺めました。中に入るとかまどの煙の匂いが立ち込めて、何処か懐かしい気持ちを呼び起こしました。元は養蚕場だったらしく、カイコの各齢期についての飼い方のポイントを表で示した紙が貼りっぱなしになっています。囲炉裏のある板張りの間は白熱電球に照らされて陰影が出来ているところが日本間らしい魅力でした。しばらくすると若い奥さんがオシラサマの間を開けてくれて、入ってみたら遠野物語の馬の首と一緒に昇天した娘さんが祀られて、願い事の書かれた色とりどりの布が壁一面に飾られています。

伝承園を出て古道跡の鳥居のところから雪を被った山々を背景に茅葺屋根の群れを眺めました。奈良や京都の寺院と比べると素朴な仁王像の見守る常聖寺の山門を抜けて、カッパ淵を見に行きました。橋の下を小川が流れているだけで、これといったものはなく、不思議な人物にも出会いませんでした。澄んで冷たそうな水が流れる風景を眺めるだけで、のんびりした気分になります。今回の遠野滞在は20時間くらいで、魅力は10%くらいしか味わっていないと思いました。

遠野駅まで歩いていき、ガイドブックにあった「よしのや」で「ひつこそば」を昼食としました。鮭の干物やシイタケの煮物などさまざまな薬味が付いた四段重ねの器に盛られたソバで、薬味との組み合わせを様々に変えながらソバの味を楽しんで腹一杯になりました。

遠野駅に近い木造の家が並ぶ大工町を一回り歩いた後、帰路に就きました。列車に乗り込んだら、YHに宿泊していたずんぐりした男に会いました。五百羅漢を眺めてきたそうです。仙台まで花巻、一関経由で5時間の各駅停車の旅となりました。列車は空いていましたが、車窓風景が田んぼばかりで単調で座り疲れ、寝不足もあって何度が眠りに落ちました。一関で若い色白の美人が二名向かい側の席に座り、東北の訛りをむき出しで会話を始めました。仙台駅ビルをSendaiの頭文字から「S‐パル」と名付けたのなら、一関には「I‐パル」を作ればよいなどと話しています。

一関の駅で買った「三陸弁当」を仙台駅の待合室で平らげてしまったので、駅構内で購入した松茸弁当は18:04発の「スーパーひたち」の中で食べることにしました。特急列車を待つ間に外へ出てみたら、仙台駅周辺はクリスマスツリーのイルミネーションがきれいで、カップルもたくさん歩いています。北の大都市の風景を眺めたら、これで今年の旅は終わりだという寂寥感に包まれました。

仙台から土浦まで「スーパーひたち」を使うと東北新幹線経由より安上がりに済むかわり、3時間半も掛かります。海岸沿いを走っていても、日がすでに暮れているので海はまったく見えません。少し離れた席には日本人の女性二人とカナダ人女性のグループが座っているところへやってきた日本人のオジサンが、戦争のこととか男のこととか2時間にわたって厚かましく一方的にしゃべり続けていました。阿見町の社員寮に戻ってきてから、22:45に遠野の旅の日記を途中まで書いていました。

二泊三日の旅はあっと言う間です。三陸も遠野も急ぎの旅でした。遠野を再び訪れたのは4年4ヶ月後でしたが、三陸の海の景色は再訪が叶わないままです。帰りの常磐線ルートは20年後の原発事故の影響で断絶したままになっています。歩いて日本一周を目指す旅で福島県に至ったのは震災の半年前でしたが、いわきから磐越東線→郡山にルートを変え、岩手県は内陸を縦断したので三陸海岸も遠野も歩きのルートから外れて心残りです。

連休中に庶務のパートの女性(20代後半、既婚)は尾瀬のスキー場へ初滑りに出かけたら、岩鞍スキー場には雪がなく、人工降雪機のあるスキー場のアイスバーンで転倒して腰に青なじみを作って帰って来たそうです。連休中に荒川沖駅近くに「トイザらス」が開店して、オートバックスの前まで酷い渋滞になったと聞きました。そんな中での岩手県の田舎の旅は、優雅な連休の過ごし方だったようです。

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