2652日目からのツヅキ・・・
日本書紀に
白村江の戦いの
663年〜666年にかけて
「唐国の使人
郭務悰
等
六百人
送使
沙宅・・・百済人の官位
孫登・・・「孫が登る」・・・天孫の降臨(上陸)?
等
千四百人
総合べて
二千人が
船四十七隻に・・・2000÷47=42.55
乗りて倶に
比知嶋・・・比(くらべる)知(しる)嶋(しま・山鳥)
に泊りて相謂りて
曰わく
「今吾輩が人船、数衆し。
忽然に彼に到らば、
恐るらくは
彼の防人
驚きとよみて
射戦はむといふ。
乃ち
道久
等を遣して、
預めやうやくに
来朝る意を披き陳さしむ」
と、合計2千人の
唐兵や百済人が上陸・・・進駐軍
↓↑
水軍
7,000名
170余隻の水軍・・・7000÷170=41.17
指揮官は
劉仁軌
杜爽
元
百済太子の
扶余隆・・・余(アマ)りの
隆(さかん・たかい・隆起)を
扶(たすける・扶助・扶養)
↓↑
唐
陸軍
陸軍指揮官は
孫仁師
劉仁願
新羅王の
金法敏(文武王)
↓↑
倭国軍
第一派
1万余人
船舶170余隻
↓↑・・・舟の大きさの規模は
10000÷170=58.8235
およそ、一隻に60人の乗船規模?
60人乗れる船の大きさは?
造船技術はダレから・・・
遣唐使の船は奈良時代の資料に
約600人を4隻の船で派遣した
一隻に150人程度乗船
150人が数日寝泊り出来る船
約300トンくらいの船・・・
150÷60=2.5
↓↑約120トンくらいの軍船・・・
↓↑
指揮官は
安曇-比羅夫
狭井-檳榔・・・檳榔(ビンロウ)=ヤシ科の植物
噛みタバコに似た使われ方
朴市-秦造-田来津
↓↑
第二派
2万7千人。軍主力
指揮官は
上毛野-君-稚子
巨勢-神前臣-譯語・・・通訳
阿倍比羅夫
(阿倍-引田-比羅夫)
↓↑
第三派
1万余人
指揮官は
廬原-君臣
(いおはらのきみおみ)
(廬原国造の子孫
静岡県静岡市清水区を本拠)
↓↑
661年5月
第一派
倭国軍が出発
指揮官は
安曇比羅夫
狭井檳榔
朴市秦造田来津
豊璋王・・・・・豊の璋(王章)の王
を護送する先遣隊
船舶170余隻
兵力1万余人・・・
↓↑
662年3月
主力部隊
第二派倭国軍が出発
指揮官は
上毛野-君-稚子
巨勢-神前-臣-譯語(おさだ・ヤクゴ)
阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)
↓↑
663年(天智二年)
豊璋王
は
鬼室福信
と対立し
鬼室福信
を斬る
倭国の援軍を得
百済復興軍は
百済南部に
侵入した新羅軍を駆逐
↓↑
唐は
劉仁軌
率いる
水軍7,000名を派遣
唐・新羅軍は、水陸併進し
陸上部隊は
唐の将
孫仁師
劉仁願
新羅王の
金法敏(文武王)
が指揮
↓↑
劉仁軌
杜爽
及
元百済太子の
扶余隆
が率いる
170余隻の水軍は
熊津江に沿って下り
陸上部隊と会合して
倭国軍を挟撃
↓↑
倭国・百済連合軍は
鬼室福信の事件の影響により
白村江への到着が
10日遅れ
唐・新羅軍のいる
白村江河口に対して突撃、海戦
倭国軍は
三軍編成をとり
4度攻撃した
火計、干潮の時間差などにより
663年
唐・新羅水軍に大敗
↓↑
唐・新羅の軍は
倭国・百済の軍を破り
百済復興勢力は崩壊
↓↑
白村江の戦い(663年8月28日)
天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
(ユリウス暦
663年10月4日〜10月5日)
に集結し
1,000隻余りの・・・1,000隻余りの倭船?
・・・造船調達⇔残存隋王朝の水軍?
倭船のうち・・・・倭船?
400隻余りが炎上・・・
白村江の戦い=唐王朝vs隋王朝
の倭国への亡命水軍?
残存遺族?
↓↑
九州の豪族
筑紫-君-薩夜麻・・・薩=艹+隆(阝夂生)
夜=亠+イ+攵+丶
麻=广+木+木
土師
富杼
氷老
大伴-部-博麻
が唐軍に束縛
8年間
捕虜として唐に抑留され
後、釈放帰国・・・
大敗した
倭国水軍は
転戦中の
倭国軍
百済遺民
を船に乗せ
帰国
↓↑
唐が
666年から
高句麗へ侵攻
3度の攻勢によって
668年
高句麗を滅ぼし
安東都護府・・・安東の都護府は高句麗の領内
を設置
百済の
豊璋王は
高句麗へ亡命していたが
捕らえられ幽閉
↓↑
渤海の建国
698年
靺鞨
粟末部は
高句麗遺民などと共に
満州南部で
渤海国を建国
↓↑
唐と対立し
後に
唐から冊封を受け臣従
日本は
新羅との関係が悪化する中
渤海からの朝貢を受け
遣渤海使をおこなう
渤海とは
新潟や北陸などの
日本海側沿岸で交流
↓↑
唐は
百済・高句麗の故地に
「羈縻州」を設置
新羅にも
「羈縻州」を設置する方針・・・
新羅は
旧高句麗の遺臣らを使って
669年
唐に対して蜂起させ
670年
唐が西域で
吐蕃と戦っている隙に
新羅は
唐の
熊津都督府を襲撃
唐の官吏を多数殺害
他方で
唐へ使節を送って
降伏を願い出
硬軟両用で唐と対峙
新羅は
再び唐の冊封を受け
唐は
清川江以南の領土を
新羅に管理させるという形式をとって
和睦が成立
唐軍は
675年
撤収
新羅によって半島統一
↓↑
敗戦した
倭国は
朝鮮半島の領地・権益を失い
外交政策・国防体制・政治体制など
統治の基礎部分を変革
唐との友好関係樹立
国家体制の整備・改革
近江令法令
飛鳥浄御原令
の制定
律令国家の建設
倭国は
「日本」と国号を変えた
↓↑
665年
唐の
朝散大夫
沂州
司馬
上柱国の
劉徳高
が戦後処理の使節として来日
3ヶ月後に・・・3ヶ月の間、駐留
劉徳高は帰国
唐使を送るため
倭国側は
守大石らを
送唐客使(遣唐使)として派遣
↓↑
667年
唐の
百済鎮将
劉仁願
が
熊津「都督府」
(唐が百済占領後に置いた5都督府の一)
の役人に命じ
日本側の捕虜を
筑紫
「都督府」・・・「都督府」=「唐の占領出先機関」?
↓↑ 九州博多近辺は唐の領土化
都督府⇔都護府・・・?
督 ≠ 護
監督 ≠守護
↓↑
都護府(トゴフ)=中国の漢、唐王朝の時代に
辺境警備・周辺諸民族統治などのために
置かれた
軍事機関
「都護府」の長官は「都護」
↓↑ ↓↑
唐王朝は
安東、安北、単于、北庭、安西、安南
の
六都護府を設け
「羈縻」政策を開始した
「羈縻(キビ)」政策・・・???・・・
↓↑ ↓↑
唐の羈縻(キビ)州
初期には辺境の
「都督府」・・・「都督府」⇔「都護府」
が管掌し
漢人官僚の下に首長など
辺外部族の有力者が組織された
領域が広がるにしたがって
新たに
「都護府」・・・「都護府」⇔「都督府」
が設置
これによって
統括されるようになった
「都護府」では
長官である「都護」をはじめ
主要な職員はすべて
漢人あるいは
漢化(帰化・臣従)した異民族が当てられた
これらの
「都護府」はほとんど
太宗・高宗の時代に置かれ
「羈縻(キビ)」政策の元に置かれた
国王・首長は
「都護府」・・・「都護府」
の下の
↓↑ 「都督」・刺史・県令
↓↑ などに任命された・・・
筑紫
「都督府」
に送ってきた・・・「筑紫」の「都督府」は
「日本」の政治機関組織ではない・・・?
「筑紫」は
唐王朝支配下の「都督府⇔都護府」・・・?
↓↑
天智天皇は
669年
河内鯨・・・くじら
らを
遣唐使として派遣
百済の影響下の
耽羅も戦後・・・耽羅=トラ=虎・彪・寅・禽=済州島
耽牟羅(たんむら)、忱弥多礼(とむたれ)
耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記
天武天皇=大海人皇子=羽の生えた虎
羽の付けた虎
唐に使節を送った・・・?
日本にも派遣してきた・・・
670年頃
唐の倭国侵略の風聞
天武期・持統期に
一時的な中断
遣唐使は長らく継続され
唐からの使者も来訪・・・来日要請された律宗の
鑑真=天平勝宝五年十二月十二日
(754年1月9日)
↓↑
684年(天武十三年)
猪使 連 子首
(いつかいのむらじこびと)
筑 紫 三宅 連 得 許
(つくしのみやけのむらじとくこ)
が、遣唐留学生であった
土師 宿 禰甥
(はじのすくねおい)
白 猪 史 宝然
(しらいのふびとほね)
らとともに
新羅経由で帰国・・・ナゼ、新羅経由なのか?
最初の
白村江(663年)の戦い
における捕虜帰還・・・捕虜を奴隷とはせずに
釈放帰還させるとは?
劉仁軌なら理解できるが・・・
則天武后なら、ドウするか?
郭務悰とは何者か?
ーーーーー
天智天皇三年(664)
郭務悰は
白村江の戦い(663)の
戦後処理のため
唐の百済鎮将
劉仁願
の命で来日
天智天皇から
正式の唐使とみとめられず帰国
↓↑
天智天皇四年(665)
郭務悰は
唐使
劉徳高とともに来日
↓↑
天智天皇十年(671)
郭務悰は
百済の難民
二千余人をひきいて来日したが
↓↑
天智天皇十一年(672)
筑紫(つくし)で
天智天皇の死を知らされ帰国
ーー↓↑ーー
郭務悰は・・・郭・務・悰=心+宗(宀示)
・・・心はウを示す
鸕(ウ)野讃良=持統天皇?
朝散大夫
上柱国
↓↑
664年
旧百済領占領軍の
鎮将
劉仁願の命により
百済人
禰軍
らとともに
戦後処理の交渉のため来日
表函と献物を進める
朝廷は
郭務悰を
鎮将の私使と認めて
大宰府で交渉させ
入京を許さなかった
↓↑
665年
劉徳高とともに表函を携えて
再び来日し
入京を許される
↓↑
669年
に来日
↓↑
671年
百済人
沙宅-孫登・・・沙(沙良・沙羅)=宇之沙羅
鸕野讚良(うののさらら・うののささら)
に宅す-孫(まご)の登(登場)
らとともに
総勢2000人で来日
↓↑
672年
天智天皇の死後
甲冑・弓矢
絁・布・綿
を与えられて帰還
↓↑
秋八月
遣達率(ダチソチ)
答㶱春初(トウホンシュンソ)
築城
於長門国。
遣達率
憶礼福留(オクライフクル)
達率
四比福夫(シヒフクブ)
於筑紫国
築大野
及
椽(キ)二城。
耽羅(タムラ=済州島)
遣使來朝。
九月庚午朔壬辰、
唐国遣
朝散大夫
沂州(キシュウ)
司馬
上柱国
劉紱高
等。
(等謂、右戎衞(ユウジュウエイ)郎將
上柱国
百濟禰軍(クダラノネグン)
朝散大夫
柱国
郭務悰、
・・・郭(くるわ)の
務(つとめ)の
悰(忄の宗=立身弁のムネ=ウのす)
悰=たのしむ・ソウ・ズ
enjoy, amuse, please, joy
縁女意・編む施・振れ施・序意?
鳶如意?
宗=教義・教理・信仰の組織団体
宗教・宗門
みたまや・祖先をまつる所
宗廟(ソウビョウ)
おおもと・いえもと・祖先
宗家・宗主
かしら・おさ・中心人物
宗匠・詩宗
中心となる考え・むね
凡
二百五十四人。
七月廿八日
至于
對馬、
九月廿日
至于
筑紫、
廿二日
進
表函(フミヒツ)焉。)
冬十月己亥朔己酉、
大閲
于
菟道(ウジ=京都府宇治市)。・・・宇治・氏・蛆
うじ=得字・鸕字・鵜字・卯字・兎字・烏字
十一月己巳朔辛巳、
饗賜
劉紱高
等。
十二月戊戌朔辛亥、
賜物
於
劉紱高
等。
是月、
劉紱高
等
罷歸。
是歲、
遣小錦守-君-大石
等
於大唐、云々。
(等謂、小山坂合部-連-石積
大乙吉士岐彌(キシノキミ)
吉士針間(キシノハリマ)。
蓋送唐使人乎。)
吉士は新羅の官名・・・新羅の吉士舞いは阿部の管轄
ーーーーー
↓↑
690年(持統四年)
持統天皇
筑後国
上陽竎郡(上妻郡)の住人
大伴部博麻
に対して
「唐の抑留捕虜」とされ
「土師- 連- 富杼
(はじのむらじほど)」
「氷- 連- 老
(ひのむらじおゆ)」
「筑紫- 君-薩 夜麻
(つくしのきみさちやま)」
「弓削- 連- 元 宝
(ゆげのむらじげんぽう)」
の児の四人が
唐で日本襲撃計画を聞き
朝廷に奏上したいが
帰れないことを憂えた
その時あなたは、
富杼らに
『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』
と言った
そのため
筑紫君
薩夜麻
富杼
らは日本へ帰り奏上できたが
あなたは三十年近くも
唐に留まった後にやっと帰ることが出来た
わたし(持統天皇)は、あなたが
朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」
と詔して
表彰し
大伴部博麻の一族に
土地などの褒美を与えた
↓↑
幕末の
文久年間・・・万延の後、元治の前・1861年〜1864年まで
大伴部博麻
を顕彰する碑が
地元(福岡県八女市)に建てられた
↓↑
707年
讃岐国の
錦 部 刀良
(にしこりのとら)
陸奥国の
生王 五百足
(みぶのいおたり)
筑後国の
許勢部 形 見
(こせべのかたみ)
らも帰還
696年に報賞を受けた
物 部 薬
(もののべのくすり)
壬生 諸 石
(みぶのもろし)
の例があえう・・・
↓↑
白村江(663年)敗戦
天智天皇は
防衛網の構築、強化
百済帰化人の協力の下
対馬や
北部九州の
大宰府の水城(みずき)
瀬戸内海沿いの
西日本各地(長門、屋嶋城、岡山)
に
朝鮮式・・・ナゼ、朝鮮式なのか?
・・・土木技術者は半島難民・・・だった
・・・徴用民ではなく亡命、難民
古代山城の防衛砦を築き
北部九州沿岸に
防人(さきもり)配備
667年
都を
難波から
近江京
へ移し
防衛体制を敷いた
↓↑
671年
天智天皇が急死
大友皇子(弘文天皇・伊賀皇子)
・・・母は伊賀采女-宅子娘
(いがのうねめ-やかこのいらつめ)
と
大海人皇子
が皇位で対立
672年
壬申の乱
勝利した
大海人皇子は
天武天皇(生年不詳〜686年)
として即位
↓↑
天武天皇は
専制的な統治体制を備え
遣唐使は廃止
新羅からは新羅使が来朝
倭国からも新羅へ遣新羅使を派遣
その数は天武治世だけで
14回に上る
天武天皇没(686年)後
両国の関係は悪化
↓↑
持統天皇
701年
大宝律令制定
日本と国号
中央集権国家を完成
702年以後
文武天皇によって
遣唐使の再開
粟田真人を派遣
唐との国交回復
↓↑
百済遺民の四散
天智十年(670年)正月
佐平(百済の1等官)
鬼室福信の功により
縁者の
鬼室集斯
が
小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)
↓↑
百済王の一族
豊璋王の弟
善光(禅広)は
百済王(くだらのこにきし)
という姓氏が与えられ、朝廷に仕える
後、陸奥において金鉱を発見し
奈良大仏の建立に貢献した功により
百済王
敬福
は従三位を授けられた
ーーーーー
・・・???・・・
狭井 檳榔(さい の あじまさ)
姓は連
狭井氏(佐為氏)
饒速日命の子孫
↓↑
物部氏が改氏した
石川朝臣と同祖
↓↑
『播磨国風土記』に
仁徳天皇の記事に
狭井 連 佐夜
(さい の むらじ さや)
が掲載
『続日本紀』巻第一に
文武天皇の
700年
刑部親王(忍壁皇子)
以下19人とともに
大宝律令の撰定者
狭井 宿禰 尺麻呂
(さい の すくね さかまろ)
の名が記録
↓↑
大山下(だいせんげ)
狭井 連 檳 榔
(さゐ の むらじ あぢまさ)
小山下(せうせんげ)
秦 造 田来津
(はだ の みやつこ たくつ)
を使(つかは)して
百済を守護(まも)らしむといふ
↓↑
『書紀』
巻第二十七
中大兄皇子は
九月に長津宮から
百済の王子(せしむ)
余豊璋に
冠位十九階の
織冠(おりものこうぶり)を授け
太安安万侶の祖父の
多 臣 蒋 敷
(おお の おみ こもしき)の
同母妹と結婚させている
↓↑
乃(すなは)ち
大山下狭井連檳榔
小山下秦造田来津
を遣(つかは)して
軍(いくさ)
五千余
(いつちぢみあまり)
を率(ゐ)て
本郷(もとつくに)を
衛(まも)り送らしむ
↓↑
(兵5000を率いて
百済の王子
余豊璋(よほうしょう)を
本国に護送した)・・・本郷は誰の「本郷」?
↓↑
この年の12月
高句麗で
唐軍の侵入があったが
逆に2つの城を奪還
↓↑
播磨国
狭夜郡(さよぐん)・・・佐夜
から
祟りの魔剣が朝廷に献上
662年
天智天皇元年3月(大陸の記録では2月)
新羅軍が高句麗に侵入
大和政権軍は
高句麗の要請を受け
援軍派遣
新羅は
唐軍の援助を得られず
攻略は失敗
↓↑
5月
阿曇比羅夫
等は
船師(ふないくさ)
170艘を率いて
豊璋
途中で加わった
鬼室福信
らを百済に送り
豊璋を百済王位につけた
↓↑
同年12月
豊璋と
福信
狭井連(檳榔)
朴市 田来津
(えち の たくつ=秦田来津)
とともに論議
↓↑
「州柔(つぬ、周留城・山岳)〜避城(へさし・平野)」
拠点(都の選定論議)
田来津らは州柔
豊璋らは避城
↓↑
翌月
上毛 野 君 稚子
(かみつけ の きみ わかこ)
巨勢 神 前 臣 訳語
(こせのかむさき の おみ おさ)
阿倍 引 田 臣 比羅夫
(あべのひけた の おみ ひらふ)
の率いる日本からの援軍
2万7千人が到着し
新羅を討った
唐側も増援軍
7千が到着
↓↑
鬼室福信に謀叛の疑い
として
豊璋は福信を処刑
↓↑
白村江の戦い
朴市秦田来津が戦死
檳榔は消息不詳
狭井連氏
天武天皇十三年(684年)
八色の姓制定により
「宿禰」
の姓を得た
ーーーーー
・・・???・・・
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