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2018年12月26日20:07

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2652日目からのツヅキ・・・白村江の戦い・・・

 2652日目からのツヅキ・・・
フォト

 日本書紀に
 白村江の戦いの
 663年〜666年にかけて
 「唐国の使人
  郭務悰
  等
  六百人
  送使
  沙宅・・・百済人の官位
  孫登・・・「孫が登る」・・・天孫の降臨(上陸)?
  等
  千四百人
  総合べて
  二千人が
  船四十七隻に・・・2000÷47=42.55
  乗りて倶に
  比知嶋・・・比(くらべる)知(しる)嶋(しま・山鳥)
  に泊りて相謂りて
  曰わく
  「今吾輩が人船、数衆し。
   忽然に彼に到らば、
   恐るらくは
   彼の防人
   驚きとよみて
   射戦はむといふ。
   乃ち
   道久
   等を遣して、
   預めやうやくに
   来朝る意を披き陳さしむ」
 と、合計2千人の
   唐兵や百済人が上陸・・・進駐軍
 ↓↑
 水軍
 7,000名
 170余隻の水軍・・・7000÷170=41.17
 指揮官は
 劉仁軌
 杜爽
 元
 百済太子の
 扶余隆・・・余(アマ)りの
       隆(さかん・たかい・隆起)を
       扶(たすける・扶助・扶養)
 ↓↑
 唐
 陸軍
 陸軍指揮官は
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)
 ↓↑
 倭国軍
 第一派
 1万余人
 船舶170余隻
 ↓↑・・・舟の大きさの規模は
   10000÷170=58.8235
   およそ、一隻に60人の乗船規模?
   60人乗れる船の大きさは?
   造船技術はダレから・・・
   遣唐使の船は奈良時代の資料に
   約600人を4隻の船で派遣した
   一隻に150人程度乗船
   150人が数日寝泊り出来る船
   約300トンくらいの船・・・
   150÷60=2.5
 ↓↑約120トンくらいの軍船・・・
 ↓↑
 指揮官は
 安曇-比羅夫
 狭井-檳榔・・・檳榔(ビンロウ)=ヤシ科の植物
         噛みタバコに似た使われ方
 朴市-秦造-田来津
 ↓↑
 第二派
 2万7千人。軍主力
 指揮官は
 上毛野-君-稚子
 巨勢-神前臣-譯語・・・通訳
 阿倍比羅夫
 (阿倍-引田-比羅夫)
 ↓↑
 第三派
 1万余人
 指揮官は
 廬原-君臣
 (いおはらのきみおみ)
 (廬原国造の子孫
  静岡県静岡市清水区を本拠)
 ↓↑
 661年5月
 第一派
 倭国軍が出発
 指揮官は
 安曇比羅夫
 狭井檳榔
 朴市秦造田来津
 豊璋王・・・・・豊の璋(王章)の王
 を護送する先遣隊
 船舶170余隻
 兵力1万余人・・・
 ↓↑
 662年3月
 主力部隊
 第二派倭国軍が出発
 指揮官は
 上毛野-君-稚子
 巨勢-神前-臣-譯語(おさだ・ヤクゴ)
 阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)
 ↓↑
 663年(天智二年)
 豊璋王
 は
 鬼室福信
 と対立し
 鬼室福信
 を斬る
 倭国の援軍を得
 百済復興軍は
 百済南部に
 侵入した新羅軍を駆逐
 ↓↑
 唐は
 劉仁軌
 率いる
 水軍7,000名を派遣
 唐・新羅軍は、水陸併進し
 陸上部隊は
 唐の将
 孫仁師
 劉仁願
 新羅王の
 金法敏(文武王)
 が指揮
 ↓↑
 劉仁軌
 杜爽
 及
 元百済太子の
 扶余隆
 が率いる
 170余隻の水軍は
 熊津江に沿って下り
 陸上部隊と会合して
 倭国軍を挟撃
 ↓↑
 倭国・百済連合軍は
 鬼室福信の事件の影響により
 白村江への到着が
 10日遅れ
 唐・新羅軍のいる
 白村江河口に対して突撃、海戦
 倭国軍は
 三軍編成をとり
 4度攻撃した
 火計、干潮の時間差などにより
 663年
 唐・新羅水軍に大敗
 ↓↑
 唐・新羅の軍は
 倭国・百済の軍を破り
 百済復興勢力は崩壊
 ↓↑
 白村江の戦い(663年8月28日)
 天智天皇二年八月二十七日〜八月二十八日
 (ユリウス暦
 663年10月4日〜10月5日)
 に集結し
 1,000隻余りの・・・1,000隻余りの倭船?
       ・・・造船調達⇔残存隋王朝の水軍?
 倭船のうち・・・・倭船?
 400隻余りが炎上・・・
 白村江の戦い=唐王朝vs隋王朝
             の倭国への亡命水軍?
             残存遺族?
 ↓↑
 九州の豪族
 筑紫-君-薩夜麻・・・薩=艹+隆(阝夂生)
           夜=亠+イ+攵+丶
           麻=广+木+木
 土師
 富杼
 氷老
 大伴-部-博麻
 が唐軍に束縛
 8年間
 捕虜として唐に抑留され
 後、釈放帰国・・・
 大敗した
 倭国水軍は
 転戦中の
 倭国軍
 百済遺民
 を船に乗せ
 帰国
 ↓↑
 唐が
 666年から
 高句麗へ侵攻
 3度の攻勢によって
 668年
 高句麗を滅ぼし
 安東都護府・・・安東の都護府は高句麗の領内
 を設置
 百済の
 豊璋王は
 高句麗へ亡命していたが
 捕らえられ幽閉
 ↓↑
 渤海の建国
 698年
 靺鞨
 粟末部は
 高句麗遺民などと共に
 満州南部で
 渤海国を建国
 ↓↑
 唐と対立し
 後に
 唐から冊封を受け臣従
 日本は
 新羅との関係が悪化する中
 渤海からの朝貢を受け
 遣渤海使をおこなう
 渤海とは
 新潟や北陸などの
 日本海側沿岸で交流
 ↓↑
 唐は
 百済・高句麗の故地に
 「羈縻州」を設置
 新羅にも
 「羈縻州」を設置する方針・・・
 新羅は
 旧高句麗の遺臣らを使って
 669年
 唐に対して蜂起させ
 670年
 唐が西域で
 吐蕃と戦っている隙に
 新羅は
 唐の
 熊津都督府を襲撃
 唐の官吏を多数殺害
 他方で
 唐へ使節を送って
 降伏を願い出
 硬軟両用で唐と対峙
 新羅は
 再び唐の冊封を受け
 唐は
 清川江以南の領土を
 新羅に管理させるという形式をとって
 和睦が成立
 唐軍は
 675年
 撤収
 新羅によって半島統一
 ↓↑
 敗戦した
 倭国は
 朝鮮半島の領地・権益を失い
 外交政策・国防体制・政治体制など
 統治の基礎部分を変革
 唐との友好関係樹立
 国家体制の整備・改革
 近江令法令
 飛鳥浄御原令
 の制定
 律令国家の建設
 倭国は
 「日本」と国号を変えた
 ↓↑
 665年
 唐の
 朝散大夫
 沂州
 司馬
 上柱国の
 劉徳高
 が戦後処理の使節として来日
 3ヶ月後に・・・3ヶ月の間、駐留
 劉徳高は帰国
 唐使を送るため
 倭国側は
 守大石らを
 送唐客使(遣唐使)として派遣
 ↓↑
 667年
 唐の
 百済鎮将
 劉仁願
 が
 熊津「都督府」
 (唐が百済占領後に置いた5都督府の一)
 の役人に命じ
 日本側の捕虜を
 筑紫
 「都督府」・・・「都督府」=「唐の占領出先機関」?
 ↓↑      九州博多近辺は唐の領土化
         都督府⇔都護府・・・?
          督 ≠ 護
         監督 ≠守護
         ↓↑
         都護府(トゴフ)=中国の漢、唐王朝の時代に
         辺境警備・周辺諸民族統治などのために
         置かれた
         軍事機関
        「都護府」の長官は「都護」
 ↓↑      ↓↑
         唐王朝は
         安東、安北、単于、北庭、安西、安南
         の
         六都護府を設け
        「羈縻」政策を開始した
        「羈縻(キビ)」政策・・・???・・・
 ↓↑      ↓↑
       唐の羈縻(キビ)州
       初期には辺境の
      「都督府」・・・「都督府」⇔「都護府」
       が管掌し
       漢人官僚の下に首長など
       辺外部族の有力者が組織された
       領域が広がるにしたがって
       新たに
      「都護府」・・・「都護府」⇔「都督府」
       が設置
       これによって
       統括されるようになった
      「都護府」では
       長官である「都護」をはじめ
       主要な職員はすべて
       漢人あるいは
       漢化(帰化・臣従)した異民族が当てられた
       これらの
      「都護府」はほとんど
       太宗・高宗の時代に置かれ
      「羈縻(キビ)」政策の元に置かれた
       国王・首長は
      「都護府」・・・「都護府」
       の下の
 ↓↑   「都督」・刺史・県令
 ↓↑    などに任命された・・・
 筑紫
 「都督府」
 に送ってきた・・・「筑紫」の「都督府」は
          「日本」の政治機関組織ではない・・・?
          「筑紫」は
           唐王朝支配下の「都督府⇔都護府」・・・?
 ↓↑
 天智天皇は
 669年
 河内鯨・・・くじら
 らを
 遣唐使として派遣
 百済の影響下の
 耽羅も戦後・・・耽羅=トラ=虎・彪・寅・禽=済州島
         耽牟羅(たんむら)、忱弥多礼(とむたれ)
         耽牟羅(たむら)、屯羅(とんら)とも表記
         天武天皇=大海人皇子=羽の生えた虎
                    羽の付けた虎
 唐に使節を送った・・・?
 日本にも派遣してきた・・・
 670年頃
 唐の倭国侵略の風聞
 天武期・持統期に
 一時的な中断
 遣唐使は長らく継続され
 唐からの使者も来訪・・・来日要請された律宗の
             鑑真=天平勝宝五年十二月十二日
                (754年1月9日)
 ↓↑
 684年(天武十三年)
  猪使   連  子首
 (いつかいのむらじこびと)
  筑 紫 三宅  連  得 許
 (つくしのみやけのむらじとくこ)
 が、遣唐留学生であった
  土師 宿 禰甥
 (はじのすくねおい)
  白 猪 史  宝然
 (しらいのふびとほね)
 らとともに
 新羅経由で帰国・・・ナゼ、新羅経由なのか?
 最初の
 白村江(663年)の戦い
 における捕虜帰還・・・捕虜を奴隷とはせずに
            釈放帰還させるとは?
            劉仁軌なら理解できるが・・・
            則天武后なら、ドウするか?
            郭務悰とは何者か?
ーーーーー
 天智天皇三年(664)
 郭務悰は
 白村江の戦い(663)の
 戦後処理のため
 唐の百済鎮将
 劉仁願
 の命で来日
 天智天皇から
 正式の唐使とみとめられず帰国
 ↓↑
 天智天皇四年(665)
 郭務悰は
 唐使
 劉徳高とともに来日
 ↓↑
 天智天皇十年(671)
 郭務悰は
 百済の難民
 二千余人をひきいて来日したが
 ↓↑
 天智天皇十一年(672)
 筑紫(つくし)で
 天智天皇の死を知らされ帰国
ーー↓↑ーー
 郭務悰は・・・郭・務・悰=心+宗(宀示)
            ・・・心はウを示す
               鸕(ウ)野讃良=持統天皇?
 朝散大夫
 上柱国
 ↓↑
 664年
 旧百済領占領軍の
 鎮将
 劉仁願の命により
 百済人
 禰軍
 らとともに
 戦後処理の交渉のため来日
 表函と献物を進める
 朝廷は
 郭務悰を
 鎮将の私使と認めて
 大宰府で交渉させ
 入京を許さなかった
 ↓↑
 665年
 劉徳高とともに表函を携えて
 再び来日し
 入京を許される
 ↓↑
 669年
 に来日
 ↓↑
 671年
 百済人
 沙宅-孫登・・・沙(沙良・沙羅)=宇之沙羅
            鸕野讚良(うののさらら・うののささら)
            に宅す-孫(まご)の登(登場)
 らとともに
 総勢2000人で来日
 ↓↑
 672年
 天智天皇の死後
 甲冑・弓矢
 絁・布・綿
 を与えられて帰還
 ↓↑
 秋八月
 遣達率(ダチソチ)
 答㶱春初(トウホンシュンソ)
 築城
 於長門国。
 遣達率
 憶礼福留(オクライフクル)
 達率
 四比福夫(シヒフクブ)
 於筑紫国
 築大野
 及
 椽(キ)二城。
 耽羅(タムラ=済州島)
 遣使來朝。
 九月庚午朔壬辰、
 唐国遣
 朝散大夫
 沂州(キシュウ)
 司馬
 上柱国
 劉紱高
 等。
 (等謂、右戎衞(ユウジュウエイ)郎將
     上柱国
     百濟禰軍(クダラノネグン)
     朝散大夫
     柱国
     郭務悰、
       ・・・郭(くるわ)の
          務(つとめ)の
          悰(忄の宗=立身弁のムネ=ウのす)
          悰=たのしむ・ソウ・ズ
            enjoy, amuse, please, joy
            縁女意・編む施・振れ施・序意?
            鳶如意?
          宗=教義・教理・信仰の組織団体
            宗教・宗門
            みたまや・祖先をまつる所
            宗廟(ソウビョウ)
            おおもと・いえもと・祖先
            宗家・宗主
            かしら・おさ・中心人物
            宗匠・詩宗
            中心となる考え・むね
     凡
     二百五十四人。
     七月廿八日
     至于
     對馬、
     九月廿日
     至于
     筑紫、
     廿二日
     進
     表函(フミヒツ)焉。)
 冬十月己亥朔己酉、
 大閲
 于
 菟道(ウジ=京都府宇治市)。・・・宇治・氏・蛆
          うじ=得字・鸕字・鵜字・卯字・兎字・烏字
 十一月己巳朔辛巳、
 饗賜
 劉紱高
 等。
 十二月戊戌朔辛亥、
 賜物
 於
 劉紱高
 等。
 是月、
 劉紱高
 等
 罷歸。
 是歲、
 遣小錦守-君-大石
 等
 於大唐、云々。
 (等謂、小山坂合部-連-石積
     大乙吉士岐彌(キシノキミ)
       吉士針間(キシノハリマ)。
     蓋送唐使人乎。)
     吉士は新羅の官名・・・新羅の吉士舞いは阿部の管轄
ーーーーー
 ↓↑
 690年(持統四年)
 持統天皇
 筑後国
 上陽竎郡(上妻郡)の住人
 大伴部博麻
 に対して
 「唐の抑留捕虜」とされ
 「土師- 連- 富杼
 (はじのむらじほど)」
 「氷- 連- 老
 (ひのむらじおゆ)」
 「筑紫-  君-薩 夜麻
 (つくしのきみさちやま)」
 「弓削- 連- 元 宝
 (ゆげのむらじげんぽう)」
 の児の四人が
 唐で日本襲撃計画を聞き
 朝廷に奏上したいが
 帰れないことを憂えた
 その時あなたは、
 富杼らに
 『私を奴隷に売りその金で帰朝し奏上してほしい』
 と言った
 そのため
 筑紫君
 薩夜麻
 富杼
 らは日本へ帰り奏上できたが
 あなたは三十年近くも
 唐に留まった後にやっと帰ることが出来た
 わたし(持統天皇)は、あなたが
 朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ」
 と詔して
 表彰し
 大伴部博麻の一族に
 土地などの褒美を与えた
 ↓↑
 幕末の
 文久年間・・・万延の後、元治の前・1861年〜1864年まで
 大伴部博麻
 を顕彰する碑が
 地元(福岡県八女市)に建てられた
 ↓↑
 707年
 讃岐国の
  錦 部  刀良
 (にしこりのとら)
 陸奥国の
  生王 五百足
 (みぶのいおたり)
 筑後国の
  許勢部 形 見
 (こせべのかたみ)
 らも帰還
 696年に報賞を受けた
  物  部 薬
 (もののべのくすり)
  壬生 諸 石
 (みぶのもろし)
 の例があえう・・・
 ↓↑
 白村江(663年)敗戦
 天智天皇は
 防衛網の構築、強化
 百済帰化人の協力の下
 対馬や
 北部九州の
 大宰府の水城(みずき)
 瀬戸内海沿いの
 西日本各地(長門、屋嶋城、岡山)
 に
 朝鮮式・・・ナゼ、朝鮮式なのか?
    ・・・土木技術者は半島難民・・・だった
            ・・・徴用民ではなく亡命、難民
 古代山城の防衛砦を築き
 北部九州沿岸に
 防人(さきもり)配備
 667年
 都を
 難波から
 近江京
 へ移し
 防衛体制を敷いた
 ↓↑
 671年
 天智天皇が急死
 大友皇子(弘文天皇・伊賀皇子)
      ・・・母は伊賀采女-宅子娘
          (いがのうねめ-やかこのいらつめ)
 と
 大海人皇子
 が皇位で対立
 672年
 壬申の乱
 勝利した
 大海人皇子は
 天武天皇(生年不詳〜686年)
 として即位
 ↓↑
 天武天皇は
 専制的な統治体制を備え
 遣唐使は廃止
 新羅からは新羅使が来朝
 倭国からも新羅へ遣新羅使を派遣
 その数は天武治世だけで
 14回に上る
 天武天皇没(686年)後
 両国の関係は悪化
 ↓↑
 持統天皇
 701年
 大宝律令制定
 日本と国号
 中央集権国家を完成
 702年以後
 文武天皇によって
 遣唐使の再開
 粟田真人を派遣
 唐との国交回復
 ↓↑
 百済遺民の四散
 天智十年(670年)正月
 佐平(百済の1等官)
 鬼室福信の功により
 縁者の
 鬼室集斯
 が
 小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)
 ↓↑
 百済王の一族
 豊璋王の弟
 善光(禅広)は
 百済王(くだらのこにきし)
 という姓氏が与えられ、朝廷に仕える
 後、陸奥において金鉱を発見し
 奈良大仏の建立に貢献した功により
 百済王
 敬福
 は従三位を授けられた
ーーーーー
 ・・・???・・・
 狭井 檳榔(さい の あじまさ)
 姓は連
 狭井氏(佐為氏)
 饒速日命の子孫
 ↓↑
 物部氏が改氏した
 石川朝臣と同祖
 ↓↑
 『播磨国風土記』に
 仁徳天皇の記事に
  狭井  連   佐夜
 (さい の むらじ さや)
 が掲載
 『続日本紀』巻第一に
 文武天皇の
 700年
 刑部親王(忍壁皇子)
 以下19人とともに
 大宝律令の撰定者
  狭井  宿禰  尺麻呂
 (さい の すくね さかまろ)
 の名が記録
 ↓↑
 大山下(だいせんげ)
  狭井  連   檳 榔
 (さゐ の むらじ あぢまさ)
 小山下(せうせんげ)
  秦   造    田来津
 (はだ の みやつこ たくつ)
 を使(つかは)して
 百済を守護(まも)らしむといふ
 ↓↑
 『書紀』
 巻第二十七
 中大兄皇子は
 九月に長津宮から
 百済の王子(せしむ)
 余豊璋に
 冠位十九階の
 織冠(おりものこうぶり)を授け
 太安安万侶の祖父の
 多   臣  蒋 敷
(おお の おみ こもしき)の
 同母妹と結婚させている
 ↓↑
 乃(すなは)ち
 大山下狭井連檳榔
 小山下秦造田来津
 を遣(つかは)して
 軍(いくさ)
 五千余
 (いつちぢみあまり)
 を率(ゐ)て
 本郷(もとつくに)を
 衛(まも)り送らしむ
 ↓↑
 (兵5000を率いて
  百済の王子
  余豊璋(よほうしょう)を
  本国に護送した)・・・本郷は誰の「本郷」?
 ↓↑
 この年の12月
 高句麗で
 唐軍の侵入があったが
 逆に2つの城を奪還
 ↓↑
 播磨国
 狭夜郡(さよぐん)・・・佐夜
 から
 祟りの魔剣が朝廷に献上
 662年
 天智天皇元年3月(大陸の記録では2月)
 新羅軍が高句麗に侵入
 大和政権軍は
 高句麗の要請を受け
 援軍派遣
 新羅は
 唐軍の援助を得られず
 攻略は失敗
 ↓↑
 5月
 阿曇比羅夫
 等は
 船師(ふないくさ)
 170艘を率いて
 豊璋
 途中で加わった
 鬼室福信
 らを百済に送り
 豊璋を百済王位につけた
 ↓↑
 同年12月
 豊璋と
 福信
 狭井連(檳榔)
  朴市  田来津
 (えち の たくつ=秦田来津)
 とともに論議
 ↓↑
 「州柔(つぬ、周留城・山岳)〜避城(へさし・平野)」
 拠点(都の選定論議)
 田来津らは州柔
 豊璋らは避城
 ↓↑
 翌月
  上毛  野 君  稚子
 (かみつけ の きみ わかこ)
  巨勢 神 前   臣  訳語
 (こせのかむさき の おみ おさ)
  阿倍 引 田  臣  比羅夫
 (あべのひけた の おみ ひらふ)
 の率いる日本からの援軍
 2万7千人が到着し
 新羅を討った
 唐側も増援軍
 7千が到着
 ↓↑
 鬼室福信に謀叛の疑い
 として
 豊璋は福信を処刑
 ↓↑
 白村江の戦い
 朴市秦田来津が戦死
 檳榔は消息不詳
 狭井連氏
 天武天皇十三年(684年)
 八色の姓制定により
 「宿禰」
 の姓を得た
ーーーーー
 ・・・???・・・
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