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2018年12月20日23:51

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2649日目からのツヅキ・・・趁=走+㐱

 2649日目からのツヅキ・・・
ーーーーー
 『則天武后(武照)』は
 「貞観二年(628)」の
 生まれ年の干支は「戊子(ツチのエのネ)」?
 「戊子」は「ボシ」とも読む
 「古事記」や「日本書紀」の中では
 「ボシ」、「ホシ」、「ボジ」
 の同音異字に掛けられている・・・?
 「星」、「干」、「補詞」、「補史」
 「母子」、「母死」、「母字」、「母事」
 等の「模字」で、
 「母鼠」の誕生と「音図見とりの描写」・・・
 ↓↑
 『則天武后(武照)』
 は憎くっき「王氏」を
 「蟒(ボウ・モウ・うわばみ・おろち)」
 「蕭氏」を
 「梟(キョウ・シャオ・ふくろう・みみずく)」
 としてその記録上の
 「姓の漢字」を換えさせた
 後に
 「武氏」を
 「蝮(フク・まむし)」
 「李氏」を
 「キ(兀+虫=カイ・ケ)=まむし・とかげ・ひばかり」
 と凶悪な「字」をつけた
 「孝謙称徳女帝」が
 「和気清麻呂」を
 「汚麻呂」とした記録がある
 「キタナマロ」とは
 「記他名真賂」か、
 「企多名眞賂」・・・?
 「ヨゴレマロ」・・・
  世後例間ロ、予後例眞賂・・・
  余呉、余語、四語・・・
  等の例を萬慮と・・・
 『則天武后(武照)』は
 殺してしまった
 「王皇后」と「蕭淑妃」の
 亡霊、幽霊に悩まされて
 「竜朔三年(663)」に
 「西内の大明宮」から「蓬莱宮」に引越し
 さらには「長安」から
 「東都・洛陽」に住むようになった・・・
 唐王朝にとって
 「竜朔三年(663)」とは
 「白村江の海戦」での
 大勝利の年である・・・
ーーーーー
 以下、殆んど「by wikipedia.org/wiki/武則天」・・・
 ↓↑
 則天武后・・・「貞観二年(628)」生まれ?
 貞観二年(628年2月17日)〜   神龍元年(705年12月16日)
 ↓↑
 戊子(壬 癸)⇔正財印綬  病⇔乙巳
 甲寅(戊丙甲)⇔劫財正財 帝旺⇔戊子
 乙巳(戊庚丙)⇔  正財 沐浴⇔壬寅
  寅卯=空亡
 ↓↑
 武徳七年一月二十三日〜 神龍元年十一月二十六日
 (624年2月17日)Y ? (705年12月16日)Y
 ↓↑
 甲申(戊壬庚)比肩偏官 絶⇔乙巳
 丙寅(戊丙甲)食神比肩建禄⇔戊子
 甲午(丙 丁)--- 正財 死⇔壬寅
  辰巳=空亡
 ↓↑
 父 武士彠
 母 楊夫人
 少女期の
 媚娘は漆黒の髪
 切れ長で大きな瞳(目)
 雪のような肌
 桃色の唇
 薔薇色の頬
 大きな胸
 見る者を魅了する
 媚笑
 聡明な頭脳
 ↓↑
 出身県である
 文水県を
 武興県と改めた
 ↓↑
 武三思(ブ・サンシ・?〜707年)
 武則天の
 異母兄弟である
 元慶の子(武則天の甥)
 右衛将軍
 武則天が政権掌握後
 夏官尚書に任命
 周朝(武周)が成立すると
 梁王に封ぜられ一千戸を賜る
 天官尚書を拝命
 695年(万歳登封元年)に
 春官尚書に転じ
 国史監修を担当
 698年(聖暦元年)
 検校内史
 699年
 特進
 太子賓客
 ↓↑
 懿安郭皇后=唐の憲宗の皇后
 郭子儀(カク シギ)
 神功元年(697年)
 〜
 建中二年六月十四日(781年7月9日)
 唐朝に仕えた軍人・政治家
 玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた
 客家人
 安史の乱で大功
 異民族の侵入を防いだ
 盛唐〜中唐期を代表する名将
 憲宗(在位805年〜820年)の
 皇后
 「郭」氏は
 子儀の孫
 ↓↑
 華州鄭県(陝西省渭南市華州区)の人
 字は諱に同じ
 諡号は
 忠武
 後晋の
 劉昫の撰した『旧唐書』に
 「子儀 長六尺餘」
 北宋・欧陽脩の撰した『新唐書』に
 「長七尺二寸」
 旧書の「六尺餘」は身長190cm
 父の
 郭敬之は
 綏州・渭州・桂州・寿州・泗州
 の刺史(地方長官)を歴任
  『新唐書』・百官志四下に
 「上州」刺史は「従三品」に当たり
 渭州・寿州などには
 中都督府が置かれ
 中都督は「正三品」であった
 府兵制が崩れる以前に
 都督・刺史の官は
 地方職(外官)としては高官
 「蔭官」(父祖の功によって官職に就くこと)
 ではなく
 武挙(科挙と同じく武官試験)で
 仕官を果た
 (『新唐書』本伝
  「武挙の異等なるを以て左衛長史に補さる」
   徐松 撰/孟二冬 補正『登科記考補正』巻27)
 後、単于副都護、振遠軍使に累進
 玄宗の
 天宝八年(749年)
 木剌山に
 横塞軍
 と
 安北都護府を設置した際
 横塞軍使に命じられた
 李吉甫撰『元和郡県図志』巻4・天徳軍の条
 に
 「天宝八年、張斉丘
  又た西可敦城に横塞軍を置き
  又た中受降城より横塞軍を移して理む」
 呉廷燮撰『唐方鎮年表』巻1に
 天宝九年まで
 節度使の
 張斉丘の配下
 後、
 節度使として赴任した
 安思順
 李林甫
 らに仕え
 天宝十三年(754年)に
 横塞軍の在所の地形が悪く
 耕作に向かず
 人口も少なく
 新たに
 永清柵の北側に築城して
 横塞軍と安北都護府とを移し
 横塞軍は
 「天徳軍」と改称
 子儀はあらためて
 天徳軍使となって
 九原太守を兼ね
 朔方節度右兵馬使に命じられた(新旧書)
 上司・節度使の
 安思順は
 安禄山の従弟(姚汝能撰『安禄山事迹』上巻)
 ↓↑
 天宝十四年十一月
 安禄山の乱
 安思順は
 以前から禄山の叛心を進言し
 死罪は免れたが
 (新書・哥舒翰伝
  「始め、安思順 禄山の必ず反せるを度り
   嘗て帝が為に言はば、坐せざるを得」)
 中央に戻された
 後任として
 右兵馬使であった
 子儀が朔方節度使に昇格し
 衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)
 に任ぜられ
 霊武郡太守を兼務し
 朔方郡の兵馬を率いて
 安禄山討伐に向うよう詔
 ↓↑
 粛宗の時
 安史の乱を平らげて
 国難を救う功
 衛尉卿、
 霊武郡太守、
 朔方節度使、
 関内河東副元帥に任ぜられ
 汾陽王に封ぜられた
 ↓↑
 764年
 安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った
 僕固懐恩が宦官との対立から叛乱
 太原に進攻したのを撃退
 ↓↑
 765年
 吐蕃・ウイグルの叛乱を平定
 徳宗より
 尚父の号を賜り
 大尉・中書令に昇進
ーー↓↑ーー
 907年・・・唐王朝滅亡
 6月2日(天祐四年=開平元年四月十九日)
 朱全忠が
 唐の
 哀帝から
 禅譲を受けて後梁を建国
 五代十国時代が始まる
 ↓↑
 延喜通宝を鋳造
 延喜格が完成
 ↓↑
 干支=丁卯
 中国
  唐=天祐四年
 五代
 後梁=開平元年
 十国
  呉=天祐四年(唐の元号を使用)
 前蜀=天復七年(唐昭宗の元号を使用)
  遼=太祖元年
 中国周辺
 渤海=大諲譔元年
 南詔=安国5年
 日本
 延喜7年
 皇紀1567年
 朝鮮
 新羅=孝恭王10年
 泰封=聖冊3年
 後百済=正開8年
 ↓↑
 朱 全忠
 ↓↑
 王朝 後梁
 在位期間
 907年6月1日〜912年7月18日
 都城 開封
 姓・諱 朱温→朱全忠→朱晃
 諡号  神武元聖孝帝・・・神武-元聖-孝帝
 廟号  太祖
 生年 大中六年十月二十一日
 (852年12月5日)
 没年 乾化二年六月二日
 (912年7月18日)
 父 朱誠
 母 王氏
 陵墓 宣陵
 年号 開平 907年〜911年
    乾化 911年〜915年
 朱 全忠(シュゼンチュウ)
 五代後梁の
 初代皇帝
 廟号は太祖
 諱は初め温
 黄巣の乱の際の功で
 唐朝より
 全忠の名が下賜
 皇帝即位後に
 晃と改めた
ーーーーー
 趁=走+㐱
     㐱=人+彡(たくさん)
   人の髪の毛がびっしりとつまっていること
   前の人にぴったりとついて追うこと
   追う
 ↓↑
  趁=おう・おもむく・ゆきなやむ・チン
    追う・おいかける
    おもむく・ゆきなやむ
    のる・のりこむ
    つけこむ
 ↓↑
 趁・趁着
 …のうちに・…に乗じて
 例
 趁热喝吧=熱いうちに飲みなさい
 趁好天气、我们快收割吧
 =せっかくよい天気だから
 ↓↑
 〜に乗じて
 持っている
 追いかける・追う
 異体字「趁・蹨・趂」
 趁乱・どさくさまぎれに・混乱に乗じて
 「趁著=thàn-tio̍h」=「〜のうちに」
 「…に乗じて・…のうちに・…を借りて」の意
 機会を利用する
 趁=おう・おもむく・ゆきなやむ
   チン
   走+㐱
   異体字「𢌝・趂・𧽃・跈・蹨」
   繁体字「趂」
 ↓↑
 㐱=𠆢+彡
 疹・沴の初文
 㐱=異体字「鬒」
 ↓↑
 㐱=人+彡
   鬒=镸(長)+彡+眞(真)
           眞=ヒ+目+乚+八
     人(𠆢)+彡=㐱
   髪が多い・髪が黒く美しい
   髟=ヒョウ・ヒュウ
   髟+α=髽髯髦髷髴髠
   α+彡=彭羏彩彲簓彫諺
       彦=立+丿+彡=亠+䒑+丿+彡
       彥=文+厂+彡=亠+乂+丿+彡
         文(模様)+厂(崖)+彡(模様)
「文+厂」→「产」で
         はっきり際立った模様
     彦=彥=顔立ちがはっきりした立派な男性?
 ↓↑
   𠘱=几+彡=シン⇔風・・・彡=空気の流れ
   𢒀=𢒁=乃+彡=𠘱
     羽が生えたばかりの鳥が飛ぶさま
 ↓↑
   𡯎=尢+彡=一丿乚彡=ナ(𠂇)乚彡=𡯎
     尤+彡
     尨(尢`彡)の異体字
     異体字「𡯎・狵・庬・𧱓・𧱦・𧳑
     むく・ボウ・モウ
     毛がふさふさとした犬
     雑色の
     大きい・入り乱れる=厖
 ↓↑
 曑・疹・診・駗・珍・胗・䪾・殄
 眕・趁・畛・袗・飻・沴・紾・軫
 抮・珍・殄・胗・昣・畛・袗・眕
 疹・紾・翏・參・聄・軫・趁・診
 跈・勠・摻・憀・慘・廖・滲
 㐱
 ↓↑
 翏(リョウ)
 「羽と㐱シンからなり高く飛ぶなり(説文解字)」
 「鳥の両翼と尾羽の形(字統)」
 㐱=尾羽
   髪飾り
 「羽かざりをつけた人のさま(角川新字源)」+「彡」
 ↓↑
 謬=言+羽+㐱
      㐱=𠆢+彡
        合+痕(あと・艮・傷痕・引掻き痕)
   誤謬(ゴビュウ・logical fallacy)
      ・・・言は
         呉(国)の
         言を
         羽(筆・pen)で
         𠆢(合わせるように)
         彡(引掻いた痕⇔文字痕・記録した痕)
      詭弁=詭辯≠誤謬
      キベン・σοφιστική・sophism
      意図的に欺く「すり替え論述」
      説明の関連性の不十分、
      弁証の欠陥性の
      誤謬とは区別される・・・
      ・・・言は
         危(国)の
         弁(辯)舌、弁(辯)言
 ↓↑
 蓼=艸(くさ)+翏(羽𠆢彡)
   たで・リョウ・リク
  「蓼国リョウコク」
   商=殷の時代から河南省にあった国
   紀元前622年に楚国により滅ぼされた
  「蓼科(たてしな・長野県の地名)」
 ↓↑
 寥=宀+翏(羽𠆢彡)
   さびしい・リョウ
   寂寥(セキリョウ)
   寥寥(リョウリョウ)
   静かなさま・空虚なさま
   うつろ・まばらなさま
 ↓↑
 勠=翏+力・・・羽𠆢彡力
   あわせる・リク・ロク
   ころす=戮(リク)
 ↓↑
 戮=翏+戈・・・羽𠆢彡戈
   リク・ころす・・・殲滅(センメツ)
   戈(ほこ)で殺す
   殺戮(サツリク)
   刑戮(ケイリク)
   戮辱(リクジョク)
   戮力(リクリョク)=勠力
 ↓↑
 眉毛(まゆげ・eyebrow)
 目の上部に弓状に生える毛・眉(まゆ)
 額から落ちる雨水や汗が
 目に入らないようにする機能
 雨水やほこりや小さなゴミが
 目にはいるのを避ける役割
 ↓↑
 眉墨=黛(まゆずみ)
 化粧品の一種
 眉の形を美しく見せるために
 眉を書き足すための化粧品、その化粧法
 アイブロウ
 ↓↑
 平安時代
 上流社会で、眉毛を抜いた上で
 「掃墨」という粉末状の墨で
 眉を描き
 引眉と呼ばれた
 江戸時代
 引眉の風習は既婚女性のものとなった
 引眉は
 明治三年(1870年)
 「お歯黒」とともに禁止令
 ↓↑
 眉唾(まゆつば)=騙されない心がけ
 眉唾物(まゆつばもの)=真偽不明の怪しいもの
 キツネに化かされないために
 眉に唾をつけるとよい
 キツネに化かされるのは
 眉毛の数を読まれるから・・・
 真偽の疑わしいものを
 「眉唾物(まゆつばもの)」
 イソップ
 鴉が大きな肉をくわえて高い木にとまった
 食べようとしたときに
 狐に声をかけられ
 容姿を褒められ
 鴉は肉を食べることを忘れ
 聞き入ってしまい
 狐が
 「きっと素晴らしい声をしているんだろうなあ
  ああ、声を聞いてみたい」
 と言うと、
 鴉は「カー」と高らかに鳴き
 くわえていた肉を落とし
 下にいた狐の口に収まってしまった・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
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