ブティックの店員、保母さんなどのコントは除く、
若手のお姉ちゃんコンビがお互いをこき下ろし合う「掛け合い漫才」について。
『女漫才』には、リアリティが無い。
従って、「男漫才」には永遠に肩を並べられない。
男の餓鬼は、幼少から友達と言い合ったり、大声でけなし合ったり、
それを目に耳にしたりする。
男どもは、酒を飲むようになってから、余計にからかい合ったり、
こき下ろし合ったりする。
社会人になっても、酒を飲もうが飲むまいが、大声でからかい合ったり
こき下ろし合ったりする。また、それを側で見たり聞いたりする。
曰く、
A「こないだ、こいつんち泊まりにいったらさ、
部屋中ゴミの山でさ、朝起きたら天井に頭ぶつけたぜw」
B「やかましいわw こいつの靴下の匂いで部屋の金魚が気絶したわw」
こんなのを男どもは、学生、社会人になっても実際に呑み会で
言い合ってるのである。
それが、いつまでも男が餓鬼な所であり、
「凛々しい、雄々しい」という意味の「男らしい」とは意味が違う、
男の男らしい所である。
このしょうもない男の習性は、女には無い。
その調子のまま、けなし合い、こき下ろし合いというお笑い芸の
「男漫才」、「男同士の掛け合い漫才」は行われる。
居酒屋の奥座敷で、兄ちゃん、おっさんが騒いでる調子そのままだ。
若いお姉さん同士が、日常、大声でけなし合ったり、からかい合ったり、
こき下ろし合ったりなど、お目にかかれないのだ。
だから、『女漫才』は、現実離れした、異世界のものなのだ。
従って、リアリティが無い。
当然、「男漫才」とはかけ離れたものとなる。
漫才師のおねーちゃんが、無理して、掛け合い漫才。
A「あんたんとこのおとーちゃん、前科三犯やもんねー」
B「なにゆーてんねん、あんたんとこのおかーちゃん、
まだ現役でパンパンやんかー」
無理矢理過ぎ。違和感120%。臨場感無さ過ぎ。親近感、真実味皆無。
客の前でお姉さん二人が『このオカチメンコが!』『なによわらじの底!』
『番茶の出がらし!』『ドブさらいの竹箒!』
と言い合っても、永遠に『お芝居』でしかあり得ない。
リアリティの有無だけで優劣を付けたくはないが、
漫才のけなし合い、からかい合い、こき下ろし合いは、
リアリティの存在が肝心である。
あり得ない、とんでもない話で喧嘩しているシチュエーションでも、
そこに真迫性、臨場感、違和感の無い日常性、親近感があれば面白い。
それらのリアリティが無く、お芝居でしかないとなると、
ボルテージが低くなってしまう。
女漫才は、違和感ありまくりなのだ。
それは、男どもの、餓鬼っぽい、しょうもない「からかい合い」に過ぎないが、
そういうリアリティが無い『女漫才』は、リアリティが無いゆえに、
残念ながら、「男漫才」のリアルな雰囲気に永遠に勝てるはずがないのである。
これは、『女漫才』が、低次元のものと言っているのではない。
男の習性の方が低次元過ぎて、しょうもなさ過ぎて、
女には再現出来ないのである。
だが、中には、低次元で、しょうもないものの方が断然、
面白いものもあるのだ。
(2010年10月12日より再掲載)
■“男らしさハラスメント”で病んでいく男たち
(日刊SPA! - 12月19日 09:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=81&from=diary&id=5425093
ログインしてコメントを確認・投稿する