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2018年12月13日23:54

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もじたま日記・2645日目・原則ルール・・・自分には当てはめず・・・

 2645日目
 ・・・報復も「法」にのとって、人間を「拉致拘束」・・・不法侵入で拉致誘拐する「独裁国家」、盗人は束縛しても盗んだモノを元の持ち主に返さない「民主国家」・・・「高地を除いて世界で最も亜寒帯が南下している地域」・・・極東の大陸と半島・・・ウサギの形に見える・・・アメリカは・・・「亜米利加」・・・「メリケン」を漢字で「米利堅」・・・「亜墨利加」・・・中国語は、「亜美利堅(ya mei li jian)」・・・「美利坚合众国」・・・「美利堅合眾國」・・・
 現日本人の「ルーツ」って、少数外来人に混血され、その血統が支配者階級となり、土着の島国日本人は殆どが被支配階級で甘んじてきた・・・
 大陸も、半島も、島国も・・・その支配階級は「血縁・親戚」の近親者だろう・・・種族、民族としての純粋なルーツを探求し、辿って、その知ったところの意味はナンなんだか・・・近親ほど「愛憎の根源」だろう・・・近親が分離すれば、その権力序列は父母・兄弟姉妹・従兄弟・従姉妹・甥姪・そして親子の関係、教育での師弟関係は、そのプロセスで養育-非養育、指導-非指導、命令-被命令、支配-被支配と相対立、反発、そして協力していくのが「能力(知能、知識・技能、技術)・実力(暴力)」の格差に於いて自然であり、その立場の逆転もアタリマエだろう・・・
 問題は協同社会で得た生産物の「公平社会的分配」である・・・これは「社会的公平」であって、「個々人的な平等」ではない・・・
 人間社会、人間家族は組織分担の構成員の協同体、分業体であるから当然である。
 社会協同体の個々人は性別、体力、能力に於いて異なる。それらは、対等、平等ではないが、区別され、今現在、要、不用であっても、そのポジションでの「社会的公平」が「法治」に於いて要求されるのは、いま現代までの克取ってきた人間社会の知恵だろう・・・
 ・・・だから、ドウだって・・・
ーーーーー
 Almost=ɔ'ːlmoust
    =オールモォゥストゥ・・・?
    「オォルモウスト(以下、Almost by Wikipedia)」
     多 留申 素訳        媒 紀理八
 ↓↑
 朝鮮半島
 ↓↑
 櫛目文土器時代 8000 BC〜1500 BC
 無 文土器時代 1500 BC〜300 AD
 伝説 檀君朝鮮
 史前 箕子朝鮮
 ↓↑
 燕
 辰国 衛氏朝鮮
 ↓↑
 漢四郡
 前漢の武帝が
 紀元前108年
 朝鮮半島の中・西北部の
 衛氏朝鮮国最後の国王
 衛右渠(エイユウキョ)
 滅ぼし設置
 楽浪郡
 真番郡
 臨屯郡
 紀元前107年
 玄菟郡設置
 周辺種族
 濊 貊 沃 沮
フォト

 中国王朝は
 313年まで
 朝鮮半島中部・北部を
 郡県により直接支配
 朝鮮半島南部を間接統制
 漢四郡に先立って
 紀元前128年
 蒼海郡を設置
 真番郡と臨屯郡は早く廃され
 玄菟郡は
 朝鮮半島から西に移った
 204年
 新たに帯方郡が設置
 楽浪郡と帯方郡は
 313年まで存続
 高句麗の攻撃
 平壌の存在した楽浪郡
 高句麗の発展は
 玄菟郡への服属抵抗が大きい
 楽浪郡・帯方郡の
 漢人が
 高句麗王権
 百済王権に取り込まれ
 発展に寄与
 楽浪郡と帯方郡の故地に
 5世紀まで
 土着の漢人や
 新移住者の漢人が住み続けた・・・
 ↓↑
 原三国
 辰韓 
 弁韓
 馬韓
 ↓↑
 三国
 伽耶   42〜562
 百済  前18〜660
 高句麗 前37〜668
 新羅  前57〜
 ↓↑
 南北国
 唐熊津・安東都護府
 ↓↑
 統一新羅
 鶏林州都督府 676〜892
 安東都護府  668〜756
 渤海     698〜926
 ↓↑
 後三国
  新羅    〜935
 後百済  892〜936
 後高句麗 901〜918
 遼 女真
 ↓↑
 統一王朝
 高麗   918〜
 金
 元遼陽行省
 (東寧・双城・耽羅)
 ↓↑
 元朝
 高麗   1356〜1392
 李氏朝鮮 1392〜1897
 大韓帝国 1897〜1910
 ↓↑
 近代
 日本統治 1910〜1945
 現代
 連合軍軍政期 1945〜1948
 大韓 民国  1948〜?
 朝鮮民主主義
 人民共和国  1948〜?
ーーーーー
 2001年9月11日
 「アメリカ同時多発テロ事件」
フォト

ーーーーー
 ・・・???・・・
 扶余(夫余)=「余(あま)って、たすける」って?
           天・海人・海女・海部
        「夫の余(あまり・鴉目里)って?
 ↓↑
 高句麗、東濊、沃沮、百済、濊貊
 の言語が含まれる
 夫余が建国以前
 この地には
 濊(ワイ)族が住んでいた
 濊=氵(水)+歳
   カイ・ケ・サイ・セ・ワイ
   甲斐 化 差異 施 倭意・和意・話意
 ↓↑
 松花江上流の
 弱水(奄利大水、現拉林河)を
 渡河南進して
 夫余を建国する以前の
 慶華古城
 「濊城」
 周囲約800m、前漢初期に存在、黒龍江省賓県
 ↓↑
 蒼海郡の設置
 元朔元年(紀元前128年)秋
 匈奴が遼西郡に侵入し
 その太守を殺害
 漁陽郡,雁門郡にも侵入し
 都尉を破り、3千人余りも殺害
 これに対し
 漢は将軍の
 衛青を
 雁門郡から
 将軍の
 李息を
 代郡から派遣し
 千人分の捕虜と首級を得た
 東夷濊(ワイ)の君主の
 南閭(ナンリョ)等
 28万人が漢に降った
 そこに
 蒼海郡を設置
 元朔三年(紀元前126年)春
 蒼海郡を廃止
 ↓↑
 建国神話
 『論衡』(『後漢書』東夷伝、『魏略』)
 「昔、
  北夷に
  橐離国があった。
  国王が
  侍女を妊娠させてしまったので、
  殺そうとした。
  侍女は
  「以前、
   空にあった
   鶏の卵のような霊気が
   私に降りてきて、身ごもりました」
  と言い、王は騙された。
  その後、彼女は男子を生んだ。
  王が命じて
  豚小屋の中に放置させたが、
  豚が息を吹き掛けたので死ななかった。
  次に馬小屋に移させると、
  馬もまた息を吹き掛けた。
  それを王は神の仕業だと考え、
  母に引き取って養わせ、
  東明と名づけた。
  東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、
  凶暴だったため、
  王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、
  再び殺そうとした。
  東明は国を逃れ、南へ走り
  施掩水にやって来て、
  弓で川の水面を撃つと、
  魚や鼈が浮かび上がり、
  乗ることが出来た
  そうして
  東明は夫余の地に至り、
  王となった」
 という記述がある・・・
 ↓↑
 『魏書』や『三国史記』には
 高句麗の始祖
 朱蒙も
 夫余の出身で
 衆を率いて
 夫余から東南に向かって逃れ
 建国したと記録
 『三国史記』や『三国遺事』には
 解夫婁が治めていたが
 のちに太陽神の
 解慕漱が天降ってきたので
 解夫婁は東に退去して
 別の国(東夫余)を建てた・・・
 神話に
 後に偉大な事蹟を残す人物が
 卵から生まれるという
 南方系神話に共通の
 卵生神話
 ↓↑
 夫余(フヨ・正字体は夫餘)
 中国東北部(満州)に
 かつて存在した民族およびその国家
 扶余(扶餘)とも表記
 ↓↑
 漢代
 始建国元年(九年)秋
 王莽が
 新を建国
 異民族に対する蔑視政策
 周辺諸国は離反
 夫余も離反
 ↓↑
 建武年間(25年〜56年)
 東夷諸国が後漢に来朝し
 中国に方物を献上
 建武二十五年(49年)十月
 夫余王が遣使を送って朝貢し
 光武帝はこれを厚くもてなした
 ↓↑
 安帝の永初五年(111年)三月
 夫余王は歩騎7〜8千人を率い
 玄菟郡を
 寇抄し吏民を殺傷し
 間もなく再び帰附した
 ↓↑
 永寧元年(120年)
 夫余王は嫡子
 尉仇台
 を遣わして
 印闕貢献し
 安帝は
 尉仇台に
 印綬金綵を賜った
 ↓↑
 永寧二年(121年)
 高句麗が1万の兵を率いて
 漢の玄菟城を囲むと
 夫余王は嫡子の
 尉仇台に
 2万の兵を率いさせて
 援軍に遣り
 高句麗軍を壊滅させた
 翌122年(延光元年)
 高句麗が
 馬韓、濊貊
 と共に遼東へ侵攻したので
 兵を派遣して打ち破り救った
 ↓↑
 順帝の
 永和元年(136年)
 夫余王は
 京師(洛陽)に来朝
 ↓↑
 桓帝の
 延熹四年(161年)
 夫余の遣使が朝賀貢献
 ↓↑
 永康元年(167年)
 夫余王の
 夫台は
 2万余人を率いて
 玄菟郡を侵略したが
 玄菟太守の
 公孫琙によって撃破され
 千余名が斬首された
 ↓↑
 霊帝の
 熹平三年(174年)
 夫余は再び
 冊封国として貢ぎ物を献じた
 ↓↑
 夫余は
 玄菟郡に属していたが
 献帝(在位189年〜220年)の時代に
 夫余王の
 尉仇台が
 遼東郡に属したいと申し出、遼東郡に属した
 玄菟郡、遼東郡は
 公孫氏の支配下で
 東夷諸国は公孫氏に附属
 高句麗
 と
 鮮卑
 が強盛だったので
 公孫度は
 その二虜の間に在る
 夫余と同盟を組み
 公孫氏の
 宗女(公孫度の娘とも妹とも)
 をもって
 尉仇台の妃とした
 ↓↑
 魏の
 黄初元年(220年)
 夫余が魏に朝貢した際
 その君主は
 「夫余単于」と呼ばれた
 ↓↑
 尉仇台が死ぬと
 簡位居が立った
 簡位居には適子がいなかったが
 孽子の
 麻余という者がいた
 位居が死ぬと
 諸加(諸大臣)は
 麻余を立てた
 牛加(ギュウカ:官名)の兄の子である
 位居は大使(タイシ:官名)となり
 善政をし
 国人はこれに附き
 年々中国に遣使を送って朝貢
 ↓↑
 正始年間(240年〜249年)
 幽州刺史の
 毌丘倹は高句麗を討伐し
 玄菟太守の
 王頎を
 夫余に遣わした
 大使の
 位居は
 大加(タイカ:官名)を遣わし
 王頎らを郊外で出迎えさせ
 軍糧を供えた
 季父(おじ)の
 牛加に二心があったため
 位居は
 季父父子を殺して
 財産を没収して帳簿に記録
 使者を派遣してその帳簿を官に送った
 麻余が死ぬと
 6歳である子の
 依慮が立って王になった
 夫余王の王印には
 「濊王之印」と刻まれており
 国内には
 「濊城という名の故城」がある
 ↓↑
 西晋時代
 武帝(在位265年〜290年)の時代
 夫余国は頻繁に西晋へ朝貢
 ↓↑
 太康六年(285年)
 鮮卑
 慕容部の
 慕容廆に襲撃され
 王の
 依慮が自殺
 子弟は
 沃沮に亡命
 武帝は
 夫余を救援する詔を出したが
 護東夷校尉の
 鮮于嬰が従わなかったため
 彼を罷免して
 何龕をこれに代えた
 明年(286年)
 夫余後王の
 依羅が遣使を送って
 何龕に救援を求め
 何龕は
 督郵の
 賈沈を遣わして兵を送り
 遼寧省開原市に
 夫余国を再建させた
 賈沈は
 慕容廆と戦い、これを大敗させ
 夫余の地から
 慕容部を追い出し
 依羅を復国
 その後も
 慕容廆は夫余に侵入し
 その民衆を捕まえて
 中国に売りさばいた
 武帝は
 夫余人奴隷を買い戻させ
 司州,冀州では
 夫余人奴隷の売買を禁止させた
 ↓↑
 東晋時代
 夫余は
 鹿山に住んでいたが
 百済の侵入に遭って部落が衰え
 西の
 前燕の近くに移住
 東晋の
 永和二年(346年)正月
 前燕の
 慕容皝は嫡男の
 慕容儁と
 慕容恪ら7千騎に
 夫余を襲撃させた
 夫余王の
 玄王
 と部落5万人余りが捕虜として連行されたが
 夫余王の
 玄王は
 鎮軍将軍を拝命し
 慕容皝の娘を娶る
 ↓↑
 滅亡
 夫余国は北魏の時代まで存在
 太和十八年(494年)
 勿吉に滅ぼされた
 ↓↑
 夫余族の
 苗裔(北夫余)は
 豆莫婁国
 と称して唐代まで続いた
 ↓↑
 地理
 夫余は長城の北にあり
 玄菟から千余里はなれている
 南は高句麗
 東は挹婁
 西は鮮卑
 と接し
 北には弱水
 国の広さは2千里四方
 戸数は8万戸、定住生活
 城郭や宮室、倉庫、牢獄があり
 山や丘や広い沢が多く
 東夷地域では
 最も広い平坦な所である(トンペイ平原)
 土地は五穀を育てるのに適しているが
 五果はできない
 ↓↑
 夫余
 吉林省
 第二松花江流域を中心とし
 西団山文化に続く
 泡子沿類型に相当・・・
 泡子沿類型に先行する
 西団山文化の範囲は
 吉林省
 吉林、長春、四平の各地区
 遼寧省
 撫順地区
 境界としては
 北は拉林河
 東は咸虎嶺
 南は揮発河
 西は遼河
 で囲まれる範囲
 ↓↑
 習俗
 衣食住
 白の衣服を尊重
 白布の大きな
 袂の袍や袴を着て
 革鞜を履く
 国外に出るときは
 絹織物、繍、錦織、毛織物
 などを身につけ
 金銀で飾る
 大人は
 その上に
 狐、狸、狖(黒猿)、白貂、黒貂
 などの皮をまとい
 金銀で帽子を飾っている
 ↓↑
 食飲は
 俎豆(ソトウ:食器、作法)を用
 宴会で酒杯を受けたり酒杯を返すときも
 立ち居振舞いは謙虚
 ↓↑
 殷歴の正月
 天を祭り、国中で大会を開き
 連日飲食して歌舞
 この祭を
 「迎鼓」という
 この時には刑罰を行なわず、囚人を解放
 ↓↑
 政治体制
 国には統一的な君王がいる
 古い夫余の風俗において
 天候が不順で
 五穀の生育が順調でない時には
 その責任を王のせいにし
 王を替えるべきだと言い
 は王を殺すべきだとした
 ↓↑
 官職の名称はすべて
 六畜の名でよんで
 馬加
 牛加
 豬加
 狗加
 の諸加があり
 それぞれ
 四出道を守り
 勢力の大きな者は数千家
 勢力の小さな者は数百家を支配
 ↓↑
 諸加の下には
 大使,大使者,使者
 の諸使
 邑落には
 豪民と呼ばれる
 奴隷を持った豪農
 下戸と呼ばれる
 隷属農民や
 奴僕と呼ばれる奴隷がいる
 ↓↑
 夫余の生業
 主に農業
 遺跡では早い時代の層から
 大量の鉄製農具
 農業技術や器具は
 同時代の東夷の中で最も発達
 金銀を豊富に産出する土地で
 金属を糸状に加工して飾り付けるなど
 金銀の加工に関して高い水準だった
 紡績に関しても
 養蚕が営まれ
 絹や繍・綵など様々な種類の絹織物が作られ
 麻織物や毛織物が作られ
 東夷の中で最も発達していた・・・
 牲の牛を多く養い
 名馬と
 赤玉,貂,狖,美珠
 を産出し
 珠の大きなものは
 酸棗(やまなつめ)ほどもある
 『魏略』には
 国は賑わい富んでいるとある
 ↓↑
 武器
 弓矢,刀,矛を兵器
 家々には自分たちの
 鎧や刀剣類を所蔵
 刑罰
 人を殺せば死刑
 家族は奴婢にされる
 盗みは盗んだ物の12倍を償わせる
 男女が私通したり
 婦人が妬んだりすれば
 すべて死刑
 妬みによる罪をもっとも憎んでおり
 その罪により死刑にされると
 死骸は国の南の山上にさらされ
 腐爛するまで放置される
 死骸が腐爛したのち
 その婦人の家人がその
 死骸を引き取りたいと望んで
 牛馬を連れていけば、死骸を与える
 ↓↑
 婚姻
 兄が死んだ場合
 兄嫁を弟が妻とする
 匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である
 ↓↑
 葬祭
 有力者が死ぬと
 夏期であればみな氷を用い
 人を殺して殉葬
 多い時には殉葬者が数百人に達する
 死者を厚葬し
 遺体を納める棺(ひつぎ)があるが
 槨(かく)はない
 槨=墓室内部の棺を保護するもの
  木槨・石槨・粘土槨
  礫槨(れきかく)・木炭槨など
  古墳の埋葬施設
  遺骸を納める棺が
  直接土に触れぬように
  棺の周りを囲む木の外箱
  中国では棺と槨が共存
 ↓↑
 喪
 停すること5月、久しきを以って栄
 その亡くなった者を祭るのに
 「生」と「熟」がある
 喪主は速やかなるを欲せず
 他人がこれを強制し
 常に諍引してこれを節とする
 男女は皆純白の喪服を着用
 婦人は布面衣(布製のベール)を着用
 環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす
 大体中国と類似
 ↓↑
 風俗
 体格が非常に大きく
 性格は勇敢で、謹み深く親切で
 あまり他国へは侵略しない・・・?ドウ言う意味?
 ↓↑
 通訳が言葉を伝える時
 みな跪いて両手を地につけ
 小声で話をする
 ↓↑
 戦争を始めるとき
 天を祭り
 牛を殺して
 その蹄を見て開戦の吉凶を占う
 蹄が開いていれば「凶」
 蹄が合わさっていれば「吉」
 戦争になれば
 諸加はすすんで戦う
 下戸は食糧を担いで諸加に従い
 諸加は下戸の荷う食糧を飲食する
 ↓↑
 夫余語
 夫余の言語は高句麗と同じ
 沃沮と濊もほぼ同じ
 東の挹婁は独特の言語を使用
 夫余の言語と異なる
 ↓↑
 歴代君主
 夫余王国
 夫台(安帝の時代〜桓帝の時代)
 尉仇台(献帝の時代)…夫台の子
 簡位居…尉仇台の次
 麻余…簡位居の次
 依慮(曹芳の時代 - 285年)…麻余の次
 夫余後王国
 依羅王(285年 - ?)…依慮の次
 玄王 (? - 346年)
 蔚王
 孱王
 日本との関係
 扶余系騎馬民族
 南朝鮮を支配し
 その後
 弁韓から日本列島に入り
 大和朝廷の前身になった
 仮説を江上波夫が提唱
ーー
 次頁に続く・・・
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