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2018年12月11日01:25

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もじたま日記・2643日目・カラスの言語・・・「Nevermore」・・・?

 2643日目
 ・・・大鴉(おおがらす・ダイア・The Raven・レイブン・渡りガラス・Big Crow・rook(ルク・ルック)・jackdaw(ジャックドー・コクマルガラス・塔などに巣を作る・おしゃべりな人・鳴き声がやかましい・盗癖で知られる)・・・「八咫烏」の鳴き声・・・「バブル(nozzle-bubble・調節器・バルブ(弁))・トランスミッション(transmission・ギアボックス(gear box)・駆動伝達器・動力伝達装置)」・・・「国産ロケット」・・・
 カラスの言語・・・「Nevermore」・・・???・・・「Never mind」じゃぁないのか?・・・「俺にとってたいしたことじゃない、気にするな、大丈夫だ」・・・「Never mind about it.」・・・「Don't worry.」・・・
 「お前はドウなんだか (Are you ok? Are you all right?)」・・・「Never you mind.」、「Don't mind me.」・・・
 「Never give up.」、「Don't give up.」・・・
 「It doesn't matter.」・・・「Nevermind」ってナニが?・・・
 「It's no nevermind of yours.」・・・余計なお世話だッ!・・・
 「It's none of your business=No thank you!
               =Leave me alone」・・・
 ドッチなんだか・・・???・・・
 親切は有難迷惑なんだろう・・・小さな親切、大きな迷惑・・・
 臭い、汚(きたな)い、ばっちい、濊・・・
 濊・貊(ワイハク・カイハク)
 中国の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省から
 北朝鮮にかけ
 北西から南東に伸びる帯状の地域に存在した古代の種族
 濊と貊の2種族(周代以降の記録に濊・貊)・・・漢代に濊貊と記録
 夫余・高句麗(高麗)・百済の出自・・・病死者が出ると、旧い家屋を棄て新居を造り直す・・・
 沃沮(ヨクソ)
 文化や習俗は
 モンゴル系の
 東胡、ツングース系の粛慎
 朝鮮半島南部の
 韓族の何れとも異なる・・・
 寛政十一年頃(1799年)に描いた版画「長崎屋」・・・十一年?
フォト

 ・・・乞食のような「葛飾北斎(ホクサイ)」に絵を注文し、画料をネギった「シーボルト」・・・怒った「北斎」・・・150両の半分75両・・・「シーボルト」は謝罪・・・百五拾両を支払う・・・
 文政十一(1828)年・・・十一年?
 「シーボルト事件」は隠匿された
 「日本地図
 (伊能 忠敬・
  延享二年一月十一日(1745年2月11日)
        十一・・・・・・・11・壱壱・壱拾壱・壹拾位地?
  〜
  文化十五年四月十三日(1818年5月17日)
    壱拾五・肆・壱拾参・壱八壱八・壱千八百壱拾八
                伍・壱拾七・壱拾漆?
  通称は三郎右衛門、勘解由
  字は子斉・・・ナゼ、「子斉」なのか?
  号は東河
  寛政十二年(1800年)
  〜
  文化十三年(1816年)まで
  足かけ
  十七年かけ
  日本全国を測量し
  『大日本沿海輿地全図』
  として完成させたモノ)」
 とともに
 「北斎(ホクサイ)の絵」も
     ・・・「北斎≠子斉≠子斎」
            子=鼠=北・・・北海道・蝦夷
 北海道(蝦夷)測量・・・
 「寛政十二年(1800年)
  日本史上初めて
  日本の詳細な地形の計測をした伊能忠敬は
  箱館を出発点として東海岸から根室まで蝦夷地の実測」
 「伊能忠敬の地図
  間宮林蔵が北海道全域測量か?
  伊能が1800年に北海道南岸を
  測量してつくった地図のデータと
  約20年後に完成した全国地図の画像を比べた。
  2つの地図を重ね合わせると、
  南部の海岸線は最大数キロ程度ずれていた
 (日経・共同・2014/8/18付)」
 「間宮林蔵・・・
  間宮海峡発見
  伊能忠敬から測量技術を教授され
  享和三年(1803年)
  西蝦夷地(日本海岸・オホーツク海岸)を測量
  ウルップ島までの地図を作製
 ↓↑
  文化四年四月二十五日(1807年6月1日)
  択捉場所
 (寛政十二年(1800年)
  クナシリ場所から分立・択捉島)
 の紗那会所元に勤務していた際
 ニコライ・レザノフ(ロシア人)が
 復讐のため部下の
 ニコライ・フヴォストフ(ロシア人)たちに
 同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた
 ↓↑
  文政十一年(1828年)・・・十一年
  勘定奉行・村垣定行の部下
  幕府の隠密として全国各地を調査
  石州浜田藩の密貿易の実態を掴み
  大坂町奉行
  矢部定謙に報告し検挙に至らせる
 (竹島事件)」・・・・竹島事件
フォト

 北斎の絵と伊能忠敬の日本地図は
 日本を去って
 オランダに渡った・・・
ーーーーー
フォト

 北斉=ホクセイ=北齊
    ・・・ホクサイ・・・北+斉(齊)???
 (550年〜577年)
 中国の南北朝時代
 高氏によって建国・・・「日本では
 ↓↑          高氏=高麗(高句麗)系渡来人
 ↓↑          が出身国の一字をとって
             高氏を名乗った
             後、
             高階氏が高氏と称する」
            「足利氏の根本被官、代々足利家の執事」
            「高氏一族=足利直義と対立した
             ↓↑   高師直の一族」
 ↓↑          ↓↑
       「吉良義央(吉良上野介)は
        赤穂事件の
        高家旗本(高家肝煎=こうけきもいり
                  江戸幕府における
                  有職故実や礼儀作法
                  儀式や典礼を司る役職)」
         ↓↑
        寛永十八年九月二日(1641年10月5日)
        辛巳(戊 庚 丙)正官 食神 病
        丁酉(庚  辛)傷官 正官 胎
        甲戌(辛 丁 戊)   偏財 養
         申酉=空亡
        〜
        元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)
        壬午(丙 己 丁)偏印
        癸丑(癸 辛 己)印綬 三合金(辛)
        辛卯(甲  乙)正財  合火(丁)
         ↓↑
        三郎(幼名)→義央
        別名は左近
 ↓↑     号は卜一
 国号は単に「斉(齊)」
 春秋戦国時代の斉(齊)
 南朝の斉(齊)
 などと区別するために
 北斉・高斉と呼ぶ・・・斉=齊・⇔・齋=斎・・・差異
 ↓↑
 550年〜559年 文宣帝・武定八年/天保元年)
            高洋は北斉を建国
 559年〜560年 廃帝
 560年〜561年 孝昭帝
 561年〜565年 武成帝
 565年〜576年 後主
 576年〜576年 安徳王
 577年〜577年 幼主
 ↓↑
 北斉の皇帝
 高澄 東魏の斉王(549年)
    文宣帝により
    世宗 文襄帝と追尊
 高洋 東魏の斉王(549年〜550年)
 高歓 文宣帝により
 ↓↑ 太祖 献武帝
    後主の代で
    高祖 神武帝と追尊
        ・・・「神武帝」?
       北斉の高祖神武帝 - 高歓への追号
       北漢の世祖神武帝(劉崇、在位951年〜954年)
       西夏の太祖神武帝 - 李継遷への追号
       ベトナム李朝太祖
            神武帝 - 李公蘊への追号
       新羅の第45代王
            神武王(しんぶおう・?〜839年)
            姓は金
            諱は祐徴
           「閔哀王」を殺害し王位に就く
       張保皐(チョウホコ)
       統一新羅時期
       新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた
       張宝高とも記される
       朝鮮語でもどちらも「チャン ボゴ」と読む
       張保皐は漢名
       本名は弓福(弓巴)
       清海鎮大使から感義軍使を経て
       鎮海将軍・・・任務は奴隷貿易禁圧
           ・・・尾張の由来は?
           ・・・張政?張保皐?
       全羅南道莞島に根拠地
       新羅南部の群小海上勢力を傘下
       唐・日本と手広く交易活動
       中国沿海諸港に居住する
       イスラーム商人とも交易
       836年
       興徳王が死去
       新羅の都・金城(慶州)で
       王族間の後継争いに敗れた
       金祐徴(神武王)が
       張保皐のもとに身を寄せ
       張保皐は金祐徴を支援
       友軍の
       鄭年に・・・・・鄭の年(歳)
       5千の兵を与えて
       閔哀王を討ち
       金祐徴を
      「神武王」として即位させた
        836年
        干支 丙辰
        日本 承和三年
        皇紀 1496年
        中国
        唐  開成元年
        5月 - 遣唐使、難波より出発
        7月 - 遣唐使遭難して肥前・対馬に漂着
 ↓↑
 北斉の皇帝
 顕祖
 文宣帝(高洋、在位550年〜559年)
 廃 帝(高殷、在位559年〜560年)
 粛宗
 孝昭帝(高演、在位560年〜561年)
 世祖
 武成帝(高湛、在位561年〜565年)
 後 主(高緯、在位565年〜576年)
 安徳王(高延宗、在位576年)
     北周の侵攻の中で奮戦し
     後主が逃亡後の混乱の中で
     皇帝に即位するが
     北周に敗北して囚われた
     通例では
     皇帝の代数には加えられていない
 幼 主(高恒、在位577年)
 高 儼 後主により
     楚恭
     哀帝と追尊
ーー↓↑ーー
 斉=そろう・そろえる・斉唱・一斉
   ととのう・ととのえる・均斉
   ひとしい・斉一
   おさめる・斉家
   おごそか・つつしむ・斉聖
   中国の王朝名
   ものいみ・ものいみする・サイ
ーー↓↑ーー
 「斉=齊」⇔「斎=齋」
    二 ⇔ 示
    セイ⇔サイ
 ↓↑
 「斉」新字体=「齊」旧字体
 「一斉(イッセイ)・斉明(サイメイ)天皇」
 ↓↑
 「斎」新字体=「齋」旧字体
 「書斎(ショサイ)・斎戒(サイカイ)沐浴(モクヨク)」
 ↓↑
 「齋藤=サイトウ=斎藤」
 ↓↑
 齋=亠+刀+丫+𠂎+丿+亅+示(二+亅+八)
      齋⇔齊
   丫(ア)⇔了(リョウ)
      (𠂎=ノレ乀(ノ⊥乁)
       卯=斤(斧・鉞)で
         半分に卩(たたき)割る
 ↓↑
 齋=亠+刀+丫+𠂎(卬=ノレ乀)+丿+亅+示(二+亅+八)
 ↓↑
 斎=齐+示
  =文+丿+亅+二+亅+八
  =亠+乂+丿亅+二+亅+八
    乂=かる・おさめる・ガイ・ゲ
    乄=しめす・〆る
   いむ・いつく・いわう・つつしむ・とき・サイ
   斎場
   異体字「齋・㪰・䄢・䬩・夈・斋・𠆈
       𠫱・𠮘・𥚪・𥜷・𩛚・𩝦
       𩱥・𩱳・𪗑・𪗒・𪗓」
 斎・・・斎=齋=齊=斉・・・?
        心身を清めること
        ものいみ・つつしむ・いつく・とき
        サイ
    「斎女(いつきめ)・心身を清めて神に仕える女」
    「斎王(いつきのみこ)
        伊勢神宮や賀茂神社に仕えた
        未婚の内親王(皇族女子)、また女王」
    「斎宮(いつきのみや)
        伊勢神宮に奉仕した斎王の住まい」
    「いつき(斎)・いわう(祝う)」
ーー↓↑ーー↓↑ーー
フォト

 葛飾北斎(ホクサイ)
    ・・・普段は汚れたキッたない格好で過ごし
    部屋も乱雑でモノが散らかれば引越しを繰り返し
    外を歩けばコジキのような格好・・・
    きたない(汚い・穢い)
    よごれていて、触れたくない気持ちを起こさせ
    不潔で、不快な感じを与えるさま・乱雑
    汚(きたな)かった・・・濊・穢・けがれる・・・
    汚(きたな)くなる
    汚(きたな)い
    汚(きたな)ければ
 ↓↑
 姓は川村氏
 幼名は時太郎(ときたろう)
 鉄蔵(てつぞう)
 春朗・宗理等三十余の別号
 通称は中島八右衛門
 明和元年(1764年)
 幕府御用達
 鏡磨師であった
 中島伊勢の養子
 のち、実子に家督を譲り、家を出る
 後
 貸本屋の丁稚
 木版彫刻師の従弟(とてい)
 貸本の絵に関心を持ち、画道を志す
 安永七年(1778年)
 浮世絵師・勝川春章の門下
 狩野派や唐絵、西洋画などの
 画法を学び
 名所絵(浮世絵風景画)
 役者絵を多く手がけた
 黄表紙の挿絵なども描いた
 用いていた号は
 「春朗(しゅんろう)」
 師・春章とその別号である
 旭朗井(きょくろうせい)から
 1字ずつもらい受けたもの
 ↓↑
 文化二年(1805年)
 「葛飾北斎」の号を用いる
 「北斎」
 当初名乗っていた
 「北斎辰政」の略称・・・北の斎の辰の政
 これは
 北極星、北斗七星を神格化した
 日蓮宗系の
 北辰妙見菩薩信仰にちなむ・・・
 ↓↑
 「葛飾北斎」を名乗っていたのは
 戯作者の
 曲亭馬琴・・・曲亭の馬の琴・・・?
 ↓↑  曲亭馬琴
     明和4年6月9日(1767年7月4日)
     〜
     嘉永元年11月6日(1848年12月1日)
     読本作者・・・『南総里見八犬伝』の著者
     本名は
     滝沢興邦(たきざわ おきくに・瀧澤興邦)
     後に解(とく)と改める
 ↓↑  号は著作堂主人・飯台陳人
 ↓↑    玄同陳人・大栄山人
 ↓↑    信天翁
 ↓↑    蓑笠漁隠(さりつぎよいん)
 とコンビを組んだ一時期・・・?
 その間に
 『新編水滸画伝』
 『近世怪談霜夜之星』
 『椿説弓張月』
 などの作品を発表し
 馬琴とともにその名を一躍不動のものとした
 挿絵の評価を格段に引き上げた人物と言われている
 北斎は一時期
 馬琴宅に居候(いそうろう)・・・
 ↓↑
 次ページに続く・・・

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