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2018年12月08日00:08

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2642日目からのツヅキ・・・重複・・・

 2642日目からのツヅキ・・・
ーーーーー
 呂氏春秋
 中国の戦国時代末期
 秦の呂不韋が食客を集めて
 共同編纂させた書物
 呂覧(リョラン)とも
 秦の始皇八年(紀元前239年)に完成
 天文暦学、音楽理論、農学理論
 など自然科学的な論説が多く
 自然科学史において重要な書物
 ↓↑
 呂不韋
 賓客を延き集め
 各々聞く所によりて
 「月令」を選し
 円道を明らかにし、人事を証す
 天地・陰陽・四時・日月・星辰・五行・礼儀
 の類を載せ
 名づけて
 「春秋」という
 ↓↑
 呂不韋=韓の大商人、「呂不韋(りょふい)」
 ↓↑
 大韓帝国(テハンジェグク)
 1897年〜1910年まで
 李氏朝鮮の使用国号
 ↓↑
 周王室
 武王より三十七世八六七年に滅亡
 (前256)
 ↓↑
 秦
 昭襄王死後
 子楚の父
 孝文王が即位
 子楚が太子となった
 趙国は
 子楚の妻子を
 鄭重に送りとどけてきた
 孝文王は一年にして死去し
 子楚=荘襄王が位につく(前250)
 呂不韋を丞相(宰相)に任じ
 文信候に封じ
 洛陽の十万戸をあたえた
 前249年
 魯が
 楚にほろぼされた
 魯
 周公より三十四代、八五〇年
 ↓↑
 荘襄王
 在位三年にして死去(前247)
 十三歳
 太子の
 政=秦王が即位
 政治は母の
 太后(荘襄王の后)
 と
 呂不韋
 が執政
 呂不韋は相国(宰相)
 仲父(チュウホ=父親に準ずる待遇)とよんだ
 太后は
 むかしの
 呂不韋の愛人
 呂不韋の執政時代
 韓、魏、趙は領土の一角を奪い
 秦の領土の東端は
 斉国と接した
 各地から食客を招き三千人
 食客たちに、それぞれ見聞を述べさせ
 それを編集して
 二十余万字にのぼる
 書物
 『呂氏(リョシ)春秋』と名づけた
 (前239)
 咸陽(カンヨウ)の
 市場の門前に展示し
 賞金をかけて内容を批判させた
 「一字でも増減できる者があれば
  千金をあたえよう」と
 これが
 「一字千金」の由来
 呂不韋と太后の関係が噂になり
 別の男を太后に推挙し太后の気をひかせ
 男に宮刑をほどこしたことにし
 宦官に仕立て太后の側近に侍ら寵愛させ
 二人の子を出産
 太后は離宮にかくれ
 仕事はその男によって決裁させ
 長信侯の位をたまわり
 下僕は数千人
 食客も千余人におよんだ
 政が即位して
 九年(前239)
 二十二歳
 成人の冠礼をおこなった
 これをおそれた
 長信侯が
 反乱をおこして
 王宮を攻めて占拠をくわだてたが
 密告され
 王は
 兵を発し一党をほろぼし
 長信侯らは
 車裂(シャレツ)の刑にした
 太后の
 不義の
 二子も殺された
 事件に呂不韋も関係したが
 王は
 呂不韋
 が先王につくした大功をおもんばかり
 不問に付した
 翌年に
 呂不韋の職(相国)を免じ
 都から追放し
 洛陽の領地においたが
 呂不韋は声望があり
 洛陽におもむく賓客は多かった
 秦王政は謀叛をおそれ
 蜀にうつることを命じた
 呂不韋は毒をあおって自殺
 ↓↑
 秦
 燕に侵攻
 ↓↑
 燕の太子の
 丹は
 かつて趙に人質となっており
 趙でうまれた
 秦王政とも、仲がよかった
 政が即位し
 丹は秦へ人質となったが
 秦王の待遇はつめたく
 丹はうらんで逃げかえった
 秦の将軍の
 樊於期(ハンオキ)が
 罪をえて
 燕に逃げ
 丹は、これを館舎にむかえ厚遇した
 秦王の怒りを恐れ
 群臣がいさめたが、太子は聞かなかった
 更に
 太子は勇士をもとめて
 荊軻(ケイカ)という男をえ
 上卿(上席の大臣)とした
 丹は
 荊軻に
 秦王政の暗殺、刺し殺すことを要請
 ↓↑
 荊軻は
 衛の人で
 読書と撃剣をこのみ
 感情的性格の男で
 燕にうつってからは
 町の酒飲みたちと交遊し
 遊歴した土地で
 賢人や豪傑や長者と親交した
 ↓↑
 荊軻は
 樊於期(ハンオキ)の首と
 燕の
 督亢(とくこう)の
 地図を持参したい、と願った
 督亢は
 燕の要地にして
 秦がもっともほしがっている場
 樊の首、
 太子は
 自分をたよってきた樊を
 私利のために殺すには忍びなかった
 荊軻は
 樊於期に会って、うったえた
 秦においては
 樊の父母をはじめ
 一族をすべて殺し
 その首に莫大な懸賞をかけている
 一言にて燕国の憂いをとき
 将軍のあだをむくいる策・・・
 樊於期将軍の首を
 秦王に献じたなら
 秦王はよろこんで自分を引見するハズ
 自分は
 左手に秦王の袖をとり
 右手で秦王の胸を刺す・・・
 これを聞いた
 樊於期は
 片肌をぬいで腕をにぎり
 みずから首はねて死んだ
 太子は駆けつけ、屍体にうちふし
 大声をあげて泣いた
 ↓↑
 首を箱にいれて封じ
 鋭利な匕首(あいくち)をもとめ
 毒薬を刃にぬって人にためし
 秦王暗殺支度はととのえた
 燕のうまれで
 秦舞陽(シンブヨウ)という勇士
 十三歳で殺人を犯した無頼
 太子は、この秦舞陽を、荊軻の副え人とし
 秦舞陽をともなって出発
 事情を知っている者たちは
 白い装束(喪服)を着て見送った
 ↓↑
 易(エキ)水のほとりまで
 荊軻は
 筑(ちく=琴に似た楽器、竹で絃を打つ)
 に和して歌った
  風蕭蕭兮易水寒
  壮士一去兮不復還
 ↓↑
 秦につき
 千金のねうちの贈りものを
 王の側近にささげ、来意を通じた
 秦王はよろこび
 威儀をただして
 燕の使者を引見
 荊珂は
 樊於期の首箱を持ち
 秦舞陽は地図の小箱をささげた
 すすんで陛(きざはし)にいたると
 秦舞陽は
 顔色をかえて
 ふるえだし・・・
 ↓↑   大化の改新の実行犯
     「佐伯子麻呂」に類似
      古麻呂とも
      姓は連
      佐伯丹経手の子」とする系図がある?
     「佐伯の丹の経の手」・・・丹の経?
     「佐伯 丹経手=姓は連
             内臣・佐伯戸難目の子」
              とする系図がある?
 ↓↑  佐伯「戸難目→丹経手→子麻呂」
    「佐伯子麻呂」の
     兄弟は
     東人
     子麻呂
     百枝
     子は
     大目
     歳主
     645年11月(九月)
     中大兄皇子に命じられ
     阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて
     入鹿暗殺後に出家し吉野に隠棲していた
     古人大兄皇子を攻撃
     皇子とその子息を殺害・・・
 ↓↑ 「丹」は「燕国の太子」・・・
 群臣があやしんだので
 荊軻は顧みて笑い
 「北方の蛮夷の鄙人(ヒジン)
  いまだ天子に見(まみ)えたことなく
  ゆえにおそれ、ふるえたのでございます。
  願わくは大王、これをゆるさせたまえ」
 「その者の持っている地図を見せよ」
 ↓↑
 秦王の言により
 荊軻は地図の巻物を収りだして、王にささげ
 王が地図をひらき、図のおわるところ
 匕首(あいくち)があらわれた。
 荊軻は
 左手で秦王の袖をとらえ
 右手に匕首を持って、突きだした
 おどろいた王は身を引いて立ちあがり袖が切れた
 王は剣をぬこうとしたが
 剣は長く鞘(さや)から抜けず
 鞘に収またままにぎった・・・
 あわてて剣を竪(たて)にしたまま
 すぐには抜けなかったが、抜刀して
 荊軻と対峙した・・・。
 ↓↑
 秦は
 魏、楚、燕をほろぽし
 斉もほろぼして天下を平定
 秦王政は三十九歳
 即位二十六年
 (前221)
 皇帝の
 命を「制」
 令を「詔」
 自称を「朕(チン)」とした
 ↓↑
 廷尉(司法、検察の長官)の
 李斯(リシ)が
 法治主義(法家)
 郡県主義(直轄中央集権)を採用
 李斯
 楚の出身
 荀子の教えをうけ
 秦におもむいて
 呂不韋につかえ
 呂不韋の推挙で
 始皇帝に重用された
 ↓↑
 法家
 法による支配
 同門に
 韓非子(カンピシ)
 ↓↑  ・・・韓非は咸陽に着き
     蘭陵で学んだ頃の同窓の
     李斯を訪れた
     彼は韓国の特使として
     秦国にきて駐在していた
     秦の師団が突然東進し
     韓を攻め
     三十万の大軍が国境を鎮圧
     韓王は恐れ
     和議を求めて
     土地を納め御璽を献上
     藩臣を擁護することを請うた
     韓非子はこの和義の使節だったが
 ↓↑  李斯にハメラレる
 始皇帝にもちいられた
 李斯の両策によって
 無実の罪におとしいれられ
 投獄され、自殺
 ↓↑
 秦の郡県となって統一
 諸公子や功臣は、あつく待遇すれば、それでよい
 天下に異心をいだく者のないのが安寧の術
 諸侯をおくことは便法とはいえない
 ↓↑
 これを始皇帝は採用
 天下をわけて三十六郡
 中央から官吏を派遣して治めさせ
 皇帝の直轄とした
 郡の下は
 数十の県にわけた
 一つの県はおよそ一万戸の人口
 郡の戸口は数十万戸・・・
 始皇帝の中央集権体制
 「郡県制度」とよばれ
 中国統治方式の基本とされた
 周の封建制度
 「王」たる天子と諸侯とのあいだに
 画然とした身分の差はなかった
 「王」は至上なる神の代理者
 天子として地上を統治
 諸侯は「王」に服しているものの
 その領土の内では
 王と同じ性格の統治者であった
 ↓↑
 度量衡の単位の統一
 度(ものさし)
 量(ます)
 衡(はかり)
 秦のものに一定化
 国定の量(ます)や権(おもり)を
 全国に頒布
 車輪、道幅を一定にした
 ↓↑
 文字を統一
 秦と六国とでは
 ちがった文字をもちいていた
 秦の文字が大篆(ダイテン)で
 始皇帝は李斯に命じ
 あらたに
 小篆という書体をつくらせた
 篆書(テンショ)である
 しかし篆書にしても、まだ複雑で
 隷書(レイショ)が発明され
 漢代には一般に通用文字となる
 ↓↑
 貨幣の統一
 斉や燕など北方の国は
 「刀(トウ)」をもちい
 韓魏趙などは
 「布(フ)」(農具のスキの形)
 楚では「貝(バイ)」
 秦では円形の銭をもちいていた
 始皇帝は
 重さ半両の円形の穴あき銅貨を
 標準の貨幣として定め全国に通用させた
 半両銭は
 後世にいたるまで貨幣の基本の形となった
 ↓↑
 政令は
 都の咸陽(カンヨウ)から発せられ
 咸陽は帝国の中心となった
 ↓↑
 民の武器の携帯、携行は禁止
 天下の武器をおさめて
 これを城蒲にあつめ
 熔かして
 鐘鐻(ショウキョ=鐘などをかける台)
 金人(銅製の大きな人形)
 を十二体つくった
 重さは、おのおの千石(たん=三〇トン)
 ↓↑
 天下の
 富豪十二万戸を
 咸陽に移住させた
 ↓↑
 宮殿の壮麗化
 各国をほろぼすごとに
 その宮殿と同様のものを
 咸陽につくっていった
 これらの宮殿は、みな渭水の北にあった
 上林苑という大遊園地や
 祖先の廟は
 みな渭水の南にあった
 その間には大きな橋がかけられ
 また宮殿と宮殿との間は
 複道という二階建ての道路によってむすばれた
 ↓↑
 統一の翌年から
 始皇帝は巡遊をはじめ
 専用の道路の造成
 天子の馳道(チドウ)とよばれ
 幅が約七〇メートル
 しかも地上より高く
 道の両側には約七メートルごとに
 松の並木
 天下の巡遊は
 五回
 東は斉の山東から
 北は燕の北境
 南は楚の地をへ
 越(エツ)の
 会稽山まで巡った
 ゆくさきざきで盛大な儀式や宴会
 ↓↑
 その間
 六ヵ所に記念の石碑に
 始皇帝の功業をしるした文を彫りこんで建てた
 随行した
 李斯が
 小篆の書体でしるした
 泰山
 と
 琅邪台(ロウヤダイ)の刻石が
 もっとも古い(前219)
 刻石を建てて、名を永世に伝えようとする石碑も
 始皇帝がひらいた
ーーーーー
 始皇帝は
 斉の方士
 「徐福(徐市)」に命じ
 不老不死の薬を探索
 徐福が向かった地は
 斉の国・琅邪(瑯琊)の
 東海に浮かぶ島
 「蓬莱」・・・
 ↓↑
 古墳時代
 丹後
 丹波(京都府中部)
 但馬(兵庫県北部)
 を合わせて
 「大丹波国(おおたにわこく)」
 青龍三年(西暦235年)という
 日本で一番古い年号を記した
 銅鏡「方格規矩四神鏡
   (ほうかくきくししんきょう)」
 が峰山町、弥栄町にまたがる
 大田南5号墳から出土
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