2641日目からのツヅキ・・・近親、同族間のエンコン・・・?
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大和三山
神代に恋争いをしたという伝説
額田王をめぐる
天智天皇(中大兄皇子)
と
天武天皇(大海人皇子)
との三角関係
↓↑
出雲の
アボニカミ(阿菩大神)という神様が
香具山
と
耳成山
の二人の男が
畝傍山
を妻にしようと争っているのを聞いて
仲裁のため
播磨の国まで来たところ
争いがおさまったので
この国にとどまった
↓↑
「万葉集」巻一
香具山
と
耳梨山
と争(あ)いしとき
立ちて見に来し
印南国原
(香久山と耳成山が妻争いをしたとき、
阿菩の神が、
この印南原まで見にやって来た)
↓↑
「万葉集(巻一)」
香具山・耳成山が女で畝傍山が男。
香具山・耳成山が男で畝傍山が女。
香具山が女で畝傍山・耳成山が男。
↓↑
香具山は
畝火
愛(お)しと
耳梨と
相争いき
神代より
かくにあるらし
古昔も
然にあれこそ
うつせみも
嬬(つま)を
争うらしき
(巻一)
↓↑
大和三山への
心情を歌った
万葉集の長歌
藤原宮御井の歌として、
青々とした香具山は
宮の東の御門に春の山のように茂り、
畝傍の瑞々(みずみず)しい山は
西の御門に鎮まる瑞祥(ずいしょう)の山。
耳成の青菅の山は
背面の北御門に神々しくそびえ立つ・・・
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尾張(おわり・糸冬)
名古屋(名護屋・名児耶・奈古谷・那古屋)は
「シロ(新羅・斯盧)」で持つ?
↓↑
興正寺
貞享三年(1688)
天瑞-圓照(テンズイ-エンショウ)和尚
が真言密教の道場として草庵を結んだ
尾張二代目藩主
徳川光友
の帰依を受けて
講堂を建立
↓↑
中門は
女人門と呼ばれていた
興正寺は
東山と西山に分かれており
東山は女人禁制
この門から先に女性は入ることは禁止
中門のすぐ奥に
五重塔(30メートル)
文化五年(1808)に建立
名古屋市内で残っている唯一の五重塔
↓↑
宝暦十一年(1761)
徳川宗春より
「八事山」の三文字の親書を賜り
それ以降
「八事山 興正寺」
と呼ばれる
↓↑
「八事」
『尾張国地名考』によると
「八事」は
「岩之田(やがた)」が
↓↑ 八咫烏(やたがらす、やたのからす)
磐余彦(伊波礼毘古)=神武天皇
神武天皇
『日本書紀』
神代第十一段
第三の一書は第三子
第四の一書は第二子
在位
庚午年一月一日(紀元前711年)?
↓↑
即位
辛酉年一月一日(紀元前660年)
橿原宮に初代天皇として即位
G紀元前660(辛酉)年2月11(庚辰)日
Y紀元前660(辛酉)年2月18(庚辰)日
〜
神武天皇七十六年三月十一日
G紀元前585(丙子)年4月3(甲辰)日
Y紀元前585(丙子)年4月9(甲辰)日
「磐余の地の旧名
片居または片立という
大軍集(つど)いて
その地に満(いは)めり。
因りて改めてその地を
磐余
とする」・・・
↓↑
鎌倉時代から室町時代にまでに転訛した
『尾張名所志』にある
「石田里(いしだのさと)」
もこの八事だった・・・
「八事」は
「岩之田・石田」
であった
「石の多かった田」とういう意味
「岩之田」「石田」が
「八事」に転訛したもの
「岩の田」よりも
縁起のいい末広がりの
「八」を使うようになった・・・
・・・
「岩・石・磐・イワ」⇔「八」に転化(転嫁)?
↓↑
『尾張地名考』に
「音聞(おときき)の松」の話
八事村の東南にある
島田村に
「音聞山」という山があり
「音聞の松」があった
享保の頃(1716〜1735)
枯れてしまったが
後その跡に
若木を継いで
今は「千歳の松」ともいう・・・
↓↑
風ふけは
鳴海の浦による波の
おときヽ山の
やまの名よしも
↓↑
「音聞の松」が聞いたのは
鳴海の浦に打ち寄せる波で
そこから「音聞山」という名が起こった
「音聞山」(天白区)という町名が残されている
↓↑
天白川の名前
緑区の三王山という場所に
山王社という小さな神社があり
その中に
天白社という社があって由来となっている
↓↑
山王神社
比叡山の東にある
日吉大社の別称
神仏習合時代に
山王権現と呼ばれた
↓↑
天白社
正体が不明
本州のほぼ
東半分にみられる民間信仰
星・水・安産
祈願など
↓↑
星の信仰
天白
天一神と太白神から出たもの
星の神
伊勢神宮に
天白が星の神である
「てんはくのうた」
という神楽歌が伝わる・・・
天白を
太白星(金星⇔金生・金姓)と考えていた・・・?
↓↑
白浪滔天=白浪が山のように高い
不分鄢天白日地干=昼夜を分かたず働く
大天白日=真っ昼間に強盗を働く
↓↑
オシラサマ信仰
「てんぱく」と音読みされる以前は
「おしら様
(オシラサマ)」=蚕神、農業神、馬神
と呼ばれた 桑の木で作られ二体一組の偶像
道教と習合されて
天白神信仰になった・・・
「オシラサマ」は
アイヌの
「シランパカムイ」
↓↑
白髭神社
古代の
新羅系渡来人が
自分達の祖先を
「新羅明神」として祭ったものが元
「新羅(しらぎ)」=「白(しろ)」
古代の有力氏族の
「白猪(しらい)」氏も渡来系
↓↑ ・・・伊吹山の白猪神は日本武尊の敵対者
↓↑猪名部 真根=天皇や氏族に隷属する品部
(いなべのまね)・・・
猪名部御田
(いなべのみた)
猪名部は
土木技術の工匠集団
その部民の伴造で工匠集団の長は
↓↑新羅系の渡来人が任命されていた・・・
白猪氏から分かれた
荒田井氏は
緑区鳴海の辺りに住んでいた・・・
↓↑
民俗学者
柳田国男は
天白は風の神かも・・・
↓↑
緑区の三王山のすぐ近くに
隕石に由来する
星崎がある
志摩市
大王町の
天白信仰も、隕石に関係する
東日本に分布
「てんばく」
原住民の信仰・・・
志摩の大王町
天白川
近くにも
旧石器時代の遺跡
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雄略天皇
蘇我満智が
国内の献納物を納める
大蔵の取締りを命じられ
その配下の
秦氏出納
東漢氏、西文(カワチ)氏は記帳をした
↓↑
王辰爾の子孫
白猪・・・伊吹山の神・日本武尊に祟る
↓↑ ↓↑
二十一代
「雄略天皇=日本武尊」?
大泊瀬幼武
(おおはつせわかたけ)
大泊瀬幼武尊
(おおはつせわかたけるのみこと)
大長谷若建王
(おおはせわかたけるおう)
「武=ワカタケル・タケル=建=若建」
「獲加多支鹵・多支鹵」
↓↑ ↓↑
熊本県の江田船山古墳出土鉄剣銘文
「治天下犭复□□□歯大王」
「多遅比弥都歯別」
(タジヒノミズハワケ)
十八代反正天皇(書紀)
水歯別(古事記)
↓↑ ↓↑
埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣銘文
「治天下獲□□□鹵大王」
「獲加多支鹵大王」
ワカタキル・・・鹵⇔ロ⇔ル
・・・鹵=ロ(ろ)=鹽=塩
塩=土+𠂉+口+皿
鹽=臣+𠂉+鹵+皿
𦣪=𥂁・䀋・盐・𨣎・𪉟・𪉩・𪉹
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
「獲加多支鹵大王」
ワカタケル
大長谷 若 建 =雄略天皇
↓↑ ↓↑
『宋書』本紀
順帝紀
昇明元年(477年)十一月己酉条
倭国が遣使し方物(地方名産物)を献上
↓↑ ↓↑
「倭王武」が「南朝宋」に上表
477年
「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅
秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」
と自称し
478年=昇明二年五月戊午条
「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅
秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」
と
「順帝(南朝宋の末代皇帝・姓は劉、諱は準
第6代明帝の第三子
第7代後廃帝の弟
沈約の『宋書』后妃伝で
実際には
明帝の弟・桂陽王、劉休範の子)」
から叙された
↓↑ ↓↑ ↓↑
「雄略天皇=日本武尊=倭建=倭男具那=日本童男」
(ヤマトオグナ)
「小碓命(おうすのみこと)」
は
白猪=猪名部=新羅の技術者集団に殺された?
白猪氏
船氏
津氏
は河内の
古市に住み
西琳寺は西文氏
葛井(ふじい)寺は白猪(しらい)氏
野中寺は船氏
の氏寺
漢人、阿智の使主の末裔
東漢氏で檜隈に住む
檜隈寺は東漢氏
の氏寺
↓↑
大和、河内、山城の地域
帰化人の人口は全体の35%超
5世紀後半
今来の漢人
鞍作、錦織、金作諸氏
百済より渡来し
蘇我稲目を支援
天皇家は彼らを使用
雄略天皇以降
蘇我→韓子、高麗、稲目、馬子
と天皇に仕え
帰化人たちを統括した
韓子、高麗、稲目、馬子
が半島由来の名
↓↑
蘇我石川宿禰
満智(まち)−韓子(からこ)−高麗(こま)−稲目
蘇我氏は百済系渡来人の総領家
漢(あや)氏や秦(はた)氏を従えた
財政官僚
大伴氏や物部氏らは
軍事官僚
↓↑
小姉君(小兄比売)は渡来人の
ペルシャ(波斯)人or白人(新羅)との混血・・・?
『新撰姓氏録』に
「弓月の君」
に率いられてきた一族に
「秦氏」
↓↑
蘇我小姉君(そがの おあねのきみ)
蘇我稲目の娘
姉妹
蘇我堅塩媛
兄弟
蘇我馬子
欽明天皇の妃
↓↑
子供
茨城皇子
葛城皇子
穴穂部間人皇女
穴穂部皇子
泊瀬部皇子(崇峻天皇)・・・東漢直駒に殺害
↓↑
孫
聖徳太子(厩戸皇子)
来目皇子
殖栗皇子
茨田皇子
麻呂子皇子
酸香手姫皇女
蜂子皇子
錦代皇女
佐富女王・・・皇女、王女でなく女王?
↓↑ 女王は女帝、女支配者?
女性の王
王の后
内親王の宣下のない皇族の女性
皇族で3世以下の嫡男系嫡出の女性
↓↑ ↓↑ ↓↑
佐富女王(さとみのひめみこ
さふのひめみこ
さほのひめみこ)
↓↑ ↓↑ ↓↑↓↑
狭穂 姫命
(さほひめのみこと)
沙本 毘売命
佐波遅比売命
(さわじひめのみこと)
↓↑
垂仁天皇五年十月薨
垂仁天皇の皇后
(垂仁天皇二年二月九日立后)
皇子
誉津別命(本牟智和気御子)
同母兄
狭穂彦王(沙本毘古)
↓↑ ↓↑ ↓↑↓↑
父は田目皇子(多米王)
・・・駄目・試・同目・多目
母は穴穂部間人皇女
穴穂部間人皇女は
田目皇子(多米王)の父
の用明天皇の皇后で
用明天皇の崩御後に
田目皇子(多米王)と再縁し
佐富女王を産んだ
聖徳太子の異母兄の娘かつ異父妹
甥で、従兄弟に当たる
長谷王
(聖徳太子と膳部菩岐々美郎女の子)
と結婚し
葛城王
多智奴女王・・・?
女王⇔多くを智(知日)る奴
を産む
ーーーーー
・・・紀元前722年〜紀元前660年=神武元年
↓↑
徳公(トクコウ)
紀元前710年〜紀元前676年
・・・紀元前722年〜紀元前660年=神武元年
↓↑ 722-660=62=六拾弐=陸拾貳
秦の第六代公
憲公の次子
↓↑
武公二十年(前678年)
同母兄の武公が死んで
徳公が
秦公となった
33歳
↓↑
徳公元年(前677年)
雍城の大鄭宮に住み
犠牲
三百牢を供えて・・牢=家畜化された牛
鄜畤(フジ)・・・夢から覚めた
文公は
鄜に祠廟を建てて
白帝(中国の神様)を祀った
(紀元前756年)
白帝は西方角と五行金徳の神
を祠った
この年
梁伯・芮伯が来朝した
↓↑
徳公二年(前676年)
初めて
伏の節・・・伏=イ+犬=ふす・フク
↓↑ 圧伏・畏伏・帰伏・屈伏
降伏・承伏・信伏・説伏
夏の最も暑い時期
「伏日/三伏・初伏」
仏法の力で人を
↓↑ 降伏・折伏・調伏
を行い
狗(いぬ)を殺して
蠱(コ・悪気)をふせいだ・・・穀物につく虫
この年に死に
長子の宣公が立って
秦君となった
↓↑
蠱(コ)=まじないに使う虫
↓↑ 人を害する呪いや毒薬
蠱毒・巫蠱(フコ)
惑わす・乱す
蠱惑(コワク)・・・
「怖い・恐い・強い」+句?
易の六十四卦の一
上卦は艮(ごん)(山)
下卦は巽(そん)(風)
山風蠱とも
蠱は故(こ)の音通
事の意
風が吹いて山林中の
汚気を一掃
旧弊を一新
↓↑
蠱物(まじモノ)=まじないをしてのろうこと
まじない術・まじ
「畜(けもの)仆(たふ)し、蠱物する罪」
(祝詞・六月晦大祓)
人を惑わすもの・魔性のもの
↓↑
蠱毒(こどく)=古代中国の呪術
動物を使うもので、華南の少数民族の間で
受け継がれ
蠱道、蠱術、巫蠱(フコ)
ーーーーー
・・・???・・・韓非子(カンピシ)・・・
法治でアラずば・・・韓の子にアラず(非)・・・?
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