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2018年12月03日23:46

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もじたま日記・2639日目・ナンジのリンジン・・・

 2639日目
・・・「人災」で許せないのは「ヒト」だが、「自然災害」で許せない「モノ」は「ダレ」だろう?・・・「人災」で許される「ヒト」とは「ダレ」だろう?・・・「自然災害」で許される「モノ」は「ダレ」だろう・・・許される基準は「ナニ」によるんだろう・・・高速道路枠上の「煽り運転の被告」・・・
 活殺格闘技の「相撲」と「土俵枠」、それに「行司審判」を決めたニホン人ってスゴイなァ〜って・・・イクサが無くなって暴力組織が失業常態になった・・・武闘の興業化、見世物化・・・平安時代、パックスローマーナ・・・「Pax Romana (パークス・ローマーナ)」・・・
フォト

 ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和・・・
 パクス(パークス)=ローマ神話の平和と秩序の女神・・・
 ホーラ三姉妹のエイレーネー(平和)
        エウノミアー(秩序の女神)
        ディケー(治安)
 ギリシア神話の時間の女神、季節と秩序の三女神の
 エイレーネー
 「強大な一国の覇権による
  相対的な平和」を
 「パクス−」と呼ぶ・・・・葉句素?・・・グゥ・チョキ・パァ
              把握守?   握る・挟む ・開く
 パクス・ブリタニカ(イギリス)
 パクス・アメリカーナ
 パクス・モンゴリカ(タタリカ)・・・祟り化?
 パクス・オトマニカ(オスマン)・・・音真似化?
 パクス・エウロパエア
 ・・・国際平和は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ・・・市民社会は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ・・・個々人の生活は「空手⇔素手」で守れるか・・・
 ↓↑
 日吉丸はナゼ「うり売り」に仮装したんだろうか?
 「肥前(佐賀県)の名護屋城」で開催した
 「瓜畑遊び」といわれる「仮装大会=やつしくらべ」で
 関白秀吉が「瓜売」を演じた・・・
 江戸時代の「太閤記(小瀬甫庵著、寛永三年)」・・・
 文禄三(1594)年六月
 瓜畑に、瓜屋や旅籠屋などを粗末な様子で建て
 瓜売りの商人の仮装をした
 ↓↑ 
 彼の出自は・・・?・・・名古屋中村
 ↓↑
 豊臣秀吉
 天文六年二月六日(1537年3月17日)
 〜
 慶長三年八月十八日(1598年9月18日)
 名 木下藤吉郎、秀吉
    羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
 別名 元吉
 渾名 木綿藤吉
    豊太閤
    猿
    禿げ鼠
 神号 豊国大明神
 戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
 ↓↑
 父親(実父)は
 木下 弥右衛門
 家臣の
 竹中重門の秀吉の一代記
 『豊鑑』に
 「郷のあやしの民の子なれば。
  父母のなもたれかは志らむ。
  一族なども志かなり」・・・不明、不詳・・・
 後世には
 カバネを持つ名主百姓
 カバネを持たない最下層の貧民
 下層農民
 大工
 鍛冶師
 技術者集団
 針売り商人
 木地師
 漂流民の
 山窩(広義的な傀儡子)の出身
 ・・・さまざまな出自説・・・
 ↓↑
 生年不詳
 死没 天文十二年一月二日
   (1543年2月5日)
 別名 弥助、昌吉
 戒名 妙雲院殿栄本虚儀・・・栄本は虚儀(虚偽)
 主君 織田信秀
 父母 吉高(弥助)
 妻 大政所(なか)
 子 瑞雲院日秀(三好吉房室)
    秀吉(藤吉郎)
 ↓↑
 豊臣秀吉の
 母 なか・天瑞院
   なか(仲)
   永正十三年(1516年)
   尾張国愛知郡御器所村
   死没
   天正二十年七月二十二日
   (1592年8月29日)
   別名
   天瑞寺殿贈准三后従一位
         春岩宗桂大禅定尼
   肩書き 大政所、二位尼君
   配偶者 木下弥右衛門
       竹阿弥(筑阿弥・再婚相手)
   子供  瑞龍院日秀、豊臣秀吉、秀長、朝日姫
   親   関兼貞(関兼員)
   親戚  妹:栄松院(小出秀政の室)
       松雲院(福島正則の母)
       大恩院(青木秀以の母)
   従妹  聖林院
       伊都(加藤清忠の室、加藤清正の母)
 ↓↑
 義父・・・なかの後夫(再婚相手)
 弥助(弥右衛門)=竹阿弥=筑阿弥
 天文十二年(1543年)一月二日
 秀吉が七歳(または8歳)の時に死去
 戒名 妙雲院殿栄本虚儀
 ↓↑
 「瓜=うり=ウリ⇔우리=○+丅+己+礀=We・Us」
 「ウリは、話し相手が自分と親密な関係で使う
  目上に向けては
  ジョヒ(저희)を使い・・・저=𠆣(一人)+┫(卜の逆字)
              𠆣の異体字「兀・𠆣・㐳・⺎」   
              희=亠+○+一+礀
                亠=音・鍋蓋
  ウリ(우리)は使わない」・・・우=○+丅
                   丅=下
                리=己+礀
 ↓↑     ↓↑
 瓜にツメあり、爪にツメなし・・・
 瓜に爪 あり、爪に爪 なし
 「瓜(カ・ク)」という字にはつめ(ム)があり
 「爪(ソウ・ショウ)」という字にはつめ(ム)がない
 ↓↑
 戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
 いぬ(犬・狗)にボウあり、つちのえ(戊・ボウ・ボ)にボウなし
 ↓↑
 いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
 ふとい(太・おほの・タイ)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
 太安万侶=太安萬侶⇔おおい=莞・太藺・不問・附解い
           万=萬⇔禺+α・偶・遇・寓・隅
 おほい(大・おほきい・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
 ↓↑
 太い=両手を広げた人の腹の中に
   「丶・チュウ・ゝ・灯・丁)あり」
   ・・・太乙・太歳・太秦(うづまさ)
      太安・太古
      太子・太公・太平・太陽・太陰
      太閤
      太政大臣(おおきおおいもうちぎみ)
      太政官(おおいまつりごとのつかさ)
    廓然太公
      太液芙蓉(美人顔のたとえ)
      太羹玄酒(タイコウゲンシュ)
           無味の肉汁(太羹)と水(玄酒)
      太山鴻毛(太山=泰山)
           命(生死)の軽重
      太山之安
      太山府君(府君=郡の最高長官
              泰山の最高位=生死を支配する神)
      太山鳴動(大山が産気づき
           激しい音を立て揺れ動いた結果
           鼠が一匹生まれた
           ・・・ネズミ=移鼠=イエス・キリスト
           古代ローマの諺(ことわざ))
      太山梁木(泰山頽れ梁木壊る・孔子自身の死の予見)
      太盛難守(太盛守り難し)
      太牢滋味(太牢=牛、羊、豚の三種の肉)
    天下太平  (『礼記(禮記)』仲尼燕居)
           孔子と子夏との問答・礼に関する注記
 ↓↑
 戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
 いぬ(犬・狗)にボウあり、ぼう(戊・ボ)にボウなし
 ↓↑
 いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ)あり、
 おほい(大・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
 ↓↑
 いぬ(狗・グ・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)あり、
 ク(句・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)なし
 ↓↑
 ク(句・ク)に口あり
 ク(勹・ホウ・ヒョウ)に口なし
 ↓↑
 우(ウ・宀)=○+丅(カ)・・・丁(ひのと・チョウ・テイ)
 리(リ・刂)=己+礀・・・己・巳・巴・已・・・卩・尸
          礀で叩(敲・たたく)・・・割符・屍
 「真桑瓜(まくわうり)」=「참외(チャメ)」
           참(チャ)=大+ト+口
           외(メ )=○+丄(⊥・上)
 「瓢箪(ヒョウタン)」=「표주박(pyojubag)」
 「『日本書紀(720年)』の中で瓢(ひさご)の記録」
 「千成瓢箪」=「豊臣秀吉の馬印・小さく数が多い瓢箪の一種
         秀吉が城主だった長浜に
         六瓢箪という秀吉所縁の社寺
         豊臣秀吉を祀った豊国神社
         六瓢箪めぐり(ムビョウタンメグリ)
        (滋賀県長浜市宮前町・長浜八幡宮)
         六瓢箪(むびょうたん)⇔「無病(六瓢)息災」
         瓢箪から駒
フォト

 ↓↑       
 「쪽박(チョッパク)」=「小さな瓢箪」
 「대박(テバク)」=「大きな瓢箪・大当たり、大ヒット」
 「干瓢(カンピョウ)=「박고지」
             박(パク)=「ふくべ・柄杓・釣瓶」
 ↓↑ ↓↑
 若(わか)いと言う字は、「苦しい」と言う字に似てる・・・
 若(わか)いと言う字は、「若(も)しも」ともヨム・・・
 ナゼだ?・・・「if(イフ)」は未来への可能性・・・
 「隠匿」の「匿(かくす・かくれる・トク・ジョク)」は
 匿=匚(はこ・ホウ)に若を隠す・・・
   見られたくないモノを匚(はこ・ホウ)に隠すって?
   男子なら・・・・ポルノ(Pornography)・春画・・・
   女子は・・・???・・・
 ↓↑
 瓜
 gourd・・・Gourd=ゴード
 まくわうり
 oriental melon
 きゅうり
 cucumber
 しろうり
 pickling melon
 瓜の蔓(つる)には茄子(なすび)はならぬ
 Like father, like son.
 An onion will not produce a rose.
 瓜二つ 二人は瓜二つ
 Those two are
  exactly alike
  [as like as two peas (in a pod)].
 ↓↑ ↓↑
 文禄の役・・・文の禄の訳
 ↓↑     官人に下付される給与
        律令制では
        絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)・穀物
        など
        後世は
        知行地・扶持米(ふちまい)・給金
        給与・給金・扶持
        stipend
        get a salary 《from》be on the payroll
 ↓↑     当座の褒美・贈り物
 文禄(1592)四月中旬日本軍、釜山上陸
 〜
 文禄二年(1593)
 文禄元年=万暦二十年=宣祖二十五年=1592年
 文禄二年(1593年)に休戦
 文禄元年四月十三日
 1592年5月24日〜1593年7月
 朝鮮半島全域
 満州・豆満江一帯
 小西行長
 と
 沈惟敬
 らの協議によって日本と明の間で休戦成立
 日本軍は南に後退、朝鮮半島に築いた城塞に駐留
 ↓↑
 慶長二年(1597年)の講和交渉決裂
 慶長三年=万暦二十六=宣祖三十一年=1598年
 ↓↑
 慶長の役
 1597年1月〜1598年12月
 朝鮮半島三南地方
 豊臣秀吉死去で日本軍が帰国終結
 ↓↑
 支那明国
 李氏朝鮮
ーーーーー
 「スポーツ興行」・「祭りとして奉納行事」
 「相撲(すもう)=土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りで、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている」・・・
ーーーーー
 志賀 清林
 ↓↑ ・・・志賀 直哉
 ↓↑ (1883年・明治十六年)2月20日
      〜
     1971年(昭和四十六年)10月21日
     宮城県石巻生まれ
     白樺派
     小説の神様・・・?
    「小僧の神様」1920年(大正九年)
     雑誌「白樺」に発表
     デビュー作
    「網走まで」(1910年)
    「或る朝」(1918年)
 ↓↑ 「菜の花と小娘」(1920年)
     1913年(大正二年)8月15日
     東京
    「出来事」という小説を書き上げた晩
     里見紝と一緒に
 ↓↑  素人
     相撲を見に行く・・・↓↑
     その帰り道に
     山手線の電車にはねられ
     重傷を負い
     東京病院(東京慈恵会医科大学附属病院)
     に入院
     同年10月
     その養生のために
     兵庫県の城崎温泉に滞在
      城崎滞在中、直哉は
     蜂・鼠・いもり
     という3つの小動物の死を目撃
     短編「城の崎にて」・・・
 ↓↑          ↓↑↓↑
 志賀 清林            
 (しが の せいりん)
 奈良時代の力士・行司
 最高位は最手
 ↓↑
 相撲の吉田司家や各行司家に伝わる
 『相撲傳書』『相撲講本』『相撲式』
 等に登場
 奈良時代の
 726年(神亀三年)
 近江国から朝廷に出仕
 相撲の技
 四十八手
 と
 礼法
 と
 「突く・殴る・蹴る」の
 三手の禁じ手を制定する事を
 聖武天皇に奏上した人物・・・
 ↓↑
 志賀清林
 「近江國
  志賀ノ里ニ
  志賀清林ト云ヘル者」と
 『相撲式』(吉田司家蔵)にあり
 本町木戸の出身
 相撲司吉田家の伝承によると
 734年(天平六年)
 「相撲節」の立案に携わり
 相撲の公認の作法を作った
 国技相撲行司の始祖・・・
 ↓↑
 相撲
 力くらべや神事
 『日本書紀』
 『続日本紀』に
 719年(養老三年)
 7月に
 宮中相撲節を担当する
 「抜出司」が任命された
 7月7日(七夕)の
 宮中行事としての相撲節会がなされたが
 志賀清林は
 それまで明確な作法も土俵もなく
 生死を賭けた闘技であったものを
 「突く、蹴る、殴る」
 の三技を禁手とし
 手による「なげ」
 足による「かけ」
 腰による「ひねり」
 頭による「そり」
 の四手を基本に
 おのおの
 十二手の決まり手を付し
 相撲四十八手とした
 相撲確立の第一人者・・・
 ↓↑
 志賀清林死後
 志賀家は行事の家として代々務め
 平安時代末期に相撲が中断し断絶
 相撲司は
 吉田家(吉田司家)に移り
 吉田家から
 木村家・式守家により継承
 ↓↑
 1918年(大正七年)
 板垣退助碑文の
 志賀清林埋骨之碑が
 清林顕彰会によって建てられた
 ↓↑
 日本国内外の同じような形態の格闘技
 沖縄本島の沖縄角力(シマ)
 モンゴルのブフ
 中国のシュアイジャオ
 朝鮮半島のシルム
 トルコのヤールギュレシ
 セネガルのラム
 ↓↑
 「すもう」
 「すまひ」が「すもう」に変化
 「角力」、「捔力」(『日本書紀』)
 「角觝」(江戸時代において一部で使用)
 「力くらべ」を指す言葉
 古代には
 「手乞(てごい)」とも呼ばれていた・・・
 (手乞とは、相撲の別名とされ
  相手の手を掴む事の意
  素手で勝負をする事を意味)
 ↓↑
 英語で
 「sumo(スモウ)」
 「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」
 ↓↑ 
 組み合う格闘技
 相撲と呼ぶ
 腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲、草相撲
 紙相撲
 ↓↑
 記録の最古
 『古事記』の
 葦原中国平定の件で
 建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して
 出雲の
 建御名方神(タケミナカタ)が
 「然欲爲力競」と言った後
 タケミカヅチの腕を摑んで投げようとしたが
 タケミカヅチが手を氷柱へ
 また氷柱から剣(つるぎ)に
 変えたため掴めなかった
 逆に
 タケミカヅチは
 タケミナカタの手を
 葦のように握り潰し
 勝負にならなかった
 ↓↑
 人間同士の相撲で最古のもの
 垂仁天皇七年(紀元前23年)七月七日 (旧暦)
 野見宿禰
 と
 「當麻蹶速(当麻蹴速)」
 「捔力(すまいとらしむ・スマヰ
     すまい・スマヰと訓す)」
 での戦い
 「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」
 「各擧足相蹶
  則蹶折
  當麻蹶速
  之脇骨
  亦
  蹈折其腰
  而殺之」
 とあり
 試合展開は主に
 蹴り技の応酬
 最後は
 宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り
 更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃し
 腰骨を踏み折り、絶命させた
 現代の相撲とはルールも意識も異なる
 武芸・武術
 宿禰・蹶速は相撲の始祖
 ↓↑
 『古事記(垂仁記)』
 「ここをもちて軍士の中の力士の
  軽く捷きを選り聚めて
  宣りたまひしく、その御子を取らむ時
  すなわちその母王をも掠取れ。
  髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に
  掬みて控き出すべし。とのりたまひき。
  ここにその后
  かねてかその情を知らしめして
  悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ
  また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし
  また酒もちてその御衣を腐し
  全き衣の如服しき。
  かく設け備へて、その御子を抱きて
  城の外にさし出したまひき。
  ここにもの
  力士等、・・・・力士=相撲取り
  その御子を取りて
  すなはちその御祖を握りき。
  ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち
  その御手を握れば、玉の緒また絶え
  その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ」
 ↓↑
 「力士=ちからひと
    =すまひひと
    =相撲取り」・・・リキシ?
 ↓↑
 次ページに続く・・・
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