2639日目
・・・「人災」で許せないのは「ヒト」だが、「自然災害」で許せない「モノ」は「ダレ」だろう?・・・「人災」で許される「ヒト」とは「ダレ」だろう?・・・「自然災害」で許される「モノ」は「ダレ」だろう・・・許される基準は「ナニ」によるんだろう・・・高速道路枠上の「煽り運転の被告」・・・
活殺格闘技の「相撲」と「土俵枠」、それに「行司審判」を決めたニホン人ってスゴイなァ〜って・・・イクサが無くなって暴力組織が失業常態になった・・・武闘の興業化、見世物化・・・平安時代、パックスローマーナ・・・「Pax Romana (パークス・ローマーナ)」・・・
ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和・・・
パクス(パークス)=ローマ神話の平和と秩序の女神・・・
ホーラ三姉妹のエイレーネー(平和)
エウノミアー(秩序の女神)
ディケー(治安)
ギリシア神話の時間の女神、季節と秩序の三女神の
エイレーネー
「強大な一国の覇権による
相対的な平和」を
「パクス−」と呼ぶ・・・・葉句素?・・・グゥ・チョキ・パァ
把握守? 握る・挟む ・開く
パクス・ブリタニカ(イギリス)
パクス・アメリカーナ
パクス・モンゴリカ(タタリカ)・・・祟り化?
パクス・オトマニカ(オスマン)・・・音真似化?
パクス・エウロパエア
・・・国際平和は「空手⇔素手」で守れるか・・・
・・・市民社会は「空手⇔素手」で守れるか・・・
・・・個々人の生活は「空手⇔素手」で守れるか・・・
↓↑
日吉丸はナゼ「うり売り」に仮装したんだろうか?
「肥前(佐賀県)の名護屋城」で開催した
「瓜畑遊び」といわれる「仮装大会=やつしくらべ」で
関白秀吉が「瓜売」を演じた・・・
江戸時代の「太閤記(小瀬甫庵著、寛永三年)」・・・
文禄三(1594)年六月
瓜畑に、瓜屋や旅籠屋などを粗末な様子で建て
瓜売りの商人の仮装をした
↓↑
彼の出自は・・・?・・・名古屋中村
↓↑
豊臣秀吉
天文六年二月六日(1537年3月17日)
〜
慶長三年八月十八日(1598年9月18日)
名 木下藤吉郎、秀吉
羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
別名 元吉
渾名 木綿藤吉
豊太閤
猿
禿げ鼠
神号 豊国大明神
戒名 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
↓↑
父親(実父)は
木下 弥右衛門
家臣の
竹中重門の秀吉の一代記
『豊鑑』に
「郷のあやしの民の子なれば。
父母のなもたれかは志らむ。
一族なども志かなり」・・・不明、不詳・・・
後世には
カバネを持つ名主百姓
カバネを持たない最下層の貧民
下層農民
大工
鍛冶師
技術者集団
針売り商人
木地師
漂流民の
山窩(広義的な傀儡子)の出身
・・・さまざまな出自説・・・
↓↑
生年不詳
死没 天文十二年一月二日
(1543年2月5日)
別名 弥助、昌吉
戒名 妙雲院殿栄本虚儀・・・栄本は虚儀(虚偽)
主君 織田信秀
父母 吉高(弥助)
妻 大政所(なか)
子 瑞雲院日秀(三好吉房室)
秀吉(藤吉郎)
↓↑
豊臣秀吉の
母 なか・天瑞院
なか(仲)
永正十三年(1516年)
尾張国愛知郡御器所村
死没
天正二十年七月二十二日
(1592年8月29日)
別名
天瑞寺殿贈准三后従一位
春岩宗桂大禅定尼
肩書き 大政所、二位尼君
配偶者 木下弥右衛門
竹阿弥(筑阿弥・再婚相手)
子供 瑞龍院日秀、豊臣秀吉、秀長、朝日姫
親 関兼貞(関兼員)
親戚 妹:栄松院(小出秀政の室)
松雲院(福島正則の母)
大恩院(青木秀以の母)
従妹 聖林院
伊都(加藤清忠の室、加藤清正の母)
↓↑
義父・・・なかの後夫(再婚相手)
弥助(弥右衛門)=竹阿弥=筑阿弥
天文十二年(1543年)一月二日
秀吉が七歳(または8歳)の時に死去
戒名 妙雲院殿栄本虚儀
↓↑
「瓜=うり=ウリ⇔우리=○+丅+己+礀=We・Us」
「ウリは、話し相手が自分と親密な関係で使う
目上に向けては
ジョヒ(저희)を使い・・・저=𠆣(一人)+┫(卜の逆字)
𠆣の異体字「兀・𠆣・㐳・⺎」
희=亠+○+一+礀
亠=音・鍋蓋
ウリ(우리)は使わない」・・・우=○+丅
丅=下
리=己+礀
↓↑ ↓↑
瓜にツメあり、爪にツメなし・・・
瓜に爪 あり、爪に爪 なし
「瓜(カ・ク)」という字にはつめ(ム)があり
「爪(ソウ・ショウ)」という字にはつめ(ム)がない
↓↑
戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
いぬ(犬・狗)にボウあり、つちのえ(戊・ボウ・ボ)にボウなし
↓↑
いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
ふとい(太・おほの・タイ)に点(丶・チュウ・燈・灯)あり、
太安万侶=太安萬侶⇔おおい=莞・太藺・不問・附解い
万=萬⇔禺+α・偶・遇・寓・隅
おほい(大・おほきい・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
↓↑
太い=両手を広げた人の腹の中に
「丶・チュウ・ゝ・灯・丁)あり」
・・・太乙・太歳・太秦(うづまさ)
太安・太古
太子・太公・太平・太陽・太陰
太閤
太政大臣(おおきおおいもうちぎみ)
太政官(おおいまつりごとのつかさ)
廓然太公
太液芙蓉(美人顔のたとえ)
太羹玄酒(タイコウゲンシュ)
無味の肉汁(太羹)と水(玄酒)
太山鴻毛(太山=泰山)
命(生死)の軽重
太山之安
太山府君(府君=郡の最高長官
泰山の最高位=生死を支配する神)
太山鳴動(大山が産気づき
激しい音を立て揺れ動いた結果
鼠が一匹生まれた
・・・ネズミ=移鼠=イエス・キリスト
古代ローマの諺(ことわざ))
太山梁木(泰山頽れ梁木壊る・孔子自身の死の予見)
太盛難守(太盛守り難し)
太牢滋味(太牢=牛、羊、豚の三種の肉)
天下太平 (『礼記(禮記)』仲尼燕居)
孔子と子夏との問答・礼に関する注記
↓↑
戌に棒(-)あり戊に棒(-)なし
いぬ(犬・狗)にボウあり、ぼう(戊・ボ)にボウなし
↓↑
いぬ(犬・ケン)に点(丶・チュウ)あり、
おほい(大・ダイ)に点(丶・チュウ)なし
↓↑
いぬ(狗・グ・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)あり、
ク(句・ク)に犭(いぬ・けものへん・ケン)なし
↓↑
ク(句・ク)に口あり
ク(勹・ホウ・ヒョウ)に口なし
↓↑
우(ウ・宀)=○+丅(カ)・・・丁(ひのと・チョウ・テイ)
리(リ・刂)=己+礀・・・己・巳・巴・已・・・卩・尸
礀で叩(敲・たたく)・・・割符・屍
「真桑瓜(まくわうり)」=「참외(チャメ)」
참(チャ)=大+ト+口
외(メ )=○+丄(⊥・上)
「瓢箪(ヒョウタン)」=「표주박(pyojubag)」
「『日本書紀(720年)』の中で瓢(ひさご)の記録」
「千成瓢箪」=「豊臣秀吉の馬印・小さく数が多い瓢箪の一種
秀吉が城主だった長浜に
六瓢箪という秀吉所縁の社寺
豊臣秀吉を祀った豊国神社
六瓢箪めぐり(ムビョウタンメグリ)
(滋賀県長浜市宮前町・長浜八幡宮)
六瓢箪(むびょうたん)⇔「無病(六瓢)息災」
瓢箪から駒
↓↑
「쪽박(チョッパク)」=「小さな瓢箪」
「대박(テバク)」=「大きな瓢箪・大当たり、大ヒット」
「干瓢(カンピョウ)=「박고지」
박(パク)=「ふくべ・柄杓・釣瓶」
↓↑ ↓↑
若(わか)いと言う字は、「苦しい」と言う字に似てる・・・
若(わか)いと言う字は、「若(も)しも」ともヨム・・・
ナゼだ?・・・「if(イフ)」は未来への可能性・・・
「隠匿」の「匿(かくす・かくれる・トク・ジョク)」は
匿=匚(はこ・ホウ)に若を隠す・・・
見られたくないモノを匚(はこ・ホウ)に隠すって?
男子なら・・・・ポルノ(Pornography)・春画・・・
女子は・・・???・・・
↓↑
瓜
gourd・・・Gourd=ゴード
まくわうり
oriental melon
きゅうり
cucumber
しろうり
pickling melon
瓜の蔓(つる)には茄子(なすび)はならぬ
Like father, like son.
An onion will not produce a rose.
瓜二つ 二人は瓜二つ
Those two are
exactly alike
[as like as two peas (in a pod)].
↓↑ ↓↑
文禄の役・・・文の禄の訳
↓↑ 官人に下付される給与
律令制では
絁(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)・穀物
など
後世は
知行地・扶持米(ふちまい)・給金
給与・給金・扶持
stipend
get a salary 《from》be on the payroll
↓↑ 当座の褒美・贈り物
文禄(1592)四月中旬日本軍、釜山上陸
〜
文禄二年(1593)
文禄元年=万暦二十年=宣祖二十五年=1592年
文禄二年(1593年)に休戦
文禄元年四月十三日
1592年5月24日〜1593年7月
朝鮮半島全域
満州・豆満江一帯
小西行長
と
沈惟敬
らの協議によって日本と明の間で休戦成立
日本軍は南に後退、朝鮮半島に築いた城塞に駐留
↓↑
慶長二年(1597年)の講和交渉決裂
慶長三年=万暦二十六=宣祖三十一年=1598年
↓↑
慶長の役
1597年1月〜1598年12月
朝鮮半島三南地方
豊臣秀吉死去で日本軍が帰国終結
↓↑
支那明国
李氏朝鮮
ーーーーー
「スポーツ興行」・「祭りとして奉納行事」
「相撲(すもう)=土俵の上で力士が組合って戦う形を取る日本古来の神事や祭りで、同時に武芸でもあり武道でもある(「弓取り式」の本来の意味から)。古くから祝儀(懸賞金という表現)を得るための興行として、大相撲が行われている」・・・
ーーーーー
志賀 清林
↓↑ ・・・志賀 直哉
↓↑ (1883年・明治十六年)2月20日
〜
1971年(昭和四十六年)10月21日
宮城県石巻生まれ
白樺派
小説の神様・・・?
「小僧の神様」1920年(大正九年)
雑誌「白樺」に発表
デビュー作
「網走まで」(1910年)
「或る朝」(1918年)
↓↑ 「菜の花と小娘」(1920年)
1913年(大正二年)8月15日
東京
「出来事」という小説を書き上げた晩
里見紝と一緒に
↓↑ 素人
相撲を見に行く・・・↓↑
その帰り道に
山手線の電車にはねられ
重傷を負い
東京病院(東京慈恵会医科大学附属病院)
に入院
同年10月
その養生のために
兵庫県の城崎温泉に滞在
城崎滞在中、直哉は
蜂・鼠・いもり
という3つの小動物の死を目撃
短編「城の崎にて」・・・
↓↑ ↓↑↓↑
志賀 清林
(しが の せいりん)
奈良時代の力士・行司
最高位は最手
↓↑
相撲の吉田司家や各行司家に伝わる
『相撲傳書』『相撲講本』『相撲式』
等に登場
奈良時代の
726年(神亀三年)
近江国から朝廷に出仕
相撲の技
四十八手
と
礼法
と
「突く・殴る・蹴る」の
三手の禁じ手を制定する事を
聖武天皇に奏上した人物・・・
↓↑
志賀清林
「近江國
志賀ノ里ニ
志賀清林ト云ヘル者」と
『相撲式』(吉田司家蔵)にあり
本町木戸の出身
相撲司吉田家の伝承によると
734年(天平六年)
「相撲節」の立案に携わり
相撲の公認の作法を作った
国技相撲行司の始祖・・・
↓↑
相撲
力くらべや神事
『日本書紀』
『続日本紀』に
719年(養老三年)
7月に
宮中相撲節を担当する
「抜出司」が任命された
7月7日(七夕)の
宮中行事としての相撲節会がなされたが
志賀清林は
それまで明確な作法も土俵もなく
生死を賭けた闘技であったものを
「突く、蹴る、殴る」
の三技を禁手とし
手による「なげ」
足による「かけ」
腰による「ひねり」
頭による「そり」
の四手を基本に
おのおの
十二手の決まり手を付し
相撲四十八手とした
相撲確立の第一人者・・・
↓↑
志賀清林死後
志賀家は行事の家として代々務め
平安時代末期に相撲が中断し断絶
相撲司は
吉田家(吉田司家)に移り
吉田家から
木村家・式守家により継承
↓↑
1918年(大正七年)
板垣退助碑文の
志賀清林埋骨之碑が
清林顕彰会によって建てられた
↓↑
日本国内外の同じような形態の格闘技
沖縄本島の沖縄角力(シマ)
モンゴルのブフ
中国のシュアイジャオ
朝鮮半島のシルム
トルコのヤールギュレシ
セネガルのラム
↓↑
「すもう」
「すまひ」が「すもう」に変化
「角力」、「捔力」(『日本書紀』)
「角觝」(江戸時代において一部で使用)
「力くらべ」を指す言葉
古代には
「手乞(てごい)」とも呼ばれていた・・・
(手乞とは、相撲の別名とされ
相手の手を掴む事の意
素手で勝負をする事を意味)
↓↑
英語で
「sumo(スモウ)」
「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」
↓↑
組み合う格闘技
相撲と呼ぶ
腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲、草相撲
紙相撲
↓↑
記録の最古
『古事記』の
葦原中国平定の件で
建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して
出雲の
建御名方神(タケミナカタ)が
「然欲爲力競」と言った後
タケミカヅチの腕を摑んで投げようとしたが
タケミカヅチが手を氷柱へ
また氷柱から剣(つるぎ)に
変えたため掴めなかった
逆に
タケミカヅチは
タケミナカタの手を
葦のように握り潰し
勝負にならなかった
↓↑
人間同士の相撲で最古のもの
垂仁天皇七年(紀元前23年)七月七日 (旧暦)
野見宿禰
と
「當麻蹶速(当麻蹴速)」
「捔力(すまいとらしむ・スマヰ
すまい・スマヰと訓す)」
での戦い
「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」
「各擧足相蹶
則蹶折
當麻蹶速
之脇骨
亦
蹈折其腰
而殺之」
とあり
試合展開は主に
蹴り技の応酬
最後は
宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り
更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃し
腰骨を踏み折り、絶命させた
現代の相撲とはルールも意識も異なる
武芸・武術
宿禰・蹶速は相撲の始祖
↓↑
『古事記(垂仁記)』
「ここをもちて軍士の中の力士の
軽く捷きを選り聚めて
宣りたまひしく、その御子を取らむ時
すなわちその母王をも掠取れ。
髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に
掬みて控き出すべし。とのりたまひき。
ここにその后
かねてかその情を知らしめして
悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ
また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし
また酒もちてその御衣を腐し
全き衣の如服しき。
かく設け備へて、その御子を抱きて
城の外にさし出したまひき。
ここにもの
力士等、・・・・力士=相撲取り
その御子を取りて
すなはちその御祖を握りき。
ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち
その御手を握れば、玉の緒また絶え
その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ」
↓↑
「力士=ちからひと
=すまひひと
=相撲取り」・・・リキシ?
↓↑
次ページに続く・・・
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