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2018年11月17日04:57

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我が町ー5−5 世田谷区深沢ー5 ジャー・ヒロ


 目を閉じると、数十年前の深沢が蘇(よみがえ)る。新築の家は道路に面した大きな窓の斜めの白い格子がお洒落だった。家も道路に面した部分は歯科医院の待合室と診療室で、その隣にトイレと、義歯の加工の為の、技工室があった。技工室の前に小さな和室があり、その先が居間と台所、風呂で、奥に八畳間があった。そんな2LDKの狭い家も子供時代の僕には広く大きく見えたことを思い出す。僕が小学校4年の時に大阪から東京に越した頃は本当に、昔ヒットしたテレビ・ドラマ、大草原の小さな家ほどではないが、畑の中に家がある、そんな印象の、大阪の街中で暮らした僕には、僻地に近かった。すぐ近くに梅屋さんというお菓子から学用品まで扱う田舎臭い店があり、買い物は歩いて5分ほどの市場で済ませていた。だいぶ経ってから梅屋の前に桃屋という煙草屋さんが出来た。何故か二軒は中が悪いという噂だった。やはり近くに小さなガソリン・スタンドがあり、一日中ロックンロールを流していた。家の裏手には都立園芸高校の広大な敷地があって、校門を入ると立派なイチョウ並木が厳粛な雰囲気を醸(かも)しだしていた。家の前には「深沢7丁目」のバス停があり、朝の通勤時間にはいつも人の列ができていて、家を出入りするたびに、じろじろ見られるようで嫌だった。

 その後、僕が中学生になった頃、我が家は増築して二階建てになる。技工室の前の小さな和室が削られて、そこに階段ができ、上がると、右手に両親の八畳の和室、左手の廊下に沿って、僕の部屋と妹の部屋が並んでいた。そして廊下の奥の扉を開けると、建て増した物置の上の、二畳ほどの物干し台があった。大学生の頃には、深夜ろくでもないことで出かける為に、物干し台から下りられるよう、物置の隅にさりげなく横木を打ちつけた。その頃は酔っ払い運転当たり前で、父親の車を勝手に乗り回して、例の自由が丘のバーに遊びに行ったりした。当時熱愛したバーの彼女にせがまれて無免許かつ泥酔のまま、運転させたこともあったなあ。側溝に脱輪しただけで済んだのは幸運だった。でもほんと馬鹿だね。当時でも酔っ払い運転は厳罰だったけど、まだアルコールを測定する簡易な機器がなくて、まず警官が顔色と息を嗅いで判断するという時代だったから、絶対酔わないという自信のあった僕は平気で検問に応じた。何度も無事に突破したが、一度酔っ払い運転で事故を起こし、さらに逃げ回るという事件と、息を吐いて簡易に測定できる機器が誕生したのをきっかけに「酔っ払い運転」を卒業する。
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